第壱話 京都に吹いた春嵐
 

A-Part

「ん……」
 春の穏やかな陽射しの中、眠っていた少年は目を覚ました。昼食を食べてから二〜三時間は寝ていただろうか。この間から十分に療養できたおかげで体調は頗る良い。この分なら後数日もすれば外に出ても大丈夫だろう。往診に来る医者も日に日に少年が元気になっていく様子に驚いていた程だった。一時は
「先生、この子の病気は治るんですか?」
 とこの家の親類が問い掛ければ不安そうに首を傾げていたのに。
 縁側の桜は満開で、花弁が風に乗ってヒラヒラと舞い散る様は子供心にも美しく映った。庭先では見知らぬ少年がはしゃぎながら歩き回っている。聞けばこの近くにある神社の宮司の子供らしい。
「あの子、この間からよくうちに来てるな。お姉さんも一緒にいることもあるし。僕もあの子と遊べるようになれるかな……」
 少年は早く元気になりたいと云う思いが一層募った。療養のために親元を離れ、両親に会えない寂しさにもいつしか慣れた。けれど布団の中で大人しく過ごす毎日よりも、だんだん外に出て遊びたいと云う思いは強くなっていった。そう、今遊びに来ているあの少年のように。
「あーん、うわーん、うわあああーん」
 庭先から聞こえてくる泣き声。少年がそちらに目をやると、神社の子供が泣きながら歩いて来た。
「どうしたの?」
「うっ、ぐす……あ、うわああーん」
 彼は少しだけ泣き止んで少年の顔を見たが、返事もせずにまた泣き出した。だが彼の足元に落ちている潰れた桜餅が何があったかを物語っていた。
「(そうか、転んで落としちゃったみたいだな)じゃあ僕のをあげるよ。一個しかないけど、お姉さんと半分こすればいいだろ?」
 少年は起きて、枕元にあった自分の桜餅の置かれた皿を手に取って、神社の子供に差し出した。子供はまだしばらくグスグスと泣いていたが、それも次第に収まって、
「あ、ありがとう……」
 丁寧に少年に頭を下げた。
「ううん、いいよ。でももう転んじゃ駄目だよ」
「うん」
 機嫌を直した子供は喜んで桜吹雪の中へ戻って行った。彼の背中を見送る少年に誰かが後ろから声をかけてきた。
「ケンちゃん……ケンちゃん」
「(ああ、この声は直美だな。またこっちに遊びに来てくれたんだ……あれ?)」
 少年が振り向くとそこにいたのは、従妹で幼なじみの直美だった。だが見覚えのある直美とは様子が違う。同い年のはずなのに妙に大人びた顔になってるし、体つきも大人っぽい。それに彼女が少年を「ケンちゃん」と呼ぶようになったのはずっと後の事だった筈だ。髪型だけは今と変わってない、肩の辺りで切り揃えたセミロングだけど。少年が面妖な顔をしても直美は気にせず更に少年に呼びかける。
「ケンちゃん、早く起きて」
「うーん、ダメだよ、お医者さんがまだ寝てなきゃって言ってたから」
「何言ってるの、今日は奈々香とも一緒に出かける約束があったでしょ、ほら早く起きて」
 直美は少年の肩を掴んでユサユサと揺すぶった。途端に少年には広く見えていた和室や障子、その向こうの春景色もパッと消えてしまい……

 さっきまで少年が見ていた景色と入れ代わりに目の前に広がったのは、今自分が暮らしている六畳の和室だった。そして少年は子供ではなく、大学生の青年になっている。今自分の傍らにいる、大人しげな可愛い感じの女性は自分と一つ屋根の下で暮らしている従妹の橋本直美(はしもとなおみ)。青年の視界に映ったのは、困ったように自分を見下ろして立つ直美の顔だった。
「ん? ああ直美、おはよう」
 まだ薄ボンヤリした意識の中で青年は直美に声をかけた。
「おはようはいいけど早く起きてちょうだい。今日はケンちゃんも一緒に奈々香達と映画村に行くって約束があったでしょ。早く御飯食べて行かないと待ち合わせに遅れるわよ」
 直美の友達で、怒らせるとどうしておっかない知り合いの女性の顔が浮かんで青年は苦々しげな顔になった。またあの小うるさい娘らに一日中振り回されて俺の週末は終わるのか……。青年がそう言いたそうなのを見て取って、直美は更に声を掛けた。
「ケンちゃんほどの名カメラマンもちょっといないんだからね。ケンちゃんに写真撮ってもらえなかったら奈々香達きっとがっかりすると思うわ。それに私も一緒にイベントに参加するんだし、ケンちゃんには絶対撮って欲しいよ……ね?」
 直美は青年の弱い所を擽る作戦に出た。青年を持ち上げて、更に「私のお願いを聞いてちょうだい」と言いたそうに切なげな顔をしてみせる。そしてそれはものの見事に図に当たり、
「やれやれ、直美もあっち側の仲間入りと来たか……でもまあお前にお願いされては断れねえ。山口健(やまぐちたけし)、いっちょ写真家の本領発揮と行きますか」
 ピント外れの視界でも長年の付き合いで顔くらいは分かる。山口健、通称「ケンちゃん」と呼ばれている青年はゆっくりと体を起こした。
「ありがとう、だからケンちゃんって好きよ」
 直美の礼に健は笑って答えたが、すぐにその顔は曇った。
「あの……直美、それはいいけど出てくれないかな。着替えたいから」
「え? あ、あら……ごめん」
 直美は顔を赤らめて、そそくさと健の部屋から退散した。健は直美を見送ると苦笑を漏らして、寝間着から普段着に着替え、眼鏡をかけて茶の間に向かった。

「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「おはよう」
「おはよう、ケンちゃん」
 健が茶の間に行くと、直美と両親が出迎えてくれた。テレビからは朝のニュースが流れている。
「今日未明、京都市左京区の路上で男性が倒れているのを通りがかった人が見つけて通報しました。警察官が駆けつけた時には男性は既に死亡していたと云う事です。男性は所持していた運転免許証から近くに住む会社員中條浩一さん二十二歳と判明し、京都府警は殺人事件と見て捜査しています。又、京都市上京区では公園を散歩していた男性と女性が何者かに襲われる事件が発生しており……」
 朝の地方ニュースはトップから京都で起こった幾つもの物騒な事件を伝えていた。最近になって京都では無差別に人々が襲われる事件が相次いでいる。京都府警は特別捜査チームを結成し、健と直美が暮らしている大将軍商店街でも店の人々が自警団を結成して、地域住民が被害に遭わないように夜間の見回りを始めていた。
「京都も何か怖くなってきたな。これでもう何人死んでるだろう」
 トーストを齧りながら健が呟いた。幸い健や直美、その家族、友人知人は被害に遭っていないものの、京都の人々は明日にも次に怪死事件の餌食になるのは自分かもしれないと恐怖心を抱いている。いや人だけではない。動物も被害を被っていて、養鶏場が荒らされて鶏が惨殺されたこともあるし、半年ほど前には直美の出た小学校で飼っていた兎が小屋から突然消え、校庭で骨だけの死体が発見された。小学生の頃生き物係をしていて、兎を大層可愛がっていた直美はその報を知ってワンワン泣いて、数日間食事も喉を通らない程ショックを受けていた。今も直美は
「(可哀想に、一体誰がそんなことしたのかしら)」
 と言いたそうな悲しげな顔でテレビを見ている。普段健といる時は昔も今も同じように静かに笑ってくれているけれども。
「(あれ以来直美は前以上に俺にベッタリになった気がするよ……やっぱり俺が心の支えになってんだろうな。身内で、頼れる兄貴分として)」
 趣味の写真以外のことではとんと不器用な健ではあったが、直美とは子供の頃からの短からぬ付き合いの中で従兄として何かと助けてあげたこともあった。両親も伯父、叔母も女の子にはやさしくしてあげなさいと健に教育してきたし、直美自身も子供の時の七夕の短冊やクリスマスのサンタクロースへの手紙には決まって「お兄ちゃんが欲しい」と記すほど兄へ憧れを持っていて、健は直美にとって正に理想の兄として映っていたから。
「(うん、やっぱり俺がしっかりしてなきゃな。少なくともあと二年は直美と一緒にいてやれるんだし)」
 健は顔を引き締め、頭に鉢巻のようにして巻いている赤いバンダナの結び目をキュッと締めた。
「どうしたの? ケンちゃん」
「いや、いっちょ気合い入れてやろうと思ってな」
「あ、そのバンダナ今も使ってくれてるのね」
 直美が嬉しそうに言った。
「ああ、直美が折角俺のために選んでくれたんだしな」
 それは高二の頃、健が京都に遊びに来た時直美が北野天満宮のボロ市で
「少しはケンちゃんもお洒落に気を配ったらいいのに」
 と買ってくれたバンダナだった。貰った時は些か有難迷惑な顔の健だったが、いつしか常用している内に健のトレードマークになっていた。
「直美、今日は楽しく過ごせるといいな」
「うん、私はケンちゃんや奈々香達が一緒ならどこ行くのだって楽しいよ」
 奈々香の名前が出た所で健は少し苦笑したが、それでも「直美のためならば」と云う思いから、さっきまで寝たまま週末を過ごしたいとばかり思っていた健も大分その気になっていた。
「あ、もうそろそろ行かないと。待ち合わせに遅れちゃうよ」
 既に朝食を済ませていた直美は立ち上がり、
「おいおい、待ってくれよ……じゃ、行って来ます」
 健も慌ててそれに続いた。
「ああ、気を付けてな」
「ケンちゃん、カメラ忘れないでね」
「あ、いけね……直美、先に行っててくれよ。すぐ追いつくから」

「おはよう!」
 京福電鉄北野白梅町駅のホームで、ショートカットに黄色いリボンを巻いたちょっと強気そうな女の子が直美を見つけて手を振った。
「おはよう奈々香、待った?」
「ううん、あたし達も今来たとこ……ケン、何苦しそうに息してるのよ」
 直美は親友の井村奈々香(いむらななか)と挨拶を交わした。彼女は友達二人と一緒にレイヤーチーム「西陣歌劇団」を主宰していて、今日は映画村で開催されているコスプレイベントに参加するために太秦まで出ようとしているのである。そして直美はゲストのレイヤーとして、健はチーム専属のカメラマンとして一緒に行くことになっていた。今健は猛ダッシュのせいで、直美の後ろで息を切らしている。
「出る前にカメラ忘れかけてな……大慌てで直美を追いかけてきたんだ」
「もう、しっかりしてよ。カメラ持ってないケンがいたって意味ないんだからね」
「山口健、カメラ持たねばただのヲタ」
 奈々香のコスプレ仲間で、ショートカットでちょっと中性的な顔つきの内苑祐子(うちぞのゆうこ)が自分がよく扮装するアニメキャラ、長門有希のボソボソした口調を真似て健を揶揄う。
「ちょっと祐ちゃん……」
 もう一人のコスプレ仲間の桃谷道枝(ももたにみちえ)が祐子を窘めた。こちらは髪を長く伸ばしていて、体型も女性四人の中で一番大人っぽかったが顔立ちは直美と同じような可愛い感じである。
「まあそうだろうさ。昔から俺にとっちゃカメラは俺の体の一部だもんな」
 やつれているのを誤魔化すように健はニヤリと笑ってみせた。
「そこまで言うなら尚更忘れちゃ駄目じゃない……ハハン、さてはナオに言われて慌てて持ってきたのね」
 奈々香は健と直美の顔を代わる代わる見て、チクリと突っ込んだ。渋い顔をする健に更に祐子が二の矢を放つ。
「ケンさんは結婚したらお嫁さんの尻に敷かれるタイプ……」
「うるせーな内苑。それからそのしゃべり方やめてくれ、うぜえだろーが!」
「まあまあ祐ちゃんもケン君も喧嘩しないで。ほら電車来たわよ」
「ケンちゃん、今日は一日楽しく過ごそうよ、ね?」
 グループの中の抑え役の直美と道枝が爆発寸前の二人を宥めて、一行は電車に乗り込んで太秦へと向かった。

「それじゃ私達着替えてくるからまた後でね」
「ああ」
 映画村に入り、健は花の女子大生四人組と女子更衣室の手前で別れた。本来なら直美は西陣歌劇団の一員と云う訳ではなかったが、せっかく来れるなら衣装用意するから一緒にコスプレしようとメンバーから何度も誘われて断りきれずに着替えることになったのだった。一人になった健はイベントの客で賑わう城壁と戦国時代の武将の陣地を再現した広場を見つめていた。
「(うんうん、撮影所だけに本格的なセットが組まれてら。やっぱり映画村は俺にとっちゃいつ来ても楽しいところだな……でもあのレイヤーは場違いだよなあ)」
 健はアニメや漫画、ゲームの影響で妙に現代風にアレンジされた和装を着たレイヤーに少なからず違和感を覚えた。アニメ、漫画、ゲームには疎い健でも西陣歌劇団の面々に半ば無理矢理教わったおかげで少年ジャンプ連載の漫画や「涼宮ハルヒの憂鬱」くらいは知っている。だがレイヤーの着ている衣装の大半がおかしなアレンジを加えて変な衣装になっているのは何か間違ってないかと思わずにはいられない健だった。公民館やイベントホールを借りて催されるコスプレイベントならまだしも、映画、ドラマ撮影用の本格的なセットまで組まれているこの場所だとその違和感が余計に目立つ。それが却ってこれから撮る写真に出て来て後で文句を言われないか健は不安だった。なまじ全国版のコスプレ雑誌の表紙とグラビアを飾ったこともあるだけに西陣歌劇団の面々は写真の写りにはうるさい。だから腕に覚えがあり、妥協せずいい写真を撮ってくれる健を専属カメラマンとして指名しているのだけど。
 ボーッと村内をうろつくレイヤーを眺めていた健は、不意に忍者装束の男達に取り囲まれた。忍者の一人が刀を構えて、おどろおどろしい声で健に凄んだ。
「こんな所で生きておったか、船岡刀十郎(ふなおかとうじゅうろう)。この刀の錆にしてくれるわ」
 聞き覚えのない名前を出されて戸惑う健だったが、命を狙われていることだけは察して健は言った。
「一体何の事だ。俺は船岡刀十郎なんて名前じゃねえ。人違いだろ」
「否、お前の体から感じる気、それこそ船岡の一族の物に相違はない。我らの邪魔立てをする一族の者に縁のある者、誰であろうが生かしておけぬ」
「訳の分からねえ事を言うな。俺は船岡の一族なんて知らないし会った覚えもない。とにかく藪から棒に殺されるなんて御免だぜ!」
 逃げようとする間もなく忍者が健めがけて切りかかる。避けようとその場にしゃがむ健。だが突然彼らの間に割って入る者があった。巫女装束の女性が両手で忍者の刀を受け止め、健を庇うように立っている。
「丸腰の者を斬ろうとするとは卑しい者どもめ。ましてただ物見遊山に来ておるだけの罪無き民に仇為したとなれば許しておけぬ、やあっ」
 抑えた刀の刃を払って忍者の手から刀を落とし、巫女はそれを奪い取って構えた。
「さあ、お主らの相手、この妾が致そう。どこからでもかかって参るが良い」
 巫女に挑発されて忍者達は一斉に飛び掛ってきたが、巫女は初めから彼らの動きを予期していたようにヒョイヒョイと攻撃をかわし、返す刃で悉く忍者を叩き斬ってしまった。
「ふん、数を恃みにして妾に掠りもせぬとは情けない……この場より即刻立ち去れ三下共。二度と民に手を出すな!」
 忍者達は巫女の怒声に震え上がり、尻尾を巻いて退散してしまった。巫女はしばらく彼らの背中を睨みつけていた。息をする巫女の背中で一本に束ね、檀紙と水引で一本にまとめた長い黒髪が揺れている。やがて健の方に振り返ってガラリと違う調子で言った。
「大丈夫か。怪我はないな?」
 突然の出来事に驚いて、声の出ない健は巫女の目を見てゆっくり頷くのが精一杯だった。
「もう恐れる事はない。奴らは……ああっ」
 巫女は弟に話し掛ける姉のように優しく健に話し掛けたが、突然目を丸くして健に縋ってきた。
「刀十郎! おお刀十郎!! 無事でおったか……姉様は心配したぞ。付喪に殺められたのではないかとな」
 感涙に咽びつつ健に抱きついてきた。胸板に当たるボリュームのある巫女の胸の感触、そして柔かい体。本来なら世の男達にとっては羨ましいシチュエーションではあるだろうが、いきなり見も知らぬ女性に抱きつかれ、さいぜんから刀十郎と云う聞き覚えのない名前で呼ばれて健は当惑するばかりであった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。だから俺は刀十郎なんて名前じゃないってば。俺の名前は山口健だ」
「やまぐちたけし? お主、もしや山を離れてから名前や記憶を忘れてしもうたのか? 妾は冴(さえ)、船岡冴じゃ。お主の姉様じゃぞ」
「あのな、元々俺は一人っ子だし京都人でもない。大学に入るまで京都のことなんてほとんど知らなかったんだよ」
「……」
 健が捲したてるのを聞いて冴と名乗った巫女はしばらく訝り、人違いをしていたことに気づいたようだった。じっと健の顔を覗き込む冴。片やちょっときつい感じだが、いたく顔立ちの整った美人顔に見つめられて思わずクラッとなる健。数秒の後、冴は眉を八の字にして呟いた。
「おや……よう見れば違うのう。刀十郎はもっと凛とした顔つきじゃて。それに女子に見つめられて容易く動揺するような軟な男ではないしの」
「(悪かったな腑抜けのヲタク野郎で)」
「健とやら、気を悪くしたか? いや、人違いの上に失言してしもうて重ね重ね済まぬ。妾は思ったことは素直に言わずにおられぬ性分での」
 冴は健の心を読み取り、非礼を丁寧に詫びた。
「ではせめてもの詫びに……」
 そして健の首っ玉にしがみついたまま顔を寄せて
 チュッ
 健の唇にキスしてきた。
「わっ、な、何だいきなり」
 冴から離れ、顔を真っ赤にして慌てる健。
「左様に照れることもなかろう。むしろ喜ぶべきではないか? 見目良い女子が口吸いをしてやったのじゃから……さてはお主、女子と連れ添ったことがないのじゃな?」
 悪戯っぽく笑う冴。
「そそそそんなことはないぞ、従妹がいて、そいつとは付き合い長いんだし。けどいきなりキスされたら慌てるのは当たり前じゃないか」
「そないに必死に弁解しておるところを見ると図星じゃのう。ふふふ、可愛い男よ。どれ、お主がこれで満ち足りぬと申すならもう一度くらいしてもよいぞ?」
「うわあっ」
 冴は並外れた運動神経を持つと見えて健が逃げる間もなく再び飛びついて、キスを交わそうとしてきた。更に間の悪いことに着替えの終わった健を良く知る四人組がこの場面に出くわして……

町娘の直美「け、ケンちゃん、何してるの?」
花魁の奈々香「ちょっとケン、その女一体誰よ!」
くの一の道枝「ケン君、私たちがいながら他のレイヤーと……」
男装の侍の祐子「ケンさん、不潔……」

 健は言い訳できない立場に追い込まれてしまった。冴は健にしがみついたまま何が起こったか分からずぽかんとしているのだから尚更やばい。
「ま、待て、これは、あー……は、話せば分かる。だからみんな落ち着いてくれ!」
 頭の中が真っ白の健は必死で叫んだが、
「「「「問答無用!」」」」
 近代の暗殺された宰相よろしく銃撃ならぬ制裁を食らってしまった。

「ありがとうございましたー」
 店主の声を背に健達は味噌汁やおにぎり、和菓子を持って緋毛氈の敷いてある腰掛に座った。代金は迷惑料という名目で健が全額払わされている。
「「「いただきまーす」」」
 これでさっきのことはチャラにしてあげるわおっほっほと言いたげに楽しく味噌汁やおにぎりを食べる三人娘。昔からの健の理解者の直美だけは
「ケンちゃんは悪くないのは分かったけど、あれは誤解されても仕方ない訳だし……ねえ」
 気の毒そうにそれだけ言って一番安い「明智餅」と云う名前の草餅を遠慮がちに食べていた。
「ねえ、冴さんもこれ食べない? おいしいよ」
「草餅か。これは忝い、草餅は妾の大好物での……(ぱくっ)。おお、これは誠に美味じゃ。弥生の節句に母上が作る草餅、これが春の楽しみでのう。幼き頃はよく刀十郎と奪い合って諍いになり、父上に叱られたものよ……」
「そう言えばあんた、その刀十郎とやらの姉様とか付喪がどうとか言ってたな。そもそもあんたは一体何者なんだ?」
 ジュースを飲みながら、健が口を挟んだ。
「妾か? 妾は山奥の神社に奉職する巫女じゃ」
「えっ、じゃあ冴さんって本物の巫女さんなの?」
「道理で気合い入りまくりのコスだと思った。その巫女装束、全然作り物くさくないし」
「ちょっと祐、リアの巫女さんにそれは失礼でしょ。レイヤーって訳じゃないんだから……それはそうと冴さん、何か霊能力使えるの? 死んだ人の霊媒? 悪霊退散? それとも……」
「奈々ちゃんも人のこと言えないと思う」
 冴がレイヤーでも俳優でもないと知って驚く直美達。だが驚きはそれだけでは済まなかった。
「霊能力なら持っておるぞ。我らが一族に課せられた使命を全うするための力をな」
 事も無げに奈々香の質問に答えてのける冴。
「使命?」
「古来より京の街に現れ出でて、罪なき民に仇なす付喪どもを討つ。それが我ら船岡が一族の倣いじゃ」
 冴は威厳を見せて言った。健達は言葉を失い、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で冴の顔を見ていた。
「お主ら俄かには解せぬようじゃな……無理もあるまい。我らは表向きは神職の務めをなし、人知れず付喪を討つ使命を果たして参ったからの」
 取り澄まして言う冴に健が反論する。
「いや、問題はそこじゃない。付喪って古い道具が化けて妖怪になるってあれだろ? あんたは自分がそいつを退治する退魔師の一族だって言いたい訳だ。でも京都の街に妖怪が出るなんて、そんな御伽噺のような事自体現実に有り得るのか?」
「ケンちゃん……」
 健の暴言に窘める視線を向ける直美。それでも冴は別に怒る様子もなく、落ち着き払って答えた。
「御伽噺と健殿は申すか。なれど此の頃京の街に流行る、人々や動物が襲われる事件が奴らの仕業であるとしたらどうじゃ?」
「何だって?」
「現に妾が街に参じたのも一つにはそう云う神託を賜った母上の命によるものであるし、我らの信徒にも奴らに手を出された者がおる……と言っても話だけでは恐らくお主らは信じられぬじゃろうて」
 冴はそう言って、白衣の襟に手をかけて胸元を捲ってみせた。左の鎖骨から胸の膨らみの辺りに青痣ができている。
「山を降りて早々に付喪神と戦ってできた痣じゃ。手棒で渾身の力で打たれての、おかげでまだ胸の辺りは痛……いつまで見ておるか助平」
 和服の上からは分かりにくかったけど冴って胸が大きいじゃないか、と無意識の内に冴の胸元に見惚れていた健はそれに気づいた冴に張り倒された。またしても祐子が長門有希のボソボソ口調でツッコむ。
「ケンさんは紳士のようで実はムッツリ……」
「同意。去年のきらっ都プラザのイベントで私がこけた時、ケンは知らん顔してたけど実はしっかりあたしのパンツ見てたみたいだし」
「いや、悪かったよ。ごめん冴。だからお前らこれ以上ツッコむのはやめてくれ」
 倒れた時ぶつけた体をさすりながら、健は起き上がって冴に謝った。
「まあよい。お主らは嫌でも妾の言うことが御伽噺では決してないと身を持って知ることになろう」
「何?」
「……」
 冴はしばしの沈黙の後、すっくと立って彼方の一点をキッと見据えた。俄かにその方向が騒がしくなった。
「ぎゃー!」
「何なんだ一体」
 騒動の現場は他県の城下町から開城四百周年を記念して、そのイベントの宣伝のために来ていた実行委員会のブースだった。そこに展示されていた鎧兜が誰が着ている訳でもないのに突然動き出したのである。大慌てで係員が止めたが、鎧兜はあっさり彼を振り払い、そして刀をブンブン振り回して暴れ出した。手当たり次第にその場にいた人々を追いかける鎧兜と悲鳴を上げて逃げ回る映画村のスタッフや客達。
「おのれ、あ奴は罪無き民に手を出したか……いよいよ妾の出番じゃな」
 冴はシリアスに、しかしどこか楽しそうに呟き、現場に駆け寄って鎧兜の頭部に気合いと共に手刀を叩き込んだ。
「はあっ」
 兜がすっ飛び、その下から現れたのは鬼のような形相の妖怪だった。
「またしても貴様か、船岡の巫(めかんなぎ)」
「やはり下手人はお主か、手棒の荒太郎」
 妖怪と、それを討って来た巫女は互いに睨み合っていた。


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