第拾参話 どっちのティータイムショー
 

A-Part

 京都のある小さなコンサートホールの席に、俺は母さんと一緒に座っていた。今日は直美のバイオリン教室の発表会。この日のために直美は随分と練習を重ねていたって話は伯母さんから聞いていた。中学生の部では既に何人かの演奏が終わり、次はいよいよ直美の出番である。
「プログラムナンバー六番、エルガー作曲『愛の挨拶』 橋本直美」
 淡々としたアナウンスが流れ、この日のために買ってもらった白いドレスに身を包んだ直美が静々とステージに現れた。満場の拍手。直美は静かに笑って頭を下げ、拍手が止んだのをしおにバイオリンを構えて演奏を始めた。
「(ああ、これ音楽の授業で聞いた事あるな……優雅な旋律がいいね。弾いてる直美もいつもより大人びた感じだ……ん、大人びた?)」
 俺はそこではたと思った。
「(直美と一緒に遊ぶようになってもう八年くらいになるけど、こんな直美を見るのは初めてだ……なんつーか、まるで女神様のようだよ)」
 直美をそんな目で見た事など俺は絶えてなかったように思う。京都に来れば
「ケンちゃん、ケンちゃん」
 と俺を慕っていつも一緒に遊ぶ従妹、それが俺にとっての当たり前の直美だった。その直美が今、女に見える。俺の心に今まで感じた事のない気持ちを呼び起こす特別な女に。
 バイオリン演奏は終わり、再び場内に拍手が響いた。上品にお辞儀をして拍手に応える直美。母さんが無言で花束を俺に差し出した。
「(直美ちゃんに持っていっておあげなさい)」
 母さんは視線で俺にそう言って、ポンと俺の背中を押した。ちょっぴり恥ずかしいと思いながらも、前に進み出て俺は花束を直美に差し出した。ニコリと笑って俺から花束を受け取る直美。拍手で祝福する他の観客。だがその拍手が止んだ途端、人の気配が消えた。俺が後ろを振り向くと、発表会に出る人の家族や親類、友達で埋まっていたはずの客席はガラガラで誰もいない。俺の隣の席にいたはずの母さんも、伯父さんと伯母さんも消えている。ホールにいるのは俺と直美の二人だけ。俺は何かとてつもなく恐ろしくなった。突然人が手品のように消えるなんて事が有り得るのか?
「ケンちゃん!」
 悲痛な声で直美が俺を呼んで、抱きついて来た。
「な、何だ、どうしたんだよ直美」
「ケンちゃん行かないで。私から離れちゃ嫌、お願い!」
「えっ、ああ……」
 訳の分からない事態に何も言えない俺。直美は目尻からポロポロと涙まで零して俺に訴えかけて来る。
「ケンちゃん、こんな所で独りぼっちになるなんて嫌よ。私と一緒にいて欲しいの。ケンちゃんまで行かないで。お願い、お願いよぉ!」
「(直美、莫迦な事言うなよ。俺はここにいるさ)」
 俺は冷静になって、直美にそう言ってやりたかった。だが俺が喋る前に直美は体を俺にグッと押し付けて、
 バタリ
 その場に一緒に倒れ込んだ。そうして直美は俺の目があるのにスルスルとドレスを脱いで裸になって、俺に圧し掛かってくるではないか。
「ああ、ケンちゃんの体、凄く暖かい……ずっと感じてたいよ……」
「……」
 直美の胸は結構大きいじゃないか、などと考えている心の余裕などあるはずもない。突然の出来事に俺は何も言えないまま、直美の顔をまじまじと見た。直美の目に妖しげな炎が燃えていた。
「な、直美!」
「ケンちゃん、好きよ。このまま二人で生きていきたい……」
 チロチロと直美の目に浮かんでいた炎はやがて勢いを増し、業火の如く燃え盛って忽ち俺と直美を包み込んだ。
「う……うわああああああああああああああ」
 俺はただ裸の直美に抱きすくめられたまま、恐怖の叫びを上げる事しかできなかった。

「お兄様、大丈夫ですか?」
「お兄様、お寝巻きが汗でびっしょりですよ。息も荒いです。お体の具合は如何ですか?」
 まだ太陽の昇っていない真っ暗な早朝に健は夢から醒めた。傍らには若菜と雪菜が心配そうに控えている。
「ああ、若菜と雪菜か。俺は……俺はどうもないよ、大丈夫さ」
「お兄様、さいぜんまで怖い夢をご覧になってらしたのですか?」
「……(妖怪だけにそう云う所は敏いな)ああ、まあな。でもこうして夢で良かったって今思ってる訳だしな」
「お兄様、お茶でも飲んで落ち着かれてください」
 雪菜が何時の間に用意したのか、煎茶を湛えた湯呑みを健に差し出した。
「いや、こんな夜中に心配かけて済まないな。気遣ってくれてありがとう」
 健はお茶を半分程口にして、深呼吸すると若菜と雪菜に礼を言った。
「いえ、お兄様にもしもの事があれば何とかして差し上げないと」
「お兄様がお元気で良かったです」
 健は机の上にある時計を見て、布団にもぐりこんだ。
「あー、まだ夜中の三時か。俺はもう少し寝るよ。今日は直美に女給喫茶に誘われてるんだ。元気な顔で行ってやりたいしな」
「そうですか。ごゆっくりお休みなさいませ、お兄様」
「お休みなさいませ。お兄様が再び悪い夢に魘される事がございませんように」
 双子の巫女の気持ちが通じたか、それから彼は悪い夢も良い夢も見ることなくぐっすりと眠っていた。
「健殿、そろそろ起きろ。剣の稽古を始めるぞよ」
 三時間ほどして、冴が健を起こすまでは。

「お帰りなさいませ、旦那様」
 その日の午後、「Focal Point」に赴いた健は矢絣の着物と海老茶袴で装った女給に出迎えられた。
「(ほお、中々感じは良さそうじゃないか)」
 上機嫌の健。厨房越しに彼の顔を見ていた直美は嬉しくなっていた。
「(出だしは上々。これからが勝負所ね。見ててよ冴さん。今日ケンちゃんを最高の気分にさせてあげるのはこの私なんだから!)」
 道枝に案内されて、健はテーブルについた。
「ケン君にはね、冴さんと直美ちゃんが特別に用意したおやつがあるの。どうぞごゆっくり楽しんでらしてね」
「特別? どんなのだろう。楽しみだな」
 甘い物に目のない健はメニューを出される前から期待に胸を弾ませていた。冴も直美も一人前、いやそれ以上の料理はできる事を知っていたからでもある。健が書棚にあった「女王陛下のお気に入り」と云う本をパラパラとめくっている内に道枝の手で二皿のデザートが運ばれて来た。
「お待ちどう様。フルーツパフェと抹茶風味の冷やし汁粉でございます」
「どっちがどっちの作ったのかな?」
「それは秘密。直美ちゃんからそう言われてるから。ケン君で考えてみてください」
 道枝はそう言って、新たに客の座った別のテーブルのオーダーを取りに行った。
「(よし、それならいっちょ挑戦してみようじゃないか。じっくりと味わってな)」
 健はワインのテイスティングに臨むソムリエの如く真剣な顔で二つの皿と睨めっこして、先ずはパフェに手をつけてみた。
「(ほおん、俺の大好きなりんごを目立たせて、そこまで果物いっぱいこに詰めてあるな。コーンフレークで水増ししてないのが偉いよ。果物も新鮮で、クリームも程好い甘さにしてあって中々いいな)」
 水で口の中をきれいにして、健は今度は汁粉を食べる。
「(こっちもいいな。お茶の苦味と甘味のバランスが調度いい感じだ。具は白玉団子だけだけどシンプルで誤魔化しが利きにくい中で頑張って作ったみたいだな。そう言えばガキの頃初めて京都に来た時、パウンドハウスの抹茶ケーキ食わせてもらったっけ。直美が取ってあったのを勝手に食べちゃって直美を泣かせた事もあったなあ……母さんと伯母さんにこっぴどく叱られて、その後バスで下鴨まで行って買いに行ったこともあったっけ)」
 そう言えば直美はどうしてるだろう、と健は厨房を覗いてみた。だがそこには冴や他の女給が慌しく動いているばかりで、直美の姿は見当たらない。どうした事かと思って店内を見渡す内に、直美がバイオリンを手に現れた。
「本日は『紫陽花亭』にお越しいただき、誠にありがとうございます。ここでお食事やお茶の時間を楽しみながら、バイオリンの生演奏をお楽しみいただきたいと思います。拙くはございますが、暫しお付き合いいただきたく宜しくお願いいたします」
 直美は頭を下げてそう挨拶した。
「(ほほう、そう来たか。直美のバイオリン演奏を生で聞くのも久しぶりだな。謙遜してるけどどうして上手いんだしきっとみんな気に入ってくれるよ)」
 頑張れよ、と云う気持ちを伝えようと健は直美にウインクをしてみせた。直美は恥ずかしそうに笑ってそれに応え、バイオリンと弓を構えて演奏を始めた。
「(モーツァルトのホルン協奏曲第一番か。テレビでも良く聞く曲だしいいんじゃないか?)」
 おやつを食べながらモーツァルトの調べを楽しむ健。他の客も直美の演奏に聞き惚れていたようで、演奏が終わると満場の拍手が響いた。
「ありがとうございました」
 直美は静かに笑って頭を下げた。だが頭を上げてもその場に立ったきり動こうとしない。そしてどこか虚ろな目で健の方を見ている。
「直美、どうしたんだ?」
「……どうしたんだ、ですって?」
 呟くように直美は健に言い放った。
「な……」
「ケンちゃん、拍手するだけで何も言ってくれてない」
「……」
 ただならぬ空気を感じて何も言えないでいる健に直美は畳み掛ける。
「褒めてくれるとか、久しぶりに私のバイオリン聞けて嬉しいよってケンちゃんに言われるのを楽しみにしてたのに……」
「直美!?」
 健は焦って立ち上がり、直美に駆け寄ったが途端にバイオリンの弓で襲撃を受けた。
「お、おい、直美!」
 咄嗟に弓をかわす健。ヒュッと云う音が空気を切り裂いた。
「ケンちゃんなら……ケンちゃんならそう言ってくれるって思ってた。ケンちゃんが私と一緒にいられて喜んでくれてるなら……」
「直美、俺だってこっちに来てから直美と一緒にいるのは嬉しいって思ってるよ。誰もお前と一緒なのが嫌だなんて言っちゃいないじゃないか」
 健は直美の両肩を抱こうとしたが、近寄った途端怒声と共に突き飛ばされた。
「触らないで!」
「な、直美……お、俺が京都に来て一番喜んでたのはお前じゃなかったのか」
「ええ、私はずっとケンちゃんと一緒にいられて嬉しかったわ。今年冴さんと知り合うまでは、ね」
「直美、お前もしや……」
「そのもしやかもね。ケンちゃんは冴さんを特別な目で見てる。私、何となくだけどそう思うの」
「いや待ってくれ。俺はそう云う事を意識して冴を見てる訳じゃ……」
「ない、って言いたいの? それはそうかもね。ケンちゃんは好きな女の子の事考えた事はないんだし。現にそう言ったことがあったじゃない?」
「……」
「そんなのって寂しい。去年ケンちゃんが福島の田舎から来てくれて、ケンちゃんがいっぱい喜んでくれたらなぁって思ってたのに……。それでケンちゃんが私の事いっぱい好きになってくれたらなぁって……」
 俯いて訥々と健に語りかける直美。ポツポツと雫が零れて床を濡らした。直美は泣いていた。
「直美、俺は……」
「それだけじゃ嫌よ。ただの従妹で幼友達としか思われてないなんて嫌! ケンちゃんには私の、私だけの特別な男の子になって欲しいの!」
 泣きじゃくりながら健に縋ろうとする直美の間に割って入る者があった。
「止めぬか」
「冴!」
 冴は伸ばされた直美の両腕を掴み、直美を説得しようとした。
「穏やかならぬ真似は止せ。此処は喫茶室じゃ」
「うるさいわね、冴さんに何が分かるのよ。そこをどいてよ」
「直美殿らしくもないの。斯くも健殿や妾に食って掛かるとは。なれど健殿を危ない目に遭わせる訳には行かぬでな」
「何よ、今年の春いきなり出て来たかと思えばいつも冴さんは邪魔ばっかり……そうよ、元はと言えば貴女がうちに来てから私とケンちゃんの関係がおかしくなったんじゃない」
「直美殿、何を……うわっ」
 冴は直美に押し倒され、そのまま床に組み伏せられてしまった。
「貴女さえいなくなったなら……ケンちゃんは、ケンちゃんは私の物よ!」
 冴は抵抗したが、上に跨った直美に床に押さえつけられて逃げられない。直美の手は冴の喉元に伸びて、冴の首を締めつけた。
「く、直美殿……」
「や、やめろ直美!」
 健が叫ぶ。
「ちょっぴりでも心のどこかでそんな事を思ってたとしても直美はこんな残酷な事なんて出来ないはずだ」
「け、ケンちゃ……ううっ」
 健の声に直美が反応し、冴の喉元の手が緩んだ。健は尚も叫んだ。
「優しい直美に幾ら何でも人殺しなんてできる訳がねえ。直美……お前まさか、嫉妬の余り悪魔にでも魂を売り渡しちまったのかよ!」
「……う、うう、ケンちゃん……」
 苦しみ出す直美。冴が直美の拘束から逃れるのはそのほんの少しの時間があれば十分だった。
「(済まぬ直美殿)」
 心の中で直美に詫び、冴は直美に掌底突きを当てて直美を跳ね飛ばした。間髪を入れずに苦内(忍具の一つ。ナイフのような形で握って接近戦にも使えれば飛び道具としても使える)が健目掛けて飛んだ。
「危ない、下がれ!」
 冴が健を庇って前に立つ。冴の矢絣の着物を犠牲にして苦内は床に刺さった。そしてロフトから現れる男の影。
「ちっ、又してもお前が出しゃばってきたか、船岡の巫」
「そう言うお主は手拍子の神楽男か」
「ケンちゃんとやら、君の言った事は半分は正解だよ。だが彼女が悪魔ならぬ我ら付喪神に魂を売った訳ではない。俺が買わせてもらったのだよ」
「何っ」
「バイオリンに付喪神の魂を仕込んで、このお嬢さんが君を一途に想う心を利用して、遂には君や君に纏わる人々を殺してやろうと思っていた。彼女は自分以外の女性に君を取られたくない気持ちを何倍にも増幅させられて、鬼と化したのだよ。ここで船岡の巫に番狂わせを起こしてもらうのも困る。乱暴なやり口は余り趣味ではないのだがここはそうも言ってはいられまい。目覚めよ提琴の付喪神。我ら付喪神の尖兵として暴れ回るが良い!」
 パン、パンと神楽男は手を拍った。忽ち直美のバイオリンは巨大化し、怪物に変化した。
「皆の衆、ここは下がりませい。妾は妖討の一族の者じゃ。直美殿の心を利用して罪無き民に仇為す悪しき付喪神、妾が許さぬ!」
 冴は威勢良く啖呵を切り、バイオリンの付喪神と対峙した。


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