第拾伍話 八乙女に明日はない(前編)
B-Part
「楓、篝、待たせたの。冷えた鉄砲水を持って来たぞよ。これで暑気を払うがよかろ……なっ!」
元吉のウエイトレスの仕事が一段落し、休憩に入る事を指示された冴は自分を訪ねて、健の部屋に居る楓と篝にサイダーを持って行ってやったが、部屋に入る冴は仰天した。裸に襦袢しか着ておらず、布団で辛そうにしている篝を楓は団扇で扇いでやっていたのだが、彼女は真っ裸になっていたのだから。
「あら冴はんおおきに。ほら篝、冴はんがサイダー持って来てくれはったさけ飲みよし」
楓は自分が裸でいる事を気にも留めず、冴の持っている盆からサイダーの瓶を二本取った。篝は姉の声も届かないほど暑さに参っている。橋本家では省エネのためホール以外の冷暖房は夕方まで禁止されているのだ。冴はもう一度篝に声をかける。
「篝、鉄砲水持って来たぞよ」
「ああ、さ、冴?! わ、儂は悪い事は何もしておらぬ、撃つのは勘弁してくれ」
「鉄砲と違うよ、鉄砲水。さ、これ飲んで元気出しよし」
「ん、さいだあか。忝い……やっぱり冴は優しいのう」
篝はまだぐったりした風ながら、楓からサイダーの瓶を受け取った。それをしおに冴は楓に向き直る。
「楓、ここはお主の社ではないと言うておろう。せめて襦袢やしゃつの一枚も羽織っておかぬか。今来たのが妾故まだ良かろうが、これが健殿や店主なら……」
「あら、それくらいうちは構しまへんえ。殿方が女の人の裸がお好きなんは当たり前ですやろ? まして健はんになら好きなだけ見てもろてもよろしおすえ、おほほほ」
「(可笑しな風に達観しよって。元が獣と云う事もあるかも知れぬがの。じゃがもう少しその辺り自重してほしい物よ)ほら、さし当たってこれでも着ておけ」
冴は洋服箪笥の中から健のワイシャツを取り出して楓に渡した。余り気が進まない風を見せながらもそれを着る楓。
「おおきに……あら、お乳の辺りがきつおすなあ」
何とか体を隠せたはいいが巨乳が邪魔して胸の辺りでボタンが閉まらず、裾の部分からも下半身の黒い翳りが見え隠れしている。どうかすると裸よりエッチな風体の楓を見て冴は思わず苦笑した。
「(あの健殿が見たら卒倒するじゃろうて)」
「どないしやはりましたん、冴はん?」
「いや、こうして女三人でゆったりしておる事もここしばらく絶えてなかったと思うての。どれ、乾杯と参るか」
「そうどすな。何に乾杯するんかは知りまへんけど……」
ガラス瓶を重ね合わせ、それからサイダーを傾けてのお茶会になった。
「のう冴」
「何じゃ篝?」
「今朝方に運送屋が日名子叔母様からの大きな荷物を持って来ておったようじゃが、あれは何じゃ?」
「母上から? ああ、あれは菜園で獲れた野菜じゃよ。妾が斯様な仕事をしておる故、材料の足しになればとて多めに送ってくれたのじゃ。仕事が一区切りついたら礼状を書かねばの」
「野菜か。毎年冴の社に流れる川に着けて冷やしたとまとや胡瓜に塩をかけて食べるのはなかなか美味しかったの。今日の夕餉に出してはもらえまいか?」
「勿論じゃて。妾の社の野菜は無農薬で作っておるでな。冷やせばさぞ旨かろうて。それから日が沈んだら三人で夕涼みに行かぬか? 篝の欲しい物があるなら何でも……」
「冴ちゃん、電話だよ。直美から」
義郎が冴を呼んだ。何やら声音に切迫した感じがある。何か徒ならぬ事があったに違いないと察した冴は楓に目配せして、階段を降りて電話に出た。
「はい、お電話代わりました。冴で……ん、どうしたのじゃ直美殿」
訝る冴。不安に曇っていた義郎の顔も一層強張る。
「泣いてばかりで『ケンちゃんが、ケンちゃんが』と連呼されては分からぬぞ。落ち着いて話してくりゃれ……あー、後ろで啜り泣いておるのは若菜と雪菜かえ? 少し黙らせぬか……それとも誰か他に落ち着いて事の次第を話せる者は居らぬのか?」
苛立つ冴の声のテンションが高くなった。電話の向こうで誰かが携帯を取る気配がする。直美に代わって出たのは昌彦だった。
『もしもし、お電話代わりました。大村です。直美ちゃんがあんなだから俺が状況を説明するよ。俺も最初は小嶋と稲森がふざけてんのかと思ったんだけど……』
昌彦は海水浴場に着いてから男性陣の身にあった事を淡々と冴に説明した。
「すると健殿達の前に現れた妖艶な女は『健殿を妾を誘き出すための人質にする』と言うておったのじゃな? ふん、そうでなくてもここは妾の出番じゃろうて。そちらに参る故暫し待たれよ。健殿の事は案ずるな、と直美殿に伝えてくりゃれ。では失礼仕る」
冴は平静を保って電話を切って、健の部屋に戻って楓と篝に健の危機を伝えた。
「健はんが攫われたんですて?」
「そのようじゃ。これは又しても奴らの仕業らしい」
「うちも一緒に行けるとええんですけど、今日はお社の例大祭でうちらは神楽舞を奉納せなあきませんのよ。お祭りは夜中までおますさけ、今日のうちに丹後まで行けるかどうか……」
「冴、儂も連れて行ってくりゃれ」
「篝、あんたも例大祭手伝うてもらわなあかんのよ。あきません」
「うむ、篝を妾と付喪神の争いに巻き込む真似は妾とてしとうない。大人しく楓に付いて祭りに出るのじゃな」
「冴……」
「兎に角妾は行かねばならぬ。寸刻を争うでの」
「お達者で。御武運お祈りしてますえ」
楓と篝に見送られて、冴は伊根町へ向かうべく元吉を出た。
JRと北近畿タンゴ鉄道を乗り継ぎ、バスで伊根町に着いた時にはもう日も暮れ、辺りは薄暗くなっていた。バスを降りた冴の前に、彼女を認めた巫女装束の女が寄って来る。小鈴の八乙女だ。
「伊根町へようこそ。船岡の巫さん。貴方が来るのを待ってたわ」
「お主の悪行は聞いておる。大人しく健殿を返し、老人化させた罪無き民を元に戻せ!」
「まあそんなに興奮しないで。貴女の怒った顔も素敵だけど」
「おのれ……!」
「あん、もう怖いわね。興奮しないでって言ってるでしょ。坊やならまだ生きてるわ。殺すにしてもいきなりサクッと殺すのは私の趣味じゃないもん。それよりも貴女とさっさと決着付けちゃいたいのよね。ここから今私がいる海の家までまだ大分かかるし、私の術で海水浴場までの道を開いたからそっちから来てちょうだい」
八乙女は持っていた鏡を胸の高さまで掲げ、建物の壁に向けた。鏡が光を放って
、そこに海水浴場が映し出される。
「それじゃあ私は先に行ってるから、じゃあね」
八乙女は鏡の作り出した映像の向こうに消えた。
「(これも罠かとて躊躇うておる場合ではあるまいて……)」
冴もその後に続いてそこに入り込み、抜けると確かにそこには海水浴場の砂浜が広がっていた。
「うむ……ここまでは罠ではなかったようじゃな。待っておれよ健殿。直に妾が助け出すでな」
冴は海の家に向かって走り出した。
「お待たせ。坊やはどうしてるかし……!」
アジトの海の家に戻った八乙女の前に立っていたのは、顔に青タンを作って、髪はグシャグシャ、服もボロボロの神楽男だった。絶句する八乙女。
「八乙女、待ちかねたぞ。はあ、あいつには全く梃子摺らされたわ」
「神楽男、まあ、貴方……」
「さいぜんまで牢の中で出せ出せと散々喧しく暴れておってな。已む無く縛って猿轡も噛ませさせてもらった。お前から殺すなと厳命がなければ即座に殺していた所だ。全く……」
「あらあら、今時珍しい骨のある坊やじゃない。私そう云う男の子って好きよ」
八乙女は怒るどころか楽しそうな顔で牢に幽閉されている健を見遣った。縛り上げられ、猿轡も噛まされてしゃべれない健は肩を怒らせて八乙女達に背を向けている。
「ちょっと坊や、女の子にお尻を向けないでちょうだい。失礼でしょ」
「ふがふごへごひごは(どっちが失礼だ)!」
健が首を後ろに向け、八乙女を睨んで何事か叫ぶ。
「ほらそんな怖い声出さないで。猿轡外してあげるからこっちいらっしゃい。お腹も空いてるでしょうし、私が御飯食べさせてあげるわよ」
八乙女に言われても健は背を向けたまま動こうともしない。
「あらあら、しょうのない子。せめてその顔を私に見せてちょうだい」
八乙女は懐から鈴を出してシャンシャンと鳴らした。健の体は前を向いて、そのまま固定されてしまった。健は尚も不満気に八乙女を睨み付ける。
「まあ。そんなに怖い顔する事もないでしょ。折角美人のお姉さんが来て上げたんだから」
「彼奴はこう言ってた。
『下手に悪人に情けを掛けられるくらいなら俺はこのまま痩せさらばえる方を選ぶぜ。尤もこんな所で犬死にするつもりもないがな』
挙句に俺が牢に入って来たらその前にもましてこの通りの大暴れだ。人間をねじ伏せるなど容易い事と思ったが、どうしてまあこいつの抵抗する事ったら。我らに捕まってここまで往生際の悪い人間もちょっとないぜ」
神楽男から話を聞かされても、八乙女は落ち着き払って健の気を惹こうと思案し、白衣の袷に手をかけた。胸の谷間が露になる。もう少しで乳房も見えそうだ。
「ほら坊や、これでどうかしら、うふふ……」
「彼奴がそれしきで動くと思うか。せめてこれくらいやったらどうなんだ」
「きゃあっ!」
神楽男が八乙女の背後からガバッと白衣を脱がせた。プルンと揺れてこぼれる、冴といい勝負のボリュームの八乙女の乳房。八乙女は慌てて胸元を閉じると顔を真っ赤にして神楽男を張り飛ばした。
「この助平男! 巫山戯るのもいい加減にして!!」
健がクスリと笑った。
「だ、だが彼奴はこの色仕掛けで……」
「嘲笑われただけじゃないのよ。よくも私に恥かかせてくれたわね」
「お前等、どうやら仲間割れしている場合ではないようだぞ」
それまでじっと黙って控えていた荒太郎が呟いて、天井を突き破って冴が現れた。
「夜空に星が輝く影で、民に仇為す妖のあり。京都に住まう罪無き民の、涙背負って付喪の始末。妖討の巫女船岡冴、お呼びに応えて只今参上!」
冴は一蓮を使って出した長身の刀を構えて大見得を切り、更に畳み掛ける。
「罪無き民を浦島太郎の如く老人化させ、あまつさえ妾を誘き出すべく健殿を拉致した小鈴の八乙女、妾は許さぬ!」
「はいはい、許さないから私を殺すって言いたいんでしょう? でも死ぬのは貴女の方よ、船岡の巫さん……荒太郎」
「御意」
荒太郎は印を結び、弁慶が持っているような長刀に姿を変えた。
「ふん、それで妾と切り結ぶか。良かろう、お主のその人を食った口、妾が封じてくれるわ。参るぞ!」
冴の刀と八乙女の長刀が鋭い金属音を立ててぶつかり合い、戦いの幕は切って落とされた。
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