注意事項:惨劇
いい加減長く湯に浸かりすぎて、僕は茹であがってしまったらしい。
風呂からあがりバスタオルで体を拭くけど、どうにも頭がふらふらして貧血みたいな症状が起きる。お陰で体にはまともに力が入らないし、下着を穿いた時点でへなへなと脱衣所に座り込んでしまった。
そんな僕を先にあがってすでに服を着ているコータが少し驚いたように見た。だけどコータはすぐに僕の傍によると脇に手を入れて僕を立ち上がらせる。
そして簡単に僕の肩にパジャマを羽織らせ、それに腕を通すように僕の手を勝手に動かしていた。
ふらふらする僕の体を支え器用に袖に腕を通すと、パジャマの前ボタンも片手で止めて行く。
「ほらしっかり立てよ。」
「……ぁ、だめ……、くらくらする……。」
「まぁったくお前、本当軟弱だな。もっと体を鍛えろよ。てかもっと飯食え。」
立ち上がらせてくれてパジャマを着せてくれたのは嬉しいけど、僕の目の前はなんというか真っ赤で、視線は定まらないし頭は酷くふらふらとした。
そんな僕をコータはくすくすとからかうように笑い、少し僕の体を抱きしめるようにしながら何か考えている。
そして小さく、よし、と呟くと何を思ったのかコータは僕の膝の下に手を差し込むとそのまま僕の体を持ち上げた。
「ぅ……わっ、わぁあ……!」
「しっかりしがみついてろよ。……てーかお前いつもどこで寝てんだ? リビング?」
「ぅ、うん……っ。あ、ぅんん、えと……母さんの部屋で……。」
僕の返答に、ふぅん、と返すとコータは僕の体を抱き上げたまま脱衣所の引き戸を器用にその足で開け、廊下に出る。途端に冬特有の冷たい空気が肌に触れ、僕は小さく震えた。
「やっぱ廊下は寒いよなー。」
「……うん……。」
一歩ずつ踏みしめるようにコータは歩きながら、恐らく僕の部屋と客間を占領している他の奴らに気がつかれないようにする為か、起こさない為か、小さな声で僕に話しかける。それに僕も小さな声で頷き、寒さからぎゅうっとコータの体にしがみついた。
そんな僕に頭上にあるコータは薄く笑ったような気配がする。
そのままゆっくりと極力足音を立てないようにコータは歩き、そして、向かって左側にある僕の母親が寝室に使っている部屋のドアノブをこれまた器用に僕の膝を支えているその手で回し部屋のドアを開ける。
部屋に入ると、ふわりと暖かい風が体に辺り漸く人心地ついた。
そして、コータは僕の体を抱き上げたまま、また器用に部屋のドアを閉めると改めて僕の体をベッドへと連れて行ってくれる。
そのコータの一連のこなれた行動を見てなんとなく普段のコータの女の子の扱いが解ったような気になった。つまりコータはこうやっていつも女の子を抱き上げて部屋に連れ込んでいるんだな、と納得する。
だけどそれは口には出さずに、僕はコータの首にしがみついたまま小さく苦笑する。
だって、なんだか可笑しかったから。
僕は男で、コータも男で。なのにこんな風にコータにいわゆるお姫様抱っこをされて、部屋に連れて来て貰うなんて、なんて少女漫画的シチュエーション。
尤も、もうエッチはお風呂の中でしちゃったし、僕達の間には恋愛感情なんて1mmもないんだけども。
それでもこの不思議な漫画みたいなシチュエーションに僕は、何とも言えない可笑しさを感じてしまう。
そんな僕の雰囲気に気がついたのかコータが僕の体をベッドの上に降ろしながら、どうしたんだよ、と聞いてくる。
「うぅん、別に。……ただ、なんかコータくんとこんな風に普通に話とか出来るなんて、なんか変な感じだなぁって思って。」
「……あぁ、まぁ、そうだな。まぁ、でも二人きりならこんなモンじゃねーの。別に俺は野々村みてーに率先してお前をいじめよーとか思ってねーし。んな事しても意味ねーし。基本いじめにも興味もねーし。……ま、ただ、野々村に逆らうと面倒だからなぁ。あいつ色々俺のヤバネタ持っててさ、それ学校側にチクられちゃ堪んねーから、仕方なしに適当に話を合わせているっつーか。」
僕の言葉にコータは少し苦笑した後、まだ湿っている前髪を掻き上げてどこかばつが悪そうな顔をして僕から視線を逸らして僕が座っているベッドの端に座る。
そのコータの言葉に、それはそうか、とも僕は少し思う。
コータ達は野々村の“命令”で僕を虐めているだけだ。あいつの命令は絶対で、こいつらはそれに逆らえないだけ。
そして前々からなんでこいつらがここまで野々村に絶対服従しているのだろう、と疑問だったけど、今コータが漏らした何気ない言葉に僕は漸く合点がいった。
つまり、コータを始め西や沢崎達は野々村に何か色々弱点を掴まれているのだろう。
だから野々村の命令は絶対で、逆らえない。
でも、その割には西や沢崎は野々村が居ない時も普通に僕を小突いたり、後ろから蹴りを入れたり、今はセックスの相手をさせたりするけど。
そう思い、僕はちらりとコータへと視線を走らせた。
コータはベッドの端に座ってぼんやりと暗闇に浮かぶ部屋の様子を見ているようだった。
そんなコータを見ながら、そう言えばコータは野々村に言われなければ僕に危害を加える事はほとんどなかったっけ、そんな事を思い返す。
多分コータに取って“いじめ”と言うのは本人も言うように大して意味も興味もないのだろう。
それでも大将に命令されれば、ヤバいネタを掴まれてて逆らうと面倒だから、って理由で僕をあんな風に殴ったり、蹴ったり、小便をかけたり出来るんだから、人間っていうのは本当に長いものには巻かれる生き物なんだって言うのが良く分かる。
そんな事を思いながら僕がじぃっとコータの横顔を見ていたせいか、コータは少しだけ唇を尖らせ、僕に視線を戻してきた。
「……笹川じゃねぇけどさ、お前にはわりぃ事したな、って思ってんだよ。俺だって。」
「……!」
「ま、そりゃー、今更、野々村の命令だって言い訳して俺の本心じゃなかったっつっても、お前は納得出来ねーだろうけどさ。実際お前を殴ったりすんのを楽しんでた時もあった俺が言っても納得出来ねーのし、許さねぇのも無理ねぇ……。」
「待って! 今、笹川くんも僕に悪いって思ってる、って言った?」
「へ? あ、あぁ……。」
ぼりぼりと頭を掻きながら言い難そうにコータは僕をいじめていた事への後悔をその口に乗せる。
だけど僕はコータの後悔よりも、その前にぽろっと漏らした言葉に引っ掛かり、思わずコータの顔をマジマジと見る。
すると僕のその視線をコータは、コータがしてきた悪行に対しての非難だと受け取ったらしく、ますます表情を曇らせながら僕への贖罪なのか言葉を続けていたが、僕はその言葉を止めて口を挟む。
その僕の剣幕にか、言葉にか、コータは面食らったような顔をしながら言葉を濁しながらも、頷く。
そんなコータに僕はベッドの上をコータの方へと移動すると、下からコータの顔を覗き込むようにしてその顔を見た。
「笹川も、僕に悪い事した、ってコータくんに言ってたの? それはいつ? 行方不明になる前? 後?」
「……。」
ゆっくりと確かめるようにそうコータに聞く。
その僕の確認に、コータは今更ながらに少しだけ、しまった、って顔をしてまた僕から視線を逸らして前髪を掻き上げる。
だけど僕がその顔をじぃっと見上げていると、コータは諦めたのか小さく溜息を吐くと、僕へと視線を戻す。
「……笹川が失踪した直後に、あいつから一通だけメールがあったんだよ。」
「どんな内容だったの?!」
言い難そうに言うコータにそれでも僕は食いつき、コータのシャツの裾をぎゅっと掴んで先を促す。
そんな僕にコータはなんとも微妙な顔をして見下ろした後、視線をくるりと回して思いだすような仕草をした。
そしてややあってコータはゆっくりと口を開く。
「……あーと、確か、『俺は少しお前らから離れる。野々村にはもうついていけねぇ。それと、後、悪いが幸田にはお前から俺が謝ってたと伝えてくれ。いじめて悪かったって。コータにも迷惑をかける。それから、たな』……。」
「それから、たな、……?」
「……それだけだ。」
「……え……?」
記憶を呼び戻しながら話をしたせいかコータは一度言葉を止める。
それを僕がオウム返しに聞き返すと、困ったような顔をしてコータは目を泳がせた後、僕に視線を戻してそう言い切った。
『それから、たな』?
『たな』?
『棚』?
棚に何かあるんだろうか?
そしてどこの棚なんだろうか?
全くメールの意味が解らなかった。
笹川の奴、一体何を伝えたかったんだろう。
まさかそんな中途半端な所でメールが途絶えていたなんて信じられなくて、僕は唖然とした声を出した後、コータのシャツを更に強く握りしめ、体をコータに近づける。
そしてコータの顔を近距離で穴が開くほど見つめ、その真偽を見極めようとした。
だけどコータの表情に浮かぶ困惑はまぎれもなく本物で。
僕は何とも言えない脱力感に襲われた。
「……なんだよ、それ……。なんでそんな中途半端な……。」
「俺だってわからねぇよ。なんでこんなトコでメールが切れてるのかなんてよー。『たな』とか言われても俺にゃ意味なんてわからねーし。」
僕が呆然と呟いた言葉に、コータも同意を示し、顔に浮かぶ困惑が更に濃くなる。
そして、あいつが何を考えてんのか俺にもわかんねー、と呟くと、ベッドの上にコータは仰向けに寝転がった。
「……笹川くんはどうしてそんなメールをコータくんに送ったんだろう?」
「はぁ? そんなの、俺が知るかよ。」
「だって、僕に謝りたい、ってその程度の内容が伝えたかったのなら、僕に直接送ればいいじゃないか。」
「……あぁ。」
寝転がったコータの顔を上から覗き込みながら僕は純粋な疑問を口にする。
すると少しだけ険の混ざった低い声でコータが僕の言葉を素っ気なく返す。だけどそんなコータに向けて僕は唇を尖らせて少し拗ねたように言うと、コータは軽く上体を起こしながら、その事か、とでも言うように苦笑いをし、小さく頷いた。
「だから言ったろ。あいつはあーみえて意外に照れ屋だって。お前に直接謝るのがハズいんじゃねーの。」
「……そうなのかな……。」
コータの言葉に僕は納得がいかないというように小さく溜息を吐くと、コータの顔を覗き込む為に屈めていた体を起こしベッドの上にそのまま座る。
もし、コータの言った通り僕に直接謝るのが恥ずかしいんだとしても、なんだか納得がいかなかった。
大体、なんであんな中途半端な所でメールが切れているんだろう。
コータに何かもっと重大で大切な事を言いたかったんじゃないんだろうか、そんな事を思ってしまう。
まぁ、尤も笹川の頭で小難しい事を伝えるとは思えないから、本当にどうでも良い事なのかもしれないけど……。
そうは思っても、やはり何かが引っ掛かった。
ちらりとコータに視線を戻すと、コータは左腕で頬づえを突いた体勢で横を向き、僕の顔をじぃっと見ていて少しだけびっくりする。
「何……?」
「お前さぁ……、実際の所、どーなの?」
「? 何が?」
真顔で見られる事に何故か少しだけ恥ずかしさを覚え、僕はちょっとだけ視線をコータから逸らす。しかし、すぐにコータが聞いてきた言葉の意味が解らず、視線をコータに戻すと小首を傾げた。
そんな僕にコータは苦笑をすると、頬づえをついていない方の手を僕へと伸ばしてくる。
そのまま僕の腕を掴むと勢いよく引き寄せた。
驚き、声も出せないままにコータの腕の中に引き寄せられた僕が気がついた時には、コータの顔が自分の上にあり、その早技に二度驚く。
「え……、な、何……?」
「本気で笹川の事何とも思ってねーワケ?」
「……あ、当たり前じゃないか。あいつの事は、嫌いだって……さっきお風呂でも何回も言ったじゃん。」
「ふぅん……。」
僕の真上で僕の体をベッドに押し付けながらコータはまじまじと僕の顔を見た。
そんなコータに僕はどう反応していいのか戸惑い、コータのどこか納得していないとでもいうような顔をおどおどと見上げる。
コータは僕の顔を本当に穴が開きそうなくらいまじまじと見下ろし、その整っている眉をひょいっと持ち上げた。
そしてコータはにやっと嫌な顔で笑うと、そのまま僕の唇にその唇を強く押し当ててくる。
コータからのキスに僕は風呂場同様、また驚いてしまう。
頭の中もあの時同様に、なんで?、という疑問符で埋め尽くされ、唇に感じる熱さに戸惑いを覚えた。
だけど、さっきの事があったせいか、僕は唇が触れた瞬間少し身じろぎして体を固めただけで、コータの腕から逃げようとは思わない。
ただ、何故コータがこの話の流れでキスをしてきたのか、その理由を考えていた。
だけど僕の頭はすぐにコータのキスで、思考する事さえも放棄してしまいそうになる。
コータの唇が僕の唇をなぞるように動く。そして、そのままコータの唇の中から熱い舌がちろりと出てくると、僕の唇をその先端で薄く舐め上げた。
そのコータの舌に僕の体は僕自身の意志とは関係なく、ピクリ、と小さく跳ね、口からは微かな声が漏れてしまう。
ゆっくりとコータの舌が僕の口の中に侵入してくると、体に走る電流の量は確実に増えていく。
とことんまで自分の体が男に感じるようになっているというその事実に情けなさを感じる。
だけど、コータのキスは本当に巧くて。
触れ合っているその部分から溶かされそうな錯覚まで覚えてしまう。
「ん……っ、は……ぁ、む……っ、はぁ……っ、ちゅ、く……っん。」
とろとろとまどろみにも似た気持ち良さがコータと触れ合っている唇から全身に広がり、僕の体は完全に弛緩していた。
コータに押さえつけられている筈の両腕も、抵抗もなくそのままベッドに力なく沈み、そのシーツを軽く握りしめている。
お陰で気がつけばコータの手も僕の腕から離れていて、代わりに僕の体の上を這っていた。
「……っ、ん、こーたくん……。」
コータの手が体を這い始めると、コータの唇は名残惜しそうに僕の唇から離れる。
それに僕は少しだけ不満を交ぜた声でコータの名を呼び、閉じていた瞳を持ち上げた。
目の前にはコータの顔。
暗闇に目が慣れた今では、その目鼻立ちさえもはっきりと僕の目には映っていた。
コータは整った顔を真面目に引き締めて僕を見下ろしていて、さっきまでの溶けるようなキスと目の前にあるコータの真面目な表情のギャップに少し驚く。
僕の驚きにコータは口元を苦笑の形に歪めると、口を開いた。
「素直になれねーのは解るけどよ、お前、自分の感情いい加減認めた方が楽になるんじゃね?」
「っ、な、なんの事……っ?」
コータに言われた言葉の意味が解らず、僕は戸惑う。
目の前にある真面目になっただけに凄みを増したコータの顔におどおどと視線を向けると、コータはひとつ溜息を吐いた。
「なぁ、幸田。もし、……もしだが。」
「?」
コータは何度も僕に仮定の話であるとまた念を押してくる。
風呂場での会話もそうだけど、コータはなんでこんなにも僕に仮定の話ばかりして僕に何が聞きたいのだろうか。
それでもコータが何かどうしても僕に聞きたい事があるというのなら、僕はそれを聞いて答えが出なくても、僕なりの考えを言わなければならない。そう思わせるほど、今僕を見下ろしているコータの表情は真剣で、切羽詰まったものを感じさせる。
「もし、お前が素直になってあいつへの感情認めさえすれば、ひょっとしたらあいつが帰ってくるかもしんねぇとしたら、どうする?」
「……え……?」
真剣な表情で僕にそんなあり得ない可能性なんかを示す。
あまりに突拍子もない質問に、僕はさっきよりも更に戸惑い、おろおろと視線をコータの顔から暗闇が覆っている天井を彷徨わせる。
僕が素直になって……だなんて、そんなの、意味わかんない。
お風呂での事も、そしてさっきもそうだけど、僕はもう何度もコータには笹川の事は嫌いだって言ってる。
それなのになんでこんなに何回も、何回もコータは僕の言葉を信じずこんな風に聞いてくるんだろう?
コータの意図が全く解らなくて、僕はまた同じ答えを口にするべきかどうかを悩む。
きっとコータは僕に、笹川の事が好きだ、とか、あいつが居ないとダメだ、とかそんな事を言わせたいんだろうな、と思う。
だけどそれをコータに言って、一体何が変わるというのだろう。
コータに今それを言って、笹川が何もなかったかのようにひょっこりここに帰ってくる、僕の前に顔を出してくる、なんて事があるのだろうか……。
解らない。
全然、コータの聞いてくる意図が解らなかった。
「……なんで、何度も何度もそんな事、聞くの……?」
「……。」
「素直になれ、なんて言われても意味わかんないよ。僕と笹川は、うぅん、少なくとも僕はあいつとは体だけの関係だった。あいつを使って、一時だけ野々村達のいじめから気を紛らわす、それだけ。それ以上でも、それ以下でもないよ。笹川が僕の事をコータくんが言うように好きだったとしても、僕は……、あいつの事なんか……、っ。」
なんでこんな言い訳を口にしているんだろう。
自分で口にしている言葉に、自分でも激しい言い訳臭さを感じてそこまで言うと僕は口をつぐむ。
そんな僕に、目の前に居るコータはなんとも言えない複雑な顔で僕の顔を見下ろしていた。
「やっぱ素直にゃなれねーか……。」
「っ、だからっ、素直って何?! コータが僕に何を聞きたいのか、言わせたいのか、僕には解らないっ! 試すような事言うの、止めてよ!!」
小さく諦めの溜息を吐いたコータに、僕は自分勝手だと思いながらも声を荒げる。
するとコータは少しだけびっくりしたような顔をして僕の顔をまじまじと見下ろした後、もう一度溜息を吐いた。
「お前ってば意外に気が強いんだな。」
少し感心したような口調でそう言った後、コータはまた顔を引き締める。
そして、何かを思案するように視線を彷徨わせると、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ、もう一つ質問。」
「……。」
「もし、お前が素直にならない事で、今夜取り返しのつかねー事になったら、どうする?」
真剣な表情で聞いてきた事は僕の想像の斜め上を遥かに超えていた。
あまりにも抽象的な質問に僕は返す言葉など思い浮かばずに、唖然として目の前にある引き締まっているコータの顔を見返す。
そんな僕にコータは困ったような顔をすると、頭をぼりぼりと掻いた。
「……意味わかんねぇよな、こんな質問。だけど、なんか嫌な予感がするんだよ。」
嫌な予感?
なんだ、それ?
第六感って奴?
そう思う。
そしてその思いは思いっきり顔に現れてしまったようだった。
コータは僕の顔を見て、その唇に苦笑を色濃く浮かべる。
だけど僕を非難することなく、どこか物悲しい色を瞳に浮かべると、もう一度僕の唇にその唇を押し当ててきた。
薄く触れ合い、すぐに離れたそれは、あまりに頼りないキスで、今までのコータのキスとは明らかに異質なキスだった。
一体この短時間に突然コータの心中にどんな劇的な変化が訪れたのだろうと、僕は思う。
それでもコータは僕が気がつかなかった、何かに気がついて、それで僕にそれを伝えようとしているのかもしれない。
そうは思うけど、コータの言う事はあまりにも漠然としすぎていて、僕は困惑する。
そんな僕にコータもまた困ったような顔をした後、視線を辺りに彷徨わせながらコータは左手の親指の爪を苛立ったように、いや、怯えたようにその歯で噛む。
暫くそうしてガジガジと爪を噛んだ後、視線を僕に戻すと口を開いた。
「あのさ、変な事聞くけどよ。……お前、秀一に笹川との関係、どう伝えてた?」
「え……? 秀一……? 誰?」
話があちらこちらに飛びすぎてもう何が何だか解らない。
それでも解らないのは僕だけみたいで、コータの中ではさっきまでの話と今の質問は繋がっているらしかった。
困ったような顔で笑い、コータは視線を部屋の中へと走らせる。
「俺、ぶっちゃけ信じられねぇんだよ、あいつの事。」
「? コータくん……?」
そわそわとどこか焦ったように視線を動かし、コータは何か不穏な空気を嗅ぎ取っているのか僕の声なんか届かないかのように一人でぶつぶつと呟き始めた。
「あいつは、笹川は害悪だって言ってた。お前を誑かした酷い奴だって。だけどさ、笹川からのメール見た限りじゃあいつはお前にベタ惚れだった。お前から話を聞いて、それは確信に変わった。それにお前から笹川を誘ったって話も聞いたしな。だから、俺、あいつが言ってた言葉が信じられねぇんだよ。」
「……。」
何か今、コータは重大な事を言っている。
秀一、と言うのが一体誰を指し示しているのか、今の僕にはピンとは来ない。
だけど確実に僕が知っている誰かの事だというのは解った。
そして、何かにコータが突然怯え始めたという事も。
「あいつがお前に固執してたのは、もうずっと前から知ってた。だけど、まさか、違うよな……。違うよな……秀一。あれは、冗談で言った言葉だよな……。」
コータの中では色々な事が高速で回り始めたらしい。
僕には解らないなんらかのジグソーパズルのピースを高速で頭の中で組み立てているように、コータが自分の親指の爪をガジガジと齧りながら、瞳を戸惑ったように、怯えたように左右に揺らす。
そんなコータに僕はなんて声をかければいいか解らず、ただ、コータの下でコータが零す言葉の欠片を拾って自分で解る範囲でその欠片を合わせて行く事しか出来なかった。
だけどコータはある瞬間、ハッとした顔をすると、僕の顔をまじまじと真剣な顔で見下ろした後、突然、僕の体をぎゅっと抱きしめてきた。
え、と思っているとコータは僕の耳に小さな声で、わりぃ幸田、俺が間違ってた、そう深刻な声で囁く。
その囁きと、コータの背後に人の気配が現れたのは同時だった。
暗闇の中、全身黒で固めたその人型は、闇の中でも尚キラリと反射する何かをその手に持っている。
僕が声を上げようと口を開くと、その口をコータがその手で押さえた。
そして、僕の耳に小さな声で、俺が盾になるから隙を見て逃げろ、なんて言う。
僕にはもう一体何が何だかわからない。
状況がひとつとして正確に把握できなかった。
コータの背後に立っている人型は、暗闇の中、それでも僕に向けて微笑んだような気がする。
その笑みに僕はコータの手のひらに向けてくぐもった悲鳴を上げた。
そして、その悲鳴を上げた瞬間。
コータの肩に向けてそのキラリと光る何かが振りおろされた。
コータが僕を抱きしめたまま、何か小さく唸る。
そして、僕の顔に何か生温かいものが一気に飛び散ってきた。
むせかえる様な鉄の嫌な匂い。
吐き気を催すような、濃厚な、血の、匂い……。
それを認識した瞬間、また僕の喉からは声にならない悲鳴が上がった。
だけどその声はコータの漏らす呻き声と重なり、更に濃厚な血の匂いがコータの肩から僕の顔面に振ってくる。
僕の髪も、額も、まぶたも、コータの血の匂いがこびり付き、僕は何がなんだか解らない状態に置かれた不安と、今、目の前で行われている惨劇にコータの腕の中でガタガタと震え続けた。
しかも黒い人型はある程度コータを刺して満足したのか、まだ小さく呻き声を上げているコータの襟首を掴むと、まるで等身大の人形をその辺りに捨てるかのように無造作にベッドの下へと落とす。
どさり、と重い肉の塊が落ちる音を聞きながら、僕はガチガチと歯の根を震わせながら、それでもどこか冷静な部分が、あぁ次は僕の番だ、なんて事を思っていた。
誰だか解らないその殺戮者と闇の中に対峙し、改めて自分の無力さを痛感する。
とことん僕の人生はついてない。
いじめの次は、通り魔だか強盗だかなんだか解らないけど、こんな奴に殺されるなんて……、そんな事を思うと、とてつもない悔しさが心に湧き上がる。
だけど、目の前に居るコータの血糊をべったりと付けた光るナイフを持っている奴に今の僕は抵抗できる術なんてどこにもなかった。
それでもこんな死に方なんて嫌で、恐怖で凍りついている頭脳をフル回転させる。
でも、出てきた答えは、泣きながら命乞いをするっていうのと、さっきコータが言ったように、隙を見て逃げる、位で。
そのどっちも今の僕には出来そうにない事だった。
そしてそれが出来たとしても今目の前に居る奴には通用しそうにない。
そんな僕を嘲笑うかのように目の前に居る殺戮者は、僕を見てにたりと黒いフードの向こう側で口だけを歪めて笑う。
そして、ギシッ、と音を立ててベッドの上に登ってきた。
あぁ、もうダメだ……、終わりだ。
そう思う。
せめて一突きで殺してくれ、そう念じながら僕は観念したように瞳を閉じた。
だけど、なかなか殺戮者の刃は振ってはこない。
気が変わったのだろうか、そう思っていると、僕の耳にコータの声が飛び込んできた。
「こ、ぅだ……っ、逃げ、……ろ……っ!!」
「!?」
暗闇の中でもはっきりと解る程その着ていたシャツを血まみれにしたコータが、今まさに僕にその凶器を振りおろそうとしていた犯人の腰にしがみ付き、振り上げているその手を掴んでいた。
僕はそのコータの声と行動に弾かれた様にベッドの上に体を起こすと、コータの言葉に従って逃げようとする。
だが犯人は体を捩じりコータの体を突き離そうとしていて、背中に大量の刃を受けているコータはその殺戮者の力には敵わないみたいだった。
「……っ!!」
掴まれていない方の手で凶器を掴んでいるコータの手を握り締めると、そいつはコータの体を力任せに自分の体から引き離す。
そして、僕の目の前でコータに向けて振り上げたナイフを、振り、降ろした。
「……っ、ぐ……っ!?」
コータの肩にぐっさりとそのナイフが突き刺さったのが見える。
そしてその刃を抜いた瞬間、噴水のようにコータの肩から血が噴き上がるのを僕は見た。
なんで……、なんで、こんな事に……?!
逃げようと体を起こしていた僕は、目の前で繰り広げられている殺戮に呆然としてしまい、結局コータの行動を無にしてしまう。
「……やぁあああ……っ! コータ、く……っ……!」
足から崩れ落ちるようにベッドの向こう側に消えていくコータの姿に思わず僕は、手を伸ばしてその体を助け起こそうとする。
だが、その手がコータの体に触れる前に、殺戮者がくるりと僕の方に向き直った。
「……残念だったな。」
深くフードをかぶり、その口元は大きなマスクで覆われているその犯人は、マスクの向こう側で口元を歪な笑みの形に歪めながら、そう僕に向けて低い、くぐもった声でそうまるで揶揄するように言う。
その声に僕は改めて自分の置かれた状況を思い知らさせ、さーっと顔から血の気が引く。
僕の顔色が変わったのが、目の前に居る殺戮者にも解ったのか、唯一見えているその眼を半月の形に細める。
そして、ナイフを持っていない方の手で僕の肩を掴むと、そのまま僕の体をベッドの上に押し倒した。
「……っ……!」
「くく……。」
ベッドに押し倒され、これから自分がどうなるかを考えると、喉の奥で引きつれた悲鳴が上がる。
そんな僕に殺戮者は低く笑うと、僕の頬にそのナイフを押し当ててきた。
ひんやりとした感触と、ねちょっとした感触が同時に頬に感じる。
冷たいナイフの感触と、恐らくコータの物であろう血の感触に僕の体がまた更にガタガタと震える。
そんな僕を見下ろしながら、また殺戮者は笑ったような気配を感じた。
「……だ。」
そして殺戮者は小さく何かを呟く。
その声はあまりに小さくて、口元を覆うフードに遮られてかくぐもっていて僕には一体こいつが何を呟いたのかは聞こえなかった。
だけど聞き返す訳にもいかず、僕は固く瞳を閉じると、僕の上に馬乗りに乗っかっている殺戮者が僕を殺すのを待つ。
しかし、やっぱりなかなか頬に当てられているナイフは外されず、その代わりにゴツイ手袋を嵌めている手が僕の体を触り始めた。
その意図が掴めず、僕は更に身を固くして動けなくなってしまう。
相変わらずそいつは僕の体を手袋越しに撫で、何やらぶつぶつと口の中で呟いているようだった。
「……み、き……子だね。さ…………だじゃなく、……げ…………か…………だか……なんて。どれ…………くや…………したか……。……の……もち……、本………………えた事…………な…………? あぁ、……にワルイ……だ……、きょう……君を…………変わらせてあげる。」
ところどころは漏れ聞こえてくるが、単語ではなく言葉の切れ端のようなもので全く意味なんて掴めない。
ただ、最後の所だけ、何かを変わらせてあげる、そうくぐもった声で言った事だけは解る。
だけど、それが何の意味があるって言うんだろう。
もう僕はここで死ぬんだ。
ほらその証拠に僕の頬に押し当てられているナイフが徐々に徐々にそこから離れていく。
どうせつまらない人生だったんだ。
まだ17年しか生きていないけど、大して幸せだった記憶もない。
このまま生きていたって、僕の計画していた復讐が成功しない限り、野々村達のいじめからは逃れられない……。
そこまで思って、ハッとした。
そうだ……。
この家には確か野々村達も居たはず。
あいつらは一体どうしたんだろう。
この侵入者に気がついて逃げたのだろうか。
それとも。
今、このベッドの下に転がっているコータのように……。
そこまで考えて僕はあまりの恐ろしさに思考を無理矢理停止させる。
ひょっとして、隣の客間も、僕の部屋も、あいつらの血液で赤色に染まっているんだろうか。
もしそうだとしたら。
僕は僕の復讐を果たせないまま、あいつらをどこの誰とも知れない奴に横取りされて、消されたって事か……。
停止させようとした思考は、だけど、また勝手に回転を始め、そんな事を想像してしまう。
すると僕のそんな想像を見透かしたのか、僕の上に乗っている殺戮者は僕の頬をビタビタとそのナイフで叩いた。
ひっ、と喉の奥で小さな悲鳴が漏れる。
そんな僕をそいつは酷く楽しんでいるようで、低くくぐもった声で笑う。
「……怯える顔もいいもんだ。他の奴らは寝入っていたからつまらなかったしな。」
そしてさっきまでの僕の想像を決定づけるような事を目の前の殺戮者はぼそりと漏らした。
その言葉に思わず僕は瞳を開けてしまう。
暗闇の中、目の前にある殺戮者のぎらぎらした目が僕を射るように見据えていて、僕はまた小さく喉の奥で悲鳴を上げる。
そんな僕に殺戮者はくすりと笑うと、そのぎらぎらした目を細めた。
そして、体を折り曲げるようにして僕の顔にその顔を近づける。
犯人の顔は口元をぴったりとフィットしたマスクで覆われ、ゆったりとしたフードを深々と被っている。だが、反面その眼だけはしっかりと出ていて、僕の顔を細めた瞳で見下ろしていた。
「……ごめんね。」
僕の怯えた瞳を見下ろし、ふと、そいつは憐みの色をその瞳に浮かべ、そして僕に謝る。
だけど次の瞬間その手に握っていたナイフは大きく振りかぶられ、僕に向けて振りおろされた。
凄まじい激痛が僕の体を襲う。
そいつが振りおろしたナイフは僕の耳をこそげ落とし、ベッドへと刺さっていた。
耳から激痛とともに、どくどくと生温かい液体が溢れ出るのを感じる。
痛みに僕の体がびくんっと大きく跳ね上がり、そのままのたうちまわりそうになった。
だが、殺戮者に体重を乗せるように上に乗られ、挙句にその殺戮者の足が僕の肩を押さえこんでいる。
悲鳴を上げ、僕が耳を押さえようと手を上げると、その手に向けてベッドから引き抜いたナイフが一気に突き刺さった。
「ひ……っぎゃあぁああああ……っ!!!!!!」
ぐっさりと手のひらに鋭いナイフの先端がめり込み、骨を貫通して手の甲へとその先が出ていく痛みに僕はあらん限りの声で悲鳴を上げる。
だが、その悲鳴はすぐにそいつの手によって押えられてしまう。
そして僕の手のひらから苦労しながらもナイフを引き抜くと、そいつは僕の見開かれた目を見下ろしてにたりとその眼を嫌らしく歪ませた。
そして。
三度目の凶刃が僕へと襲いかかった。