特別編 おじいさんのアルバム
 

A-Part

 二月も中旬に入り、京都はまだ春の気配を感じられない雪の空が続いていた。そんな京都駅の夜行バス発着所で、山口健は母方の祖父、橋本忠行の七回忌の法事に出席するため福島の実家から上洛してきた母、山口遼子を出迎えた。
「おはよう母さん」
「おはよう健。久しぶりね。元気にやってたかしら?」
「ああ、俺は元気だよ。先月風邪引いたけどすぐ治ったし」
「そう、良かった。京都で最近怖い事件が幾つも起きてるって聞いてるから心配してたけど……」
「……」
 健は無言で「それは言わないで」と言いたそうに首を振った。直接襲われた訳ではないにせよ身近な友達が殺されてショックを受けた者が身の回りにいたし、その話は電話で母にもしている。遼子は健の気持ちを察してそれきり黙ってしまった。
「母さん、朝ごはんまだでしょ? 地下の喫茶で一緒にモーニング食べようよ」
「あら、こんなに早くからやってる店ってあるかしら?」
「イノダコーヒさ。駅の地下街にも店出してるんだ」
「そうなの。じゃあそこに行きましょうか」
 現在の夫とデートする時には必ず喫茶店に行っていた遼子はすぐに健の誘いに乗った。

「コーヒーとブラックコーヒー一つずつ。それからハンバーグサンドとツナサンド」
 単純にコーヒーを頼むと砂糖とミルク入りのが出てくる。これが京都の老舗喫茶「イノダコーヒ」のスタンダードである。甘党の健はイノダでは決まってそのスタンダードを飲んでいた。遼子は糖分を控えているのでブラックを飲んでいるけど。
「健、期末試験もうすぐだけどちゃんと勉強してる?」
 コーヒーが来たのをしおに口を開いた遼子の第一声がそれであった。コーヒーを噴きそうになったのを何とか耐えて答える健。
「してるよ」
「駄目よ、写真や直美ちゃんとのデートにばっかり感けてばっかりいちゃあ」
「留年なんてしたくないし、やる事はちゃんとやってるってば」
「本当に?」
「そうだよ」
「結果を楽しみにしてるわよ。今のうちに勉強しておきなさい。社会人になってもう一度勉強したいって言っても大変なんだから」
 悪戯っぽく息子に笑いかける遼子。そんな事思うかよと思いつつ、健は追って運ばれて来たサンドウィッチを摘んだ。
「健、貴方そんなにパンって好きだったかしら?」
「いや、特に俺は意識してた訳でもないけど……そう言えば直美ん家では朝はほとんどパンだよなあ。近所にはパン屋多いし、食パンも調理パンも大体ハズレはないしな」
「ふふ、健がおいしそうにパン食べてたから。京都に来てパン食に馴染んだのかしらね」
「特に意識してる訳じゃないってば……」
「あら、直美ちゃんから聞いてるわよ。健は月に何回か志津屋のカツサンド食べたがってるって」
 直美め、いらん事言いやがってと思いながらも答える健。
「いやパンがどうとか言うよりあれは別格だから。あんなにボリュームしっかりあって、おいしくて安いのはちょっとないよ……あー、やっぱりあそこが京都じゃ屈指のパン屋だからかな」
「そう言えば父さんもあそこの餡パンは好きだったわね……」
 京都は存外パンの消費量の多い都市である。需要が多い分パン屋も多く、結果として全体のレベルは高い。実家ではご飯食が普通だった健がすんなり京都のパン食に馴染めたのも別段不思議のない所であると言えば言えよう。
「今日のスケジュール、健は伯父さんから聞いてるかしら?」
 遼子は話を変えた。
「じいさんのお墓にお参りした後、町家ギャラリーで会食だってさ」
「町家ギャラリー?」
「うん、直美ん家からそう遠くない所だよ。一階の貸し展示室借りて、仕出弁当取って食べるんだってさ。明日からじいさんの個展も開いてもらう段取りなんだ。昔は今の河原町くらいの繁華街だったあの辺を記録してある貴重な資料って事で前評判は高いみたいだよ」
「そうよ。今じゃその面影もないけどね……」
 そう言った遼子の顔は少し寂しそうだった。いつしか健はサンドウィッチを平らげ、
「母さんも終わった? じゃあ行こうか。直美や伯父さん伯母さんももう準備できてるしね」
 遼子に出発を促した。

『勝手ながら本日は関係者のみの内覧展とさせていただきます。ご了承くださいませ。明日より通常通りの展示とさせていただきます』
 入口にこんな貼り紙の貼られた町家ギャラリーでは、墓参を済ませた橋本忠行の遺族の会食が開かれようとしている所であった。代表として義郎が一同を前に喋っている。
「本日はお足元の悪い中、橋本忠行の七回忌の法事にご出席いただき誠にありがとうございます。西陣を愛し、往時のこの界隈の賑わいを淡々と撮影して参りました父の個展をこの機会に開催できる運びとなりました事は望外の喜びであり、当時の面影を現在に伝える写真と致しまして……」
 義郎の挨拶を聞き流しつつ、健は壁に飾られた祖父の作品を目で追っていた。そこにあったのはどうして現在の河原町や新京極、いやそれ以上に人々で賑わう西陣界隈の情景ばかりである。商店のネオン、無料バス、幾つもあった映画館、劇場……ふと健の目に祖父のプロフィールに添えられた小さな写真が止まった。ここ数年では葬式の時以来久しく会う機会のなかった祖父の肖像である。
「じいさんと最後に会ったのはいつだっけかな」
「ケンちゃん覚えてないの? 中二の時の節分よ」
「節分? ああ、確かおじさんの厄落としで、手製の善哉食わせてもらう事になって……」
 健の脳裏に、ふとその時の記憶が甦った。

 六年前の節分の事。京都には厄年の人の厄払いの儀式として善哉を炊いて、親類や友人に振舞う風習がある。健も義郎の甥と云う立場で京都に来てお相伴に与る事になっていた。大将軍商店街の和風喫茶「元吉」のホールでは美春と直美がお客や親類縁者、義郎と懇意の人達に無料の厄除け善哉を出し、裏庭では義郎が親類と一緒に善哉に入れる餅を搗いている。健が両親に連れられて来た時には餅搗きも佳境に入っていた。
「こんにちは、伯父さん」
「ああこんにちは健君」
「何か手伝おうか?」
「いやいや、いいよ。もう他のみんながやってくれてるから。よかったら店で善哉食べておいで。遼子も康則さんもね」
「(いいのかな?)」
 健は目で両親にそう語りかけた。そうしましょうかと言いたそうに無言で頷く遼子。健と両親は店のホールにやって来た。
「あら、ケンちゃんどうしたの?」
「伯父さんが、俺達が手伝う事ないから善哉食っておいで、ってさ。親類なのに何もできることないのはちょっとアレだけど」
「ううん、いいのよ。ケンちゃんや叔父さん叔母さんだって今日はお客様だもん。向こうのテーブル空いてるからそっちで待ってて。善哉三人分すぐ持って来てあげるわ」
 いつものようにこの店の制服である矢絣の着物姿で給仕している直美は、すぐと健達の善哉を用意してテーブルに運んでくれた。そこへ裏庭からひょこひょことやって来て、階段を上る小柄な老人の姿があった。健と直美の祖父の忠行である。
「おじいちゃん?」
「ああ直美、外の寒さが堪えてな。しばらく中で暖を取るわ」
「(じいさん……さいぜんまでは楽しそうに餅搗きの写真撮ってたのに)」
 健はすっくと立ち上がった。
「直美、俺じいさんに善哉持って行ってあげるよ」
「え? ええ……」
「じいさんに会うのも久しぶりだしな」
「お願いできる? じゃあそうしてもらおうかしら」
 直美は忠行の分の善哉を用意して、健に渡した。健は忠行の跡を追って、階段を上って行った。


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