第拾八話 あけてくれ!
 

B-Part

「ケンちゃん、冴さん、おはよう」
「おはよう直美」
「おはよう、直美殿」
 朝の剣道の手合わせを終えて、健と冴は朝食の席に着いた。直美が淹れてくれた目覚ましのコーヒーに健が手を付けた時、朝のニュースが驚く知らせを伝えた。
「昨日午後九時、北野白梅町駅を出発した京福嵐山線が終点嵐山駅に到着し、車庫に入ったまま消えてしまう事件が発生しました。電車の車両、乗客共に現在も行方不明となっており、警察で原因を調べています。京福電鉄では現在『京都妖怪列車』のイベントを開催しており……」
「何じゃと」
 眉をキッと上げて、テレビの画面を見詰める冴。隣で吃驚してコーヒーを吹く健。健の服までがコーヒーで染まった。
「あちちち……」
「おい汚らしいぞ健殿。落ち着かぬか」
 飽くまで冷静に冴が窘めても、健は動揺を隠せない。
「さ、冴、これってひょっとして……」
「お主の言いたい事は分かっておる。皆まで言うでない」
「げほっ、げほん……あー、冴こそ気をつけてくれよ。もしも冴がいなくなったら……」
「妾を誰と思うておる」
 プライドを傷つけられて怒る冴。しかしそれも一瞬の事で普段の柔和な顔に戻り、
「健殿、お主は先月以来いろいろあって奴等の関わっておるらしい事件を気にしておるようじゃな。今日はお主は給仕の仕事は休みであろう? ゆるりと休んで気を落ち着かせてはどうじゃ」
「私もそう思う。今日はケンちゃんはお家で大人しくしてたら? 何なら寝ててもいいわよ」
「……」
 健はどうしたものかと黙々と思案していたが、ポツリと一言。
「冴と直美の言う通りかもしれないな。今日は世話かけるけどよろしく頼むよ」
 そうして健は本屋や古本屋で買ったまま読んでもいない本を読んで一日を過ごしていたが、どうも若菜と雪菜の事が頭から離れない。もしや夢の中で清兵衛が話した通り、人間に与するお前達が気に入らないとばかりに酷い目に遭わされてはいないだろうか。自分の彼女の本命なら一人しかいないけれど、日頃自分に尽くしてくれる女の子が悲しむのは健にはつらい事だった。
「(あれは若菜と雪菜が心の声を、俺の夢を通して伝えているのか?)」
 昼食の時も健は煮え切らない色を顔に浮かべ、冴と直美は元吉の厨房で顔を見合わせて健の事を心配していた。
「ケンちゃんは困ってる人と一緒に苦しむタイプなのよ。もしケンちゃんの不安が当たったらどんなに苦しむかしら……」
「それが健殿の長所ではあるな。じゃがそこで無鉄砲な行動に及ぶ事もある故、妾はそこが心配じゃて」

 その夜。冴と一緒の布団で寝ていた篝が目を覚まし、冴を揺り起こした。
「冴……」
「ん、何じゃ?」
「儂は厠に行きたいぞ」
「妾に断らずとも行けば良かろう」
「いや、怒らんでくれ冴。怖い夢を見ての……数多の妖怪に追い回される夢じゃ。神通力も効き目がなくて儂は……」
 そこで冴は半泣きの篝に怒るどころか優しく笑いかけ、
「篝もまだお子様じゃな。よし、付いて参れ。でももう大丈夫であるし、無闇にそんな事を申すでないぞ」
 篝に続いて冴も起き、一緒にトイレに行こうとしたが、
「おや?」
「どうした?」
「山口が居らぬ。儂等より先に床に就いて居ったはずなのに」
「何と? ……本当じゃな」
 掛け布団のめくれた布団に目を遣って、冴の眉が上がった。
「まだ暖かいし、匂いも強く残っておる……山口はまだ遠くへは行っておらぬ様じゃ」
「健殿が何処へ行ったのか大方見当はついておるが……どうやら妾の妖討の巫としての出番じゃな」
」 「冴、儂も参るぞ。戦豆を使って一刻も早く山口を追うのじゃ」
「ほおん、お主近頃妙に健殿に寛容な態度をとるではないか?」
 篝は真っ赤になって抗議する。
「余計な事を申すな冴。儂はただ……」
「ただ?」
「その……山口は好かぬが、奴が刀十郎と縁浅からぬとあっては邪険にするのもいかがかと思うておるだけじゃ」
 お主の顔には健殿と妾はお似合いのかっぷるかも知れぬと書いてあるぞよ、と篝の本心を読んだ冴は言いたかったが、それは言わずにおいて身支度を整えて、
「参るならお主も早く付いて参れ。此度も又寸刻を争うでな」
 戦士としての凛とした口調で言った。だが篝は下半身を抑えて震えている。
「冴、悪いが厠へ行くまで待ってくりゃれ。儂はもう漏れそうじゃ」

 戦豆でパワーアップして、冴を背中に乗せて走れる程の狐に変身した篝は健の匂いを辿って一条通を北へ走っていた。
「篝、健殿は何処へ向かうたか分かるかえ?」
「まだ分からぬが……この方角なら嵐電の駅じゃろう」
 程なく北野白梅町駅が見えて、人の気配がなさそうな駅舎の中に一人の男がフラフラと入っていくのを冴は見つけた。
「あれは……」
「儂も見えたぞ、今駅に入ったのは恐らく山口じゃろう」
 誰かが入ってから程鳴くプァーンとタイフォンの音が響き、もう走っていないはずの電車がガタゴトと音を立ててホームに入ってくるのが聞こえた。
「(今朝方の事故以来、嵐電は運転を見合わせて居ったはず。じゃとすると……)篝、今一度急いでくりゃれ。電車を追うぞよ」
「任せおけ!」
 篝はラストスパートをかけて駅舎に突入した、だがホームの手前の改札で駅員に止められた。
「お客さん、乗車券はございますか?」
 不気味な顔が冴を見遣る。
「(ふん、妾が来る事を見越して妖を足止めにおいて居ったな)悪いが我らは先を急ぐでな」
「おっと、無賃乗車は困りますね」
 駅員の腕が触手のように伸び、改札を突っ切ろうとする冴を捕らえた。
「うぬ……」
「この、冴を放せ!」
 篝は思い切り駅員の妖怪の腕に噛み付いた。
「ギャアッ」
 悲鳴と共に力が緩み、冴を放す駅員に尚も篝は襲い掛かる。
「この化け狐、放せ、放さぬか」
「冴の邪魔立てをする者、儂は何人たりとも許さぬわ」
「待て、もうそやつに構うな」
 冴の制止も聞かずに篝が駅員の相手をしていると、
「こん畜生、こん畜生」
 バシーンと床に落とされる篝。戦豆の効き目も切れて元の狐耳の小さな巫女の姿に戻り、叩き付けられたショックで懐に入れていた戦豆がバラバラと散らばった。
「おお、それは戦豆ではないか。これで力を増幅させてお前らの息の根ここで止めてやるわ」
「(こんな所で世話を焼かせるでないぞ篝よ……)おっと、その戦豆お主には食わせぬ。即刻この場より立ち去れ!」
「ギャアアアアアアアアアッ」
 冴も負けてはいない。日名子に貰った強力な札を投げ付け、駅員は瞬殺されて元の切符の鋏に戻ってしまった。
「さあ、急ぐぞ篝。あの嵐電を追うのじゃ」
「分かった」
 篝は懐に一粒だけ残っていた戦豆を食べ、もう一度狐に変身して冴と共に嵐電を追った。

「ようこそ、山口健……だったかな?」
 妖怪を何人も乗せた嵐電の中、健を前に書生スタイルの清兵衛が人を食ったように笑いかけた。
「あんたが若菜と雪菜の実兄の清兵衛だな」
「そんなに睨み付けても怖くはないぞ。どの道お前さんには死んでもらうのだから」
「俺は……若菜と雪菜がさも悲しそうに俺を呼ぶ声に導かれてここまで来た。それはあんたの謀略って訳だな」
「ふん……認めたくはないがその通りだ。妹はあろうことか人間のお前さんを慕って泣いてばかりいてな。目障りなお前さんには消えてもらいたいんだ」
 忌々しそうに吐き捨てる清兵衛。だが健は言い放った。
「見苦しいこったね。嫉妬のあまり俺を殺す、か」
「何だと」
「清兵衛、もしも俺がお前の立場だったら、お前を殺す事はしないよ。そんな事をしたら若菜と雪菜は余計に悲しむだけだから」
「……」
「若菜と雪菜は付喪神だが、民と争うよりも仲良く暮らす事を望んでいる。うちで笑顔の素敵なウエイトレスの一員として働いてくれて、俺にも何くれと尽くしてくれてるのが何よりの証拠さ。お前も兄なら妹のその気持ちを察してあげたらどうなんだ。妹を傷つける事をしちゃあ兄貴として失格じゃないか?」
「くっ……」
 清兵衛の顔に葛藤の色が浮かぶ。そうして何事か言い募ったと思うや、
「ほ、ほざけ、人間の分際で知ったようなことを言うな! 我々が何のために現世に立ち上がったと思う。我ら物を物と思わぬ人間どもに復讐してやるためではないか。共存と云う選択肢など受け入れられようはずがない!」
「だからどうしたよ」
「若菜と雪菜には後でとっくりしこんでやるさ。付喪神として如何に生きるべきかをな。そしてお前にはその体に教えてやるよ。我らがどんな思いで現世に生きているかを!」
 清兵衛は列車の座席に座っていた妖怪に目配せし、それを合図に妖怪がワッと健に飛びかかった。飛びのいてかわす隙も有らばこそ、健はあっという間に数多の妖怪達に取り囲まれ、押し倒されてしまった。
「くっ……」
 押さえつけられて尚必死で抵抗する健。犬死させられてたまるかとばかりに。
「ほう、少しは骨がありそうだな。だがこの先お前がどうなるかは火を見るより明らかだ。大人しく降伏した方が良かろう」
「だろうな。俺に勝つ見込みは万に一つもありゃしないだろうさ……だが俺はその万に一つを見つけるまでは諦めねえ」
「そんな強がりもいつまでも言ってられると思うな。大人しく往生した方が楽だぞ、ほれほれ」
 もがきながら妖怪から逃れようとする健の視線の先に、非常用ブレーキが入った。
「(あれさえ掴めたなら……!)」
「おっと、この列車は止めさせんぞ」
 健を押さえ込む力が一層強くなり、必死で前に進もうとしていた健にも力の限界が訪れようとしていた。
『お兄様、どこにいらっしゃるのですか?』
『お兄様、早く私達を助けに来てください』
「(若菜、雪菜……)」
『ケンちゃん、死んじゃ嫌よ。私の所に帰ってきてちょうだい』
「(直美……)」
『もしもお主が命を狙われるなら、妾の全身全霊を賭けても妾は健殿を守る』 「(冴……)」
『私を見捨てないで親切に教えてくれる山口先輩がいてくれて、私嬉しいです!』
「(彩乃ちゃん……)」
 挫けそうになる健の頭の中で、女の子達の声が木霊する。
「(ああ、ここでくたばって、冴達に悲しまれる訳にはいかねえよな……)くっ、俺は……俺は死なねえぜ、死んでたまるかよ!」
 健は絶叫し、必死でもがいて体を伸ばして非常用ブレーキを掴んで引っ張った。
 ガチャッ、キィィィィーッ
 車輪と線路が激しく擦れる嫌な金属音と共に止まる電車。ややあって扉が開き、凛とした声が響いた。
「念!」
 ドーン
 衝撃波が電車の中を走り、健を押さえつけていた妖怪は忽ち吹っ飛ばされる。そして声の主は健を庇うようにして立ち、怒りの形相で清兵衛を睨み付けていた。
「ここでお主と妾が敵同士として相見える事になろうとは皮肉なものよな、清兵衛」
「さ……冴!」 「旧知の付喪神と言えど、罪無き民を攫う謀に荷担したる清兵衛、妾は許さぬぞよ」
「五月蝿い。これも若菜と雪菜を思えばこそなんだ」
「さて、どうじゃろうの」
 冴もまた、清兵衛を憐れむような目で見ていた。
「何だと」
「かつて付喪神が京を跋扈しておった時代ならいざ知らず、今の若菜と雪菜は民に仇為すなど心にも無い事。付喪神の悪事に手を貸したお主に、妹はさぞ心を痛めておるじゃろうて」
「うぬぬ……」
「清兵衛よ、もう止せ。今妾の前でお主が改悛し、攫われた民を帰すのなら妾もお主は討たぬ。さあどうするのじゃ?」
「ぐっ……ええい、ここまで来て今更後に引けるかよ。かかれ! 今の丸腰の冴なら束になってかかれば持ち堪えられるはずだ」
 清兵衛の号令と共に一斉に冴に飛び掛る妖怪達。だが冴は不敵な笑みと共に白衣の袂から武器を取り出した。
「こんな事もあろうかと、一蓮には武器を用意してもろうておったわ。そりゃ」
 冴が武器を妖怪に投げつけ、妖怪達はバラバラと薙ぎ払われて倒れた。妖怪を倒した武器は弧を描いて冴の手に戻る。二挺のブーメランだった。
「あう……」
「三下共は片付けたぞよ。次はお主じゃ」
 ブーメランを持って、そのままダッシュと共に清兵衛の懐に飛び込もうとする冴。
「こ、こなくそ……俺にだってこれがあらあ」
 負けじと清兵衛も懐から常携している煙管を取り出し、放り投げて受け止めるとそれは刀程のサイズになった。
「かかって来い。相手が冴だろうが俺は逃げやしねえぜ」
「そうかえ、ならばもう降伏するのじゃな」
 余裕の笑みのまま、冴はブーメランを振り下ろして清兵衛の手から煙管を叩き落した。そのままブーメランを二刀流の刀のように構えて、
「在るべき物に帰るが良い……」
 ブーメランを振り下ろそうとしたその時、
「ふふふ、このまま勝利の美酒に酔えると思うなよ、船岡の巫」
 地の底から響くような声が響き、手棒の荒太郎が現れた。
「ほう、真打の登場かや?」
「「お兄様!!」」
 荒太郎の両腕には、楓の艶かしい下着を着せられた若菜と雪菜が抱えられている。
「(清兵衛め、悪趣味な真似しやがるぜ)」
 顔を顰める健。そんな事などお構いなしに荒太郎は宣告した。
「我らには人質がある。清兵衛や我に手を出すならこの双子は殺す!」
「ほう……」
「この野郎、どこまで卑怯な真似しやがる」
 健は激昂の余り叫んだが、後ろを振り向いた冴は目顔で「落ち着け」と健を制しておいて、飽くまで落ち着き払って返した。
「お主の次の一言は、『武器を捨てろ』じゃろうて。そうじゃな?」
 図星を突かれて言葉を失う荒太郎に冴が畳み掛ける。
「良かろう。なれど……」
 冴はブーメランを捨てる……と見せかけて、素早く腕を振り上げて荒太郎めがけてブーメランを投げつけた。狙いは過たず荒太郎の腕に当たり、若菜と雪菜はドサリと床に着地した。
「さあ、早くこっちへ参れ」
 冴はブーメランをキャッチするともう一度健に目配せをしておいて、逃げる双子を追おうとする荒太郎をジャンプキックで突き飛ばした。
「来るなら来い、荒太郎。手ごたえのない相手で妾は退屈しておったでな」
「望む所だ。今日こそ決着をつけてやろうぞ」
 手棒とブーメランがぶつかり合う丁々発止の渡り合いが始まった。
「おお、若菜、雪菜、お兄様はこうして会えて嬉し……あれ?」
 一方で荒太郎から逃れた若菜と雪菜は、清兵衛をスルーして健の後ろに隠れた。
「おのれ山口健」
「清兵衛、まだ分からないのか。これがお前の蒔いた種だってことは紛れもない……」
「うるさい、血を分けた兄妹の間に人間のお前に割って入られる筋合いはねえ」
「莫迦野郎!」
 清兵衛は健に殴りかかったが、殴られて後ずさりしたのは……清兵衛だった。健が咄嗟に出したカウンターパンチをまともに受けたのである。
「な、何故……人間風情が我ら付喪神を攻撃しても大した痛手は負わないはず。なのに俺が顔を殴られた痛みは……」
「さあな、小鈴の八乙女とやらが前にそんな事言ってた覚えもあるけど、どうした事か俺は知らねえよ。それはともかく……」
 健は清兵衛を見据えて言葉を継いだ。
「お前、付喪神と一緒に悪さして暮らしが安定すれば、若菜と雪菜を喜ばせてやれるとでも思ってたのかい。だとしたら大間違いだよ。若菜と雪菜は人間を憎んで襲うんじゃなくて、人間と一緒に仲良く生きる事を選んだ。そう云う事さ。そんな妹の気持ちを分かってやらないで兄貴面してんじゃねえよ。誰よりも妹の事を理解してやってこその兄貴じゃないか。誰よりも妹の幸せを願ってこその兄貴じゃないか!」
「清兵衛お兄様、健お兄様の仰る通りです。もう悪い事はなさらないでください」
「清兵衛お兄様、私達だけでなくて、京都の人々にやさしいお兄様になってください」
 健の背中越しに若菜と雪菜が清兵衛に訴える。目尻にうっすらと涙を浮かべて。
「う、うう……」
 俯いて感情の板ばさみになって震える清兵衛。
「うわあああああああああああ」
 そして突然立ち上がり、絶叫しながらその場を去った。
「あ……おい、清兵衛、どこへ行く」
 冴との戦闘の最中に清兵衛に気づき、慌てて彼を追おうとする荒太郎。
「こりゃお主、妾と決着をつけぬか」
「こうなったらそうもいくまい。勝負は預ける」
「待てい」
 逃げようとする荒太郎に、冴はブーメランを投げつけたが、当たる前に荒太郎は姿を消してしまった。
「おのれ荒太郎、又しても逃げおったか……」
 冴は怒って暫く清兵衛と荒太郎の逃げた方を睨みつけて、振り向いて健に声をかけた。
「健殿、無事で良かったの。もう案ずる事はない、妾と帰り……なっ!」
 冴の顔色が変わった。
「お兄様、若菜と雪菜のためにいらしてくださって私達は嬉しうございますわ」
「お兄様、とても怖かったですけど、こうしてお兄様がいらっしゃるなら私達は幸せですのよ」
「わ、ちょっと、あんまりくっつくなよ。恥ずかしいじゃないか(ちょっぴり嬉しいけど)」
 冴の目に入ったのは、セクシーランジェリー姿の若菜と雪菜に抱き付かれている健だったのだから。
「篝、篝は居らぬか? もう妖は倒した故心配はないぞよ」
 冴は冷徹なトーンの声で篝を呼び、列車の運転席に隠れていた篝が答えて現れた。
「きっと、そうじゃな……」
 それでも用心深く辺りを窺い、篝は冴の方に駆け寄ろうとした。
「ああ、ところでな。今健殿が妾を怒らせた。中途半端にもてるからとてそれをわざわざ妾に見せ付けておるのじゃよ、ほら」
 冴は健を指差した。篝がヒステリーを起こしたのは言うまでもない。
「山口、何をだらしなく鼻の下を伸ばしておるかこの助平!」
 その後、健は篝に殴る蹴る噛むの暴行を散々加えられた。若菜と雪菜はオロオロして、冴は機嫌が直るまでそっぽを向いてばかりいた。

 八月十六日。
 「元吉」の屋上に設けられたテーブルで直美の一家と健、冴、若菜、雪菜、篝、そして清兵衛と楓は夕食を食べていた。
「お話は冴はんと健はんから聞いてますえ。あきまへんがなあんな事して……そんでもあんたが攫わはった人さんを解放しやはったんはよろしおすけど。若菜はんと雪菜はん悲しますような事しやはったらあきまへんえ」
「ああ、本当に心配と迷惑かけて悪かったよ。来年帰って来たら、若菜と雪菜を喜ばせてあげるからよ」
「「本当ですか? 期待して待ってますわよ清兵衛お兄様」」
 眼をキラキラ輝かせて、若菜と雪菜が清兵衛にステレオで訴える。
「だからその間、妹の事宜しく頼むぜ健さんよ。もし泣かせるような事があったら俺が承知しねえ」
「いや、それは俺も本意ではないし、若菜と雪菜は大事にするよ」
「よし、お前さんのその言葉信じていいな? そう誓うなら俺の盃を受けてくれや」
 清兵衛は好物の電気ブランをなみなみと湛えたグラスを健に差し出した。
「いや、申し訳ないけど俺は酒飲めないんだよ。あんたの気持ちは分かったし、俺は若菜と雪菜を大事にすると約束する。それでいいだろ」
「いんや、態度で示してもらわん事には納得できねえな。さあ飲め」
「ちょっと清兵衛さん……」
 直美が清兵衛を止めようとしたのを制したのは冴だった。冴は直美をチラリと見て、健の耳元で囁いた。
「健殿、妾の作った煎じ薬を夕餉の前に飲んだではないか」
「ああ、あの不味い薬な」
「こんな事もあろうかと用意しておいたのじゃよ。清兵衛は大酒飲みじゃったからの。とりわけ夜の電気ぶらんを何よりの楽しみにしておったでな。さあ、清兵衛の盃を受けてやれ」
「それじゃあまあ、いただきます……」
 健は清兵衛からグラスを受け取り、一口飲んだ。
「う、何じゃこりゃ……(ヘアトニックみてーな変な味だな)」
「おやおや、お前さんにはまだこの洒落た味が分からなかったかな。でも俺の盃を受けてくれたのは嬉しいよ」
「あ、あはは……」
 そうして和やかムードの中で会食が進む内に、どこからともなく歓声が上がって周囲の山々に明るい火が灯り始めた。
「送り火、始まったようですえ清兵衛はん」
「うむ、どうやらあの世からお迎えが来たようだな」
 清兵衛はゆっくりと席を立った。
「俺は今年はもう行かねばならねえ。なろう事ならもっと妹の側に居てやりたかったんだがな。本当に兄に相応しい兄としてよ」
「いいえ、清兵衛お兄様が改心してくださったなら私達は嬉しいです」
「清兵衛お兄様にはまた来年会えるのですもの、ね?」
「ああ、そうだな」
 清兵衛は屋上の端に立って、一同に挨拶した。
「きっと又来年、俺は又若菜と雪菜に会いに来るよ。元気でいてくれな。健さんも妹をくれぐれも宜しく頼むぜ」
「ああ」
「じゃあな」
 そうして清兵衛は赤々と送り火の灯る山に吸い込まれるように消えて、冥土へと帰っていった。
「お兄様、お兄様も体に気をつけてくださいませね」
「お兄様、私達もずっと元気でおりますからね」
 清兵衛の消えていった方角に、若菜と雪菜の声が響いた。




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