お茶濁し編 或日の橋本直美
 

その一

 ピンポン、ピンポン……
「奈々、学校行きましょ」
「奈々香、まだ起きてないの?」
 いつものように奈々香を誘って仲良しグループで大学に行こうとする直美と祐子。しばらくしてドアの向こうから宿主の声が聞こえてきた。
「あーん、待ってよう。あたし今着替え中なの……あー、でもケンがいないなら入って来てもいいわ」
「ケンちゃんがいる訳ないじゃない。私より先に家出ちゃったんだし。じゃあお邪魔するわね」
 苦笑しながら直美は奈々香の部屋に入り、祐子が後に続く。そして今日はどのTシャツを着て行こうかしらと洋服箪笥を物色している下着姿の奈々香を見て、直美はある事に気付いてハッと息を飲んだ。
「奈々香! どうしたのその傷だらけの腕!」
「えっ、あ、これは……」
「つらい事があるなら遠慮なく私達に話してよ。出来る限りの事はしてあげるから。リスカなんて莫迦な事しちゃダメ。私達友達じゃない。だから一人で思い悩んでないで相談してちょうだい」
「な、ナオ、あの、ちょっと……」
 直美は奈々香の両肩を掴んで興奮気味に捲し立てた。
「それとも病院行く? お医者さんならきっと丁寧に相談に乗ってくれると思うわ」
「ちょっとナオ、落ち着きなさい」
 奈々香は体を捩って直美の手を振り解き、直美の顔を掴む……と言うよりは顔を手に乗せる感じで制した。そうして「暫く黙ってなさい」と目で語っておいて、
「リスカなんて人聞きの悪い事言わないで。悪戯する猫を叱ったら引っ掛かれた、それだけよ」
「猫? けれどもこのアパートは……」
 奈々香は服を着ながら話を続ける。
「まあもちろんお魚とか鳥以外のペットは禁止ってのが建前よ。でもこの辺に良く来るメス猫ちゃんがいてね、可愛くて管理人さんがぞっこん惚れ込んじゃってアパートの皆で餌あげたりおトイレ用意してあげたりで半野良生活してるの」
「あらいらっしゃい。御飯あげるからちょっと待っててね」
 ちょうど管理人が猫に話し掛けているらしい声が聞こえてきた。祐子が無言で静かに頷き、直美は興味を覚えて外に出てみた。
「ニャー、ニャー」
「はいはい、急かさないで。ちゃんと持ってきてあげたわよ、はい召し上がれ」
 うら若い管理人は蕩けそうな笑顔と甘い声で、白地に灰色と黒の虎模様の猫にキャットフードと牛乳の乗った皿を置いてやった。
「ほら鰹節もあるよ。デザートにおあがり」
 健の先輩の昌彦もやって来る。どうやら猫好きの一面もあるらしい。
「あら大村さん、それ程々にしてくださいよ。鰹節の摂り過ぎは尿結石の元なんですから」
「そうなの」
「ミコトちゃんにあんまり変な物食べさせないでくださいね。大村さんがおつまみの残りの鮭とばやビーフジャーキーあげてるの私知ってますよ?」
「バレてたか……すみません」
 ミコトと呼ばれた猫は美味しそうにキャットフードを食べている。その様を直美と祐子も惚れ惚れと眺めていた。二人共生活環境上ペットは飼えないけど、犬や猫は嫌いでないどころか大好きだったから。
「あら内苑さんに橋本さん、おはよう。でもそろそろ大学行かないと遅刻しちゃうわよ。いいの?」
 直美は慌てて携帯電話を取り出して時刻を確かめた。
「あ、本当だわ。大急ぎで道枝の所行かないと遅刻しちゃう。行きましょ祐子」
「ええ」
 大慌てでスタートダッシュを切る女子大生二人。置いてけぼりにされた事に気付いた奈々香も慌てて飛び出した。
「ちょっとナオ、祐、あたしを置いてかないでよ!」
「フギャッ」
「ちょっと井村さん、ミコトちゃんの尻尾踏んじゃ……」
「きゃーっ、もうやめてよ、やめてったらぁ!」
 奈々香は怒り心頭のミコトに飛びつかれ、鋭い爪の攻撃を受けてパニックに陥っていた。


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