今はただ 眠れ
昼下がり。目の前にある紙面とのにらめっこ勝負を途中放棄したダイは、窓の外へと視線を向けた。愛らしい声でさえずりながら小鳥が2羽、仲良さそうに羽ばたき、その上空を白い雲が緩やかに流れてゆく。窓から入り込む心地よい風に煽られながら、景色を見入っていたダイの頭部に強い衝撃が走った。
「なに余所見してんだ。さっさと終わらせろ、このタコ」
室内に響くほど大きく、いっそ気持ち良いくらいイイ音をたててダイの頭を叩いた張本人は、静かに注意を促すと、手の中の書物に再び視線を戻した。一方、叩かれたダイはというと、目に涙を溜めてその箇所を両手で押さえ、痛みにひたすら耐えていた。
「……ひ、酷いよポップ! そんなので殴んないでよっ」
ダイが指した『そんなもの』とは、ポップが今手にしている厚さ5cmはあろうかという魔道書の事だ。破損を考慮されたその本の表紙は硬い材質で作られており、ご丁寧にも四方の角には、補強の為の金属がはめ込まれていた。こんなもので頭をどつかれた日には、りっぱな穴が開き、血の花を咲かせることになるだろう――常人であれば。
「あぁ? お前だから大丈夫だろ。ほれ、『ダイ、丈夫』ってな」
「いくらおれだって、そんなので殴られたら痛いよ! 面白くないギャグで誤魔化さないでよっ」
悪びれることなくさらり、と言ってのける相手にダイは半泣きで痛みを訴えた。まるで小さな子供に言って聞かせるように1から10まで説明するダイの言葉を、初めの内は仕方なく聞いてやっていたポップであったが、次第にうんざりし、仕舞いには腹をたて始めた。苛々が募り、机に乗せていた指が不規則なリズムを奏で始める。それほどダイの言葉が尤もかつ理論的であったのだが……
「――って、ポップ! 聞いてるの!?」
「聞いてるワケねーだろっ!!」
バンッ、とポップは机を叩いて声を荒げる。そんな相手の様子に一瞬きょとんとしたダイは、しばらくして盛大なため息をついた。
「聞いてないことを威張ってどーすんだよ……」
「わーったよ、謝ればいいんだろっ!? へーへー悪ぅございましたっ。これでいいんだろうが」
「……それは謝ってるのかよ」
諦めにも似た気持ちで、もう一度ため息をついたダイは、これ以上何を言っても無駄だとこれまでの長い付き合いと経験上から結論を下して、視線を机の上の紙面に戻した。
「くぉら、無視すんな」
ダイの目に鮮やかな緑の色が映る。なんだ、と思う間もなく視界が一変した。ポップが両手で頭を挟み込み、無理矢理方向を変えたのだ。ダイの意思とは関係なく動かされた首は、ぐきっ、と嫌な音をたて、ダイにさらなる痛みを与える。
「いたっ、いたた……痛いよ、ポップってばぁ」
痛みに顔を歪めながら、ダイは理不尽な行為を平気でやってのける相手の顔を見遣った。不機嫌丸出しの表情。怒り5、拗ね4、残り1パーセントは罪悪感か。頬を僅かに膨らませて睨みつけてくる相手に、ダイは喉まででかかった文句を無理矢理飲み込んだ。
人目を気にして、普段は精一杯虚勢を張り、格好つけている兄弟子が自分にだけみせる子供の部分。ダイの愛すべき一面であった。
彼の全てが眩しく見えていたあの頃。憧れと羨望はいつしか独占欲へと形を変えた。くるくると表情を面白いくらい変え、人々を和ませるムードメーカーの役割を果たし。その一方で強大な呪文を御し、その叡智で危機乗り越え何度も皆を守ってくれた。
誰よりも頼りになるこの年上の魔法使いに、ダイは恋をした。その存在全てが好きだった。けれど、ダイはそれ以上に、他人には見せない彼の弱い部分、マイナスの面が何よりも愛しかった。
今、その駄目な部分を曝け出した相手が目の前にいる。ダイは気取られないよう空気を深く吸い込んで、相手の表情を静かに見つめ返すと、次の言葉を待った。
「………悪かった、よ」
ダイの強い眼差しを避けるかのように、心持ち下げられた視線。頬が緩みそうになるのを懸命に堪え、ダイは何でもないような表情を作る。
「あーっと、ホイミかけてやっから頭かせ」
照れ隠しか、幾分大きな声をあげて引き寄せようとする彼に、ダイは慌てて腕を突っ張った。
「ちょ、ちょっと……待って!」
「あ? ンだよ」
明らかに不機嫌な声。自分の好意を止められて気分を害したのだ。マズイと思ったダイは、これ以上機嫌を損ねないためにも、相手より先に何かを言わねば……と、口を開く。
「ち、違っ……」
「何が違うんだよ。おれのホイミはいらねってか」
けれども、自分よりも饒舌な相手は、やすやすと先回りをはたして、氷点下な視線と声音でダイを責める。心の悲鳴に眉を寄せ、ダイはかぶりを振った。
「そうじゃないって!」
激しい否定の言葉にポップが押し黙る。ダイは迷ったように瞳を揺らした。そして、乾いた唇を舌で湿らせ、遠慮がちに告げる。
「お、おれ……ホイミよりもポップにしてもらいたい事、あるんだけど――」
「――で、お前のして欲しい事って……これかよ」
呆れた声が頭上から降ってくる。だが、そんな言葉も今のダイには何でもない事だった。それどころか心地よく聞こえる。
ダイの希望を叶える為、場所をベッドへと移動したポップの膝の上には、ダイの頭があった。
『ポップが撫でて痛みを宥めて欲しい。その間、膝枕してて欲しい』
それがダイの望みだった。
どういう理由からか分からなかったが、別に自分が損をするわけでもなく、誰も見ていないこの部屋で、尚且つ、ちょっとの間だけで良いという事だったので、ポップは深く考えずに了承して現在に至る。そしてダイはというと、ここぞとばかりにポップの男にしては細い腰に、しっかりと腕をまわして、降って湧いたこの幸運に喜びを噛み締めていた。
時折、疼く箇所に柔らかく触れる、ポップの冷えた手が気持ちよかった。
「つーかお前も変わってんなぁ。男の膝なんざ硬いだけでイイことなんざねーぞ?」
「そんなことないよ。おれは十分気持ちいい……」
ポップだからだと、ダイは心の中で付け加えた。他の人間なんて冗談じゃない。ポップだからこそしてもらいたいし、気持ちがいいのだから。
「ふーん……でもおれはヤだね。やっぱこーいうのは美人なお姉さんにだな……」
触れていた手が頭から離れる。僅かに顔の位置をずらして、ダイがポップを仰ぎ見れば、にへにへと笑いながら、何やら妄想を繰り広げている締まりのない顔に出遭った。あまりの可笑しさに、ダイは身体を揺らして笑う。
「なんだったら、今度はおれがしてやるよ」
「おれよかちっちぇえお前がかぁ?」
頭を乗せている膝が揺れた。と、同時に熱をもった箇所に再びポップの手が置かれる。幸せそうな笑みを浮かべたダイは、離れないよう相手の腰にまわした腕に力を込めた。
「こら、甘えん坊。力加減考えろよ。それ以上締めたら放り出すからな」
相手の笑う気配。肌に伝わる心音に耳を傾け、ダイは静かに目を閉じた。
この恋は未だひっそりと自分の胸の中で眠らせている。ただ静かに、温かく宿るこの気持ちはいつかきっと炎よりも熱く燃え上がり溢れるだろう。
だが、今はまだその時ではない。
ただ傍にいるだけでいい。一緒にいるだけで感じられるぬくもりに身を委ね、この優しい気持ちを育てていこうとダイは決めたのだ。
いつの日か……堂々とポップに想いを告げる日がくるまで。それはそう遠くない未来の事だと確信しながら――
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