フィルムカメラ事始

 京シオリがアパートに帰ってくると、管理人に呼び止められた。
「京さん、小包お預かりしてますよ」
「ありがとう」
 管理人が渡してくれたのは、親類から送られてきた小さいのに存外持ち重りのする小包。自室に戻って開けてみると、出てきたのは銀色の金属外装の古めかしい35mm一眼レフカメラだった。名前はオリンパスOM-1。
「一眼レフの最大のメリットは構築されたシステムの下であらゆる撮影ができることであり、そのメリットを活かすためには小型軽量でなければならない」
 というポリシーで作られた、小型軽量が身上のカメラである。現行のデジタル一眼レフより一段と小さくまとまっていて、それでいて大きなファインダーの倍率と使いやすいユーザーインターフェースで一世を風靡したカメラだった。レンズは純正のズイコー35mmF2.8が付いている。荷物の中にはカメラと一緒に封筒が入っていて、中の便箋にはこうあった。

「先日物置を整理していたら出てきたカメラです。私達はもう使っていないカメラですが、写真が好きなシオリなら大事にしてくれると思って送りました。どうか大切に使ってくださいね」

 シオリはファインダーを覗いてピントリングを回して、ボケたファインダー越しの世界がくっきり浮かび上がってくるのを見たり、フィルム巻き上げレバーを巻いてパシャンとシャッターを切ってみたりした。
「うん、昔のカメラもいいね。ファインダーを見た感じとか手触りや動かす感じが違うもん。それに……」
 シオリは左手側にある露出計のスイッチをオンにしてみた。ところがファインダーの中にある露出計のアナログの針はピクリとも動かない。さらに悪いことにこのカメラの電池は今はもう製造されていない水銀電池で、これまた安くないアダプターを買わないと現行の電池は使えないようになっていた。
「露出計は使えないのか。シャッターはどうかな? もう一度切ってみよう」  シオリはレンズマウント周囲のシャッターダイヤルをカチカチと回して、1秒に合わせてシャッターを切ってみた。
 ジーッ、パシャン
 スローの作動音と共にシャッターはスムースに切れた。どうやら精度は狂っていないらしい。
「これならフルマニュアルで使えそうだな。失敗は許されないって緊張感がついて回るけど……でも昔はみんな単体露出計か、経験と勘で露出を合わせてた訳だし、明日昔の人を見習っていっちょ使ってあげますか」
 シオリはフィルムを買いに行くために、改めて外出の準備を始めた。

「うーん」
 翌日、果たしてシオリの実家からシオリの元へとやって来たOM-1は、写真部の机の上で困ったような顔の瀬名ユカリにジッと見られていた。そこへ親友の相原ハルカがやって来て、
「どうしたの、ユカリちゃん」
「このカメラね、京先輩が『フィルムカメラで撮ってみたいなら使ってみない?』って言って貸してくれたんだけど……」
「使い方が分からないの(私はこういうカメラってさっぱりだけど)?」
「使い方? それなら分かるわよ。レンズの付け根にあるリングがシャッタースピード調節で、レンズの先にあるのが絞りリングってのは見れば分かったし、先輩に使い方は軽くだけど教えてもらったもん。フィルムも教わった通りもして入れてみたわ。で、それをどうすればいいのか教えてもらおうとしたら先輩の携帯が鳴ってね、先輩ったら楽しそうに話してたと思えば『ごめん、デートの約束忘れてた。後は自分で適当にやって』って言ってそれっきり出て行っちゃったわ」
 膨れっ面のユカリ。一宮ユイというステディがいながら次から次へと他の女の子に粉をかけているシオリの節操の無さがユカリは嫌いだった。
「露出計は電池が無いから、絞りとシャッターの組み合わせは自分で考えないと撮れないし……あーあ、これじゃ使えないわよ。露出を決めるための手がかりが無いんだから」
「いいえ、そうとばかりも言えないわよ」
「「一宮先輩……」」
 もう一人の先輩が突然登場して、ハルカとユカリは驚いた。ユイは傍らにあったフィルムの箱を開けて、その内側に印刷してあった表を見せた。

シャッター速度1/250の場合の絞り値
快晴の海・山
快晴
F16
F11
晴・薄日明るい曇曇・日陰
F8
F5.6
F4


「これがISO100のフィルムでの露出設定の目安なの。とりあえずこれだけ覚えておけば、お日様が出てる間はちゃんと撮れるわよ」
「そんなに単純なものなんですか? オートで出る露出はいつもマチマチなのに」
「あら、これで写らないなら絞りとシャッターの組み合わせが一つしかない『写ルンです』が写るはずないじゃない? トイカメラもね」
 ユイは静かに笑って続ける。
「オートでカメラが決める露出が毎回違うからって難しく考えることはないの。この露出表を覚えれば外では大体撮れちゃうものなのよ」
「だけどやっぱり、その、写真の表現は……」
 まだ信じられないと言いたそうな顔をしているユカリにユイは畳み掛けた。
「みんないつも言ってるでしょう? 何事も基本は大事だって。背景をぼかしたり、動きを止めたりとかも露出の基本が分かってない内に挑戦してもうまくいくはずないじゃない。マニュアルカメラはその基本を知るためのいい教材になるはずよ。そうね、これから実践しに行きましょうか」
「行くって、どこへですか?」
「鶴舞公園。そこで写真撮って見ましょ。OM-1を持っていらっしゃい」
「一宮先輩、私も一緒に行っていいですか?」
「どうぞ、いいわよ」
 こうして三人は鶴舞公園へと足を向けることになった。

「今日の陽射しは強すぎず弱すぎず、ね。これなら1/250とF8でいいと思うわ。ユカリちゃん、絞りとシャッタースピードをセットして」
「これでいいですか?」
 ユカリは絞りとシャッタースピードリングをカチカチと回して言われた通りの値に設定した。
「いいわよ。あとはこれで空を見ながら光の具合に合わせて絞りを変えてみるといいわ」
「ユカリちゃん、大丈夫?」
「分かんない。でもデジカメ持ってる時とは緊張感が違うわ。ちゃんと写ってるかどうか現像しないと分かんないもん。レンズもズームじゃないから自分で歩いて撮り方を決めなきゃなんないしね」
「ええ、きっと一枚一枚に気合い込めて撮れるわ。頑張って」
「はい!」
 ユカリはファインダーを覗いて公園の噴水塔を枠内に収めると、ピントを合わせてシャッターを切った。
 パシャン
 金属製のシャッターとは違う、布幕の優しげな作動音が響く。ミラーの音も抑えたと言うだけあってうるさく感じない。
 公園のシンボルになっている小さいステージ「奏楽堂」を捕えてパシャン。竜ヶ池に浮かぶ四阿「浮見堂」を捕えてパシャン。花壇の花に寄れるだけ寄って、雌蕊にピントを合わせてパシャン。その度にユカリは空を見て露出を考え、真剣な顔で露出とピントを合わせてシャッターを切った。時々は絞りとシャッタースピードを幾つに設定したらいいのか戸惑って、シャッターチャンスを逃すこともあったけど。
「あ、ちょうちょだ。花の蜜吸いに来たのね。逃げないようにそっと寄って……あ、ちょっと陽が陰って来たわね。絞りは……いえ、ここはシャッタースピードを遅くして、と……ああっ」
「どうしたの、ユカリちゃん」
 ハルカに声をかけられたユカリの顔は冴えない。
「モタモタしてる内にちょうちょに逃げられちゃった。せっかくいい写真が撮れると思ったのに……でもデジカメ使っててもそういうことって何回もあったし、これも経験よ経験」
「そうそう、その意気で頑張って」
 ユイの激励を受けて、ユカリは改めてカメラを構えて立った。設定を変えたらそれを一々確認する慎重さはそのままに、いつしかユカリは撮りたい物があれば迷う事無くシャッターを切るようになっていた。
「何だかユカリちゃん、真剣勝負って感じで撮ってますね。私も置いてかれないように頑張らないと……今は自信ないけど」
「大丈夫よ。私だって失敗は限りなくやってきたもん。諦めずに続けてたらハルカちゃんもきっと上達するわ」
 傍で見ているハルカにユイはそう言って、
「ええ、一宮先輩の言う通りよ。失敗を恐れていたら先はない」
 撮影の一段落したユカリもハルカの背中を押した。
 ニャーン
 そこへやって来たのは妙に人懐こそうな三毛猫。ハルカの足元に擦り寄っているではないか。
「よしよし」
 ハルカは猫を抱きかかえてやった。
「ハルカ、その猫……」
「私のこの公園での仲良しさんよ。何回か会う内に懐いてくれるようになったの」
 そのハルカの一言に呼応するかのように、三毛猫はピョンとハルカに飛びついてきた。
「あらあら、この子そんなにハルカちゃんが好きなのかしら」
 クスリと笑うユイ。
「あん、だめよそんないきなり。きゃっ、舐めないで」
 猫にじゃれつかれて、嫌がりながらも満更でもなさそうなハルカ。そんな彼女もユカリはファインダー越しに楽しそうに覗いてパシャンとシャッターを切った。
「ハルカ、もう一枚お願い」
 ユカリはそう言ってフィルムを巻こうとしたが、途中で引っかかって止まってしまった。
「あら……?」
「ユカリちゃん、もうフィルム終わりじゃない?」
 ハルカに言われてユカリはフィルムカウンターを見た。「36」を過ぎた途中で数字が止まっている。
「本当だわ。巻き戻さなくちゃ」
 ユカリはOM-1の前面にある、小さく「R」(REWINDの略)と書かれたツマミを回した。こうしてフィルムを送る歯車のテンションを落としてから巻き戻さないとフィルムが千切れることはシオリから聞いていたから。そうして36枚撮りのフィルム一本終わったところで、ユカリのワークショップはお開きになった。
「マニュアルカメラって、慣れればそんなに難しいことってないんですね。一宮先輩の言った通りでした……ちゃんと撮れてるかはまだ分かりませんけど。このコも私に語りかけて来るみたいでしたもん。『僕は別に怖い事なんてないよ。むしろベストパートナーって思ってくれると嬉しいな』って」
 帰り道でユカリはハルカとユイに何度となくそう言っていた。

 それから二、三日後。
「へえ、これみんなユカリちゃんが撮ったんだ」
「そうなの。よく撮れてるでしょ?」
「うん、ピントもぴったりなら露出も大体合ってる。とてもフルマニュアルのカメラを初めて使ったとは思えないなあ」
「ユカリ先輩お見事です。ヒナ、先輩を見直しました」
 ユカリがOM-1で撮った写真をユイに見せてもらい、シオリと後輩の小鳥遊ヒナノはその出来栄えを絶賛した。
「それはいいんだけど……」
 苦笑しながら呟くユイ。
「どうしたっての?」
 シオリに訊かれて、ユイが無言で指を指したその先には……。
「ユカリちゃん、もうそのくらいでいいでしょ。寒いし恥ずかしいよぉ」
「ほらそんなこと言わないで。こっちはせっかく乗ってきたのに」
「もう一時間くらい散々撮ってるじゃない〜」
「もうちょっとだけ付き合って。じゃがりこ奢ってあげるから」
 ユカリはハルカにスク水を着せて、グラビアカメラマンよろしくあらゆる角度からOM-1でパシャンパシャンと撮っていた。
「積極的でいいじゃない。別にOM-1誰でもずっと使ってくれてていいしさ」
「ハルカさん、ヒナも参加するですよー」
 シオリもヒナノもそれを止めないどころか面白がるばかり。同級生の久家イヅミは我関せずと言いたそうに離れた所にあるパイプ椅子に座ってカメラとレンズの手入れをしていた。
「ハルカちゃん、ジュース買って来てあげるから泣かないで。ユカリちゃんもほどほどにしましょうね」
 ユイは食堂へ行くために席を立った。

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