開けてはいけない3 (2008.03.02)
冷蔵庫に眠る生卵
前スレから、どれだけの年月が過ぎ去っただろうか。
あいかわらず、私には冷蔵庫を開ける勇気がなかった。
古びた木造アパートの住人は一人去り、二人去り、ついには私ひとりとなっていた。
家主はアパートを閉鎖したがっている。私も、いいかげんフロ付きの部屋に引っ越したくなっていた。
よし、掃除をしよう。新しい住居に引っ越すためにも。
このようにして私は、資料やら黒歴史ノートやら手紙類などをとにかく捨てまくったのだ。
するとどうだろう、二千年の瓦礫に埋もれていたトロイアが姿を現したかのように、冷蔵庫の正面はいつのまにか視界良好となり、その美しき白の裸身をさらけ出していたのである。
私の記憶が正しければ、その中には 買ったばかりの生卵が、卵ポケットに入れっぱなし のはずだった。
おそらく生卵だけだ。他にはなにもない。そうであってほしい。
正直、それ以上は想像したくなかった。
なにしろこの冷蔵庫、一年半ほど前に突如異音を発しはじめたがゆえに、電源を抜いて無期限の営業停止処分としていたのだ。
記憶違いでそれ以外のものが収納されていたら、すでにコールドスリープから解き放たれた有機物たちは、時を得たとばかりに、大腐海コロニーを繁栄させてしまっているはずだ。
幸いにも、今日までパッキンのスキマから赤く腐った粘液が私の足下を浸すことはなかったし、脳が焼け付くような異臭が感じられたこともない。
つまり私の記憶は正しかったのだ。中には生卵しかなかった。
そして、博識なとしあきたちによれば、「生卵なぞ冷蔵庫の乾燥力によって、水分が消え失せて、すっかりカラッポになっているはず」だという。[参考スレ]
ならば、恐れることは何もないではないか?
さっさと開けて、乾いた遺物を引きずり出し、捨ててしまえばいい。
ついでに私の積年の思い煩いも、東京都指定のゴミ袋に入れてしまえばいい。
しかし、いざ冷蔵を開けようとする私の手は、取っ手を握ったまま、しばし震えていた。
恐怖している――? この私がなぜ? 野生のカンが何かを警告しているのか?
いやそれは、単に締め切った扉のパッキンが癒着していただけだった。
何度も力を入れると、ついには、みりみりみりとイヤな音を立てて、冷蔵は手前に開かれていった。見えた。白きタイムカプセルの中身が。
おお! おお、なんという光景であろうかっ。

すっかり、収納物でいっぱいダッ!
幸いなるかな、ほとんどが瓶詰めで、腐敗臭は一切無く、汚染された形跡もほとんどなかった。
しかし……生卵。パックごと中に入っていた、生卵。かなりモロくなっているらしく、床に置いた時点で、一部が崩壊し、茶色いなにかが潜んでいるのが見えた。うつろな目が、私を見ていた。
恐怖心を振り払って、私は中身を流しへとぶちまけた。
ステンの底をすべり、かつて卵であったものがカコンカコンとぶつかり合う。その音は、まるでビリヤードの球だった。おそろしく硬い何かに変貌をとげている。
しかしカラのほうは、爪楊枝で切断できるほどモロくなっていたのは確かである。

たたき割られた卵は、かつおぶしダシのような臭いを一瞬だけ放っていた。
彼らは、卵だった証を残そうとしたのか、己を結晶のごとく変質させ、きらきらと輝いていた。
……まるで、ピータン。もっと萌えっぽく言えば、ぴぃたん、か。
ちょっと、イメージソングでも歌ってみよう。
♪ぴぃたん、たんた、ぐろぴぃたん♪
これはいけます。
気がつけば、剥がれたカラの裏側にも、血のように真っ赤なシミがこびりついている。
これを食えって? 冗談じゃない――。中に入った1枚の紙切れが、そのパック日を語っていた。

……96年1月17日。今は2008年3月。
善光寺のご開帳は七年に一度といわれるが、こちらはなんと12年の春秋を経ていたのである。
そして、卵と生き死にをともにせんと、冷蔵庫の中に踏みとどまった勇士たちもまた、見るも無惨な姿に変わり果てていたのだった。

ひからびてゴミのようになったキムチ、ジャムのようになったマーガリン、何かが噴き出したかのように怪しくサビている缶詰……。
しかし、腐っても缶詰。表面こそ汚れてはいるものの、いざ、開けてみると中身はまともだった。缶詰、マジ強い。
あと「60日間保存可能」な絹ごし豆腐。名前に偽りあり!
全然、腐ってなかった。
食べてないけどな(プラシーボ効果だけで腹を壊せるわい)。
話をまとめよう。
この日の体験はひどく鮮烈だった。と、同時に、冷蔵考古学的にも、広く記憶にとどめておくべき貴重な事例ともなっている。
この記事を読む人々よ、俺よ、「」よ、としあきよ、最後に心して聞いてほしい。放置した生卵は、決してカラッポにはならないのだ。
現実世界のドライな風に絶えず吹きさらされていると、どんどん心が空虚になり、中身のなくなった自分が、世間の重圧に押しつぶされていく恐怖が襲われることがある。
そんなときは、この卵を思い起こして欲しい。
中身はむしろ圧縮されて、より濃く輝く存在に変化していた、この卵を。
あなただって、決してカラッポではないはずだ。