第弐話 素晴らしき日曜日(前編)
 

B-Part

 翌朝。健はいつもより早く目を覚まし、努めて早く起きようとした。
「(八時ちょっと前か……うん、今ならまだ大丈夫だな。もう少ししたら直美が俺を起こしに来る。冴と一緒に寝てたなんて知られたらどんな誤解受けるか分かったもんじゃない。今のうちにさっさと起きて着替えとくか)よいしょ」
 机の上の時計を見て、健は体を起こそうとした。だが、
「うーん、刀十郎、急ぐでない。落ち着かぬか」
 横から冴の手が伸びて、健を仰向けに押さえつけてしまった。
「な……(落ち着かぬかじゃねえよ。こんな所直美に見られたらやばいだろうが)!」
 更に冴は体をぐっと健に寄せてきた。冴の胸が二の腕に当たる。興奮するより先に狼狽する健。更に運の悪いことに健の部屋の時計は二、三分時刻が直美の部屋の時計より遅れていた。健が冴の手を払いのけようとした僅かの間に直美が入ってきて……
「ケンちゃん、冴さん、起きて朝御飯食べちゃって。日曜だからっていつまでも寝てちゃ……きゃっ」
 襖を開けて健の部屋に入った直美が見たのは、一つの布団で寝ている健と冴だった。しかも冴は健に抱きつく格好になっているではないか。
「ケンちゃん何してるのよ!」
 仰天した直美が素っ頓狂な声で叫び、健は予想通りの展開に「しまった」と顔を歪めた。健の目の前には眉をキッと吊り上げ、目を三角にして怒っている直美の顔があった。
「ケンちゃん、昨夜一晩中……冴さんと一緒の布団で……」
 腰に当てた直美の拳がわなわな震えている。健が弁解しようとするより早く、直美の怒声が飛んだ。
「エッチ、スケベ、変態!」
「うるさい!」
 ここで一度気を落ち着かせて健が説得すれば、通常は彼の良き理解者である直美は事情を分かってくれただろうが、動揺していた上に無実の罪状で責められたと云う屈辱からカチンと来た健は反射的に怒鳴り返してしまった。
「うるさいですって? 何よそれ。女の子には優しい紳士なのがケンちゃんのいい所だと思ってたのに……」
 じわり、と直美の目尻に涙が浮かんだ。
「ふん、そうやって泣けば俺が無条件降伏するとでも思ってるのか。『直美様に隠れてエロいことやってて済みませんでした』とか言ってな。でも残念だねっ。俺はそこで謝るタマじゃねえ(実際責められることは俺は何一つやってないんだし)」
 ハッとなる直美に健は更に二の矢を放つ。
「俺は冴とよろしくやってやるさ。それでお前の気が済むんだろ?」
「う、うう……ええそうよ。もう変態に気にかけられないで済むなら清々するわ。どうぞ冴さんとお幸せにね、『やまぐちたけし』さん」
 直美は健をわざと本名で呼び、襖をピシャリと閉めて憤然と出て行った。
「けっ……」
 ようやく起きてパジャマから普段着に着替えた後、健は怒った顔で閉まった襖を睨みつけていた。彼の背後でようやくさっきまで眠っていた冴が起きる気配がした。
「うーん……どうした健殿? 何やら騒がしかったようじゃが」
「おはよう、冴。俺しばらく廊下に出てるから着替えて出かける用意してくれ。俺と朝飯食いに行こう」
 健は冴の問いかけには答えず、ぶっきらぼうにそれだけ言って出て行った。
「健殿、一体どうしたのじゃ」
「どうもしないよ。俺の知ってるおいしい店に冴を連れて行ってあげたい、それだけのことさ」
 襦袢を脱いで白衣と緋袴の巫女装束に着替えながら、健の態度を面妖に思った冴は尚も襖越しに聞くが健は取り合わない。
「朝餉なら直美殿と母上が用意しておるであろうに。何故わざわざ他所に行く理由がある?」
「知りたいか?」
 健はまず冴にそう聞いておいて、家中に響くような大声で話し出した。

「そう、あえて言うならデートだなデート」

「でえと?」

「ああ、冴みたいな美人の女の子と一緒に、日曜の朝からサ店に朝飯食いに行く、ああ素晴らしき日曜日たあこの事だ。これを男の浪漫と言わずして何とする!」

「ほおん、健殿は妾と逢い引きしたいと申すのじゃな。お主が望むなら妾は付き合うのに吝かではないが、そう大声を出すこともあるまい。妾にはちゃんと聞こえておるのじゃから」

「いいの。俺は冴と一緒にいられることに猛烈に感動してるんだ」

 勿論これは健の真意ではない。別室の直美にも話を聞かせて、神経を逆撫でするのが健の狙いだった。事実、
「う〜〜〜〜〜〜」
 茶の間で母親の用意していた朝食を食べていた直美は顔を顰め、小刻みに体を震わせて唸っていた。食事をする動作もいつもは大人しい直美からはちょっと想像できないほどガサツな動きになっている。
「直美、どうしたの? もっと落ち着いてゆっくり食べないと体に悪いわよ」
「別にどうも……ごちそうさま」
「直美、今日はどこか行くの?」
「お店開けるお手伝いした後イズミヤに行くわ。奈々香が壊れた携帯の機種変するって言うからそれ手伝う約束してたの。あ、健さんなら別にいいわよ。どこか外へ食べに行くみたいだし」
「……そう。気を付けてね」
 母親の美春は娘の後ろ姿を見送っていたが、一人になると呟いた。
「何か騒々しいと思ったら、直美はやっぱり健君と喧嘩したみたいね」

 一方の健は直美が台所から洗面所に行くのを認めて言った。
「冴、着替え終わったかな?」
「ああ、もう良いぞ」
「そうか、じゃあすぐ出かけようじゃないか、さあいざデートに行かん!」
「お、おい健殿、そんなに慌てることもなかろう……(晩熟の健殿が進んで妾を先導するとはどう云う風の吹き回しじゃ?)」
 健は襖を開け、囚われの姫君を牢屋から助け出すヒーローにでもなったつもりで冴の手を引いて外に連れ出した。

 開店前の『元吉』から出た健と冴が向かった先は千本中立売の喫茶店『マリヤ』だった。健が生まれる前から西陣の人々の社交場として人気を呼んでいる歴史のある店で、今も昼夜を問わず常連客がコーヒーや軽食を前にお喋りに花を咲かせている。若手芸術家にデザインさせたようなアートな雰囲気の喫茶店京都に増えている中で、この店は今でも木のテーブルとソファー、ほの暗い照明と云った昔ながらの店の雰囲気を守っている。健と冴は空いている席に差し向かいに陣取り、オーダーの相談を交わした。
「俺はおにぎりと味噌汁にするけど、冴はどうする?」
「そうよの、ほっとけえきと紅茶にするか」
「ホットケーキだって」
「何じゃ、おかしいか?」
 怪訝な目で健を見る冴。
「いや、意外だなと思ったから。てっきり冴もおにぎりにすると思ったけど」
「大きなお世話じゃ、妾とて異国の物も食べるぞ」
 機嫌を損ねてむくれる冴。
「いや、済まない……すみません、おにぎりと味噌汁、それからホットケーキと紅茶お願いします」
 健は慌てて冴に詫び、主人にオーダーを通した。年配の主人は分かったと言うように頷き、厨房に引っ込んだ。去り際に余りパッとしない青年と、美人の巫女の取り合わせを面白そうに見て。
「のう、健殿」
「ん?」
「お主はよく此処へ来るのか?」
「まあな、俺も直美ん家以外の店に浮気したいことだってあるさ。それにここは、前から伯父貴を訪ねて京都に来た時によく親に連れて行ってもらってたしな」
「ほほう」
「実は親父も大学時代は京都にいてな。二回生の時にお袋と知り合って、デートの度にお茶飲んだり食事したりしてたのは決まってここだったそうなんだ。此処のぜんざい、親父の大好物だぜ。実を言うと俺もなんだけど」
「健殿は甘党なのか」
「そうなんだ。酒が全然飲めなくて代わりに甘い物が大好きなのは親父譲りなんだな。親父は社会人になってからよく接待で飲まされて、帰ってから泣きながら苦しそうに吐いてたってお袋が言ってたもの。俺も酒弱くて、奈良漬食っても目が回るほどなんだ。甘い物ならケーキも饅頭もチョコレートも飴も大抵好きだよ。こんなこと言うと意外な顔されんだけど」
 健は照れ笑いを浮かべて言ったが、冴は別に驚いたような顔もせず、
「いや、そんなことはない。嗜好や体質は誰しも違って当然じゃからの。寧ろ妾はお主が甘い物を好むと分かって嬉しいぞ」
 ニコリと満面の笑みを健に返した。
「え、それって……」
「妾は昨日少し話したであろう? 家の賄いは母上と妾でしておったと。分けてもお茶請けや祭事の供物のために菓子を作る機会は多かったから少しは自信があるのじゃ。機会があればお主や直美殿にも食べてもらいたいの」
「そうか、それは楽しみだな。でも俺……」
 だけに食わせて欲しいな。性悪の直美なんかにゃ勿体無いぜと意地悪を言いかけて健はそれをハッと飲み込んだ。やっぱりこんな時に不愉快な話題を持ち出すのもどうかと咄嗟に思考のブレーキがかかったのである。
「ん、どうかしたかの?」
 怪訝な顔になる冴。
「あー、その……そんなに気合い入れなくても簡単な物でいいんだよ。直美もそうだけど俺は食い物にはそんなうるさい性質じゃないから、な。例えば……そう、ホットケーキみたいに」
「ほっとけえきか……健殿は欲がないのじゃな。まあお主がそれでいいと言うのならそうするか」
 ちょうどその時、健と冴が頼んだおにぎりと味噌汁、ホットケーキと紅茶のセットが運ばれて来た。
「「いただきます」」
 健と冴はそう言って朝食に手をつけた。細切りの塩昆布と梅干の入ったおにぎりを食べながら、健は冴がナイフとフォークを使えるのかなと思って向こう側をチラリと見遣っていた。ところが冴は良家のお嬢様の如く上品な所作でナイフで一口サイズにバターとメープルシロップのかかったホットケーキを切り、フォークで欠片を口に運んで、これまた上品に食べていた。どうやら両親に食事のことは厳しく躾られたらしい。
「(冴が巫女服じゃなくてドレスを着てたら、正しく深窓の令嬢って所だな)」
 健は映画の一シーンのように冴が小洒落た洋装でフランスか何処かのオープンカフェで朝食を食べている場面を想像した。更に自分がその彼氏、或いは最終的にそうなる役だったなら……と夢想しようとしたところで冴が健に声を掛けた。
「何じゃ、どうした健殿?」
「え、あ、いや……べ、別にどうってことは……」
 返答に窮してしどろもどろになる健。正直な所を答えたら「揶揄うな、誰がお主のような総領の甚六なんぞに」などと軽蔑されるだろうと健は思っていた。
「誤魔化さずとも正直に言えばよかろう」
「えっ、あ、ああ……」
 冴に先を促されて健は慌てたが、
「ほっとけえきが食べたいのなら、ほれ、一口くらい分けてやるぞ?」
 冴は怒りも軽蔑もせずにそう続けて、ホットケーキを一切れ健の前に差し出した。
「(やれやれ、俺が本当に思ってたことは気づかれなかったみてーだな)」
 健は苦笑した。それと共に半開きになった健の口に冴はホットケーキを近づけてきた。
「ほれ、ちゃんと口を開けろ、食べたくないのか?」
「ええっ!!??(冴の舐めてたフォークで突いたホットケーキが俺の口に……こ、これは!!)」
 ぽかんと口を開けた瞬間、冴にホットケーキを口に押し込まれた健。思春期の少年にありがちな思考が健の頭を駆け巡り、
「うめえ、うめえよホットケーキ」
 健は思わず素っ頓狂な声を上げ、驚いた客が振り向いた。
「これしきのことでそこまで感動するかお主。少しは落ち着け」
 上品な所作で紅茶を啜りながら、半ば呆れるように冴が突っ込む。
「い、いや、だって本当に……旨かったから」
 苦笑しながら健は弁解したが、冴にそれが通用するはずもなく、
「お主は本当に女子の事には疎い奴よの。ましてその年で斯くも分かり易い奴も珍しいわ」
 冴は小悪魔的な微笑を健に向けて言い、健は渋い顔をしていた。
「(全く、俺が晩熟と知るやすぐそのことで揶揄うんだから……よし、ここはいっちょクールなナイスガイを気取ってやろう。見てろよ)」
 健はそう決意して、改まって冴に話し掛けた。
「なあ冴」
「何じゃ?」
「朝飯済んだら散歩しようぜ」
「ああ、付き合っても良いが……この辺りはまだ多くの店は閉まっておるようじゃったし、特に何かあると云う訳でもなかろうが」
「そりゃそうだ、まだ十時ちょっと前だから。でもな……」
「?」
 短い間合いの後、健はカッコ良く決めるつもりで渋い声を作って言った。
「この晴れた日曜日だ。どこであろうと冴と一緒なら、俺は楽しいんだよ。さあ心ゆくまで楽し……」
「逢い引きを続けたいのなら気取らずとも素直にそう言わぬか」
 しかし冴には皆まで言わないうちに怪訝な顔と台詞を言われるだけの結果になった。
「一々おかしな所で格好をつけたがる男じゃのうお主は。断る理由があるでなし、お主らしく普通に千本通を妾と歩こうと言えば良いものを。変に己を飾り立てるより、ありのままの己を素直に出せる輩の方が妾は好きじゃぞ」
 またしても渋い顔の健に畳み掛けた後、冴は意味ありげに笑い、テーブルに肘をついて組んだ手の上に顎を乗せたポーズでウインクをしてみせた。
「ありのままの己、か。まあ、変にカッコつけてボロ出すなんて最悪だもんな。冴がそう言うなら、俺はいつもの『山口健』でいることにするよ」
 健は苦笑しながら冴に言った。

 朝食と勘定を済ませた健と冴は、雲一つ無く晴れ渡った空の下の千本通を肩を並べて歩いていた。
「健殿」
「ん?」
「此処は嘗ての朱雀大路であろう? 遥か昔は大層な賑わいがあったらしいが、今はその面影もないのう。僅かばかりの商店が並ぶだけじゃ」
「ああ、俺の親の世代にもそれを知る人は少なくなってるな。昔はこの近くに映画の撮影所があって映画館が何軒もあったし、それだけじゃなくて芝居小屋、食べ物屋や遊技場もあったらしいぜ。これは俺が子供の頃、死んだ母方のじいさんから聞いた話だけど」
「何故じゃろう?」
「テレビの普及で映画産業が昔ほど盛んじゃなくなって、映画館が片っ端から閉館して人が離れていったからな。今じゃ新京極に大きい映画館もできたし。それから近くににイズミヤと無印良品もできたってのもあるか」
「『いずみや』? 『むじるしりょうひん』? ……何じゃそれは」
「両方とも大型のショッピングセン……いや、買い物施設だよ。そう云う店ができるとどうしてもね、商店街は苦戦する羽目になるんだ。値段が安いことと品揃えの豊富さってことじゃ個人商店はなかなか大型店には太刀打ちできないしね。俺が今住んでる大将軍商店街はいろいろ百鬼夜行関連のイベントやって何とか客繋ぎ止めてるけど……」
「ほおん、いろいろと苦労があるものじゃのう」
「けどそう云う店がないと困るのもまた事実でね、伯父貴は料理の材料の買出しではイズミヤの世話にもなってるし、俺自身もフィルムやそれ用の現像液なんて簡単に手に入らない物の調達は……」
 そこで話の流れをぶった切るように健の携帯電話が鳴った。
「(うるせえな、誰だよこんな時に電話してくる空気読めない奴は)……はい山口です。ああお前か……ん、入ったって? そうか、ありがてえ。じゃあ夕方にでも……え、お前今日は午前中で上がるのかよ。うーん、……しょうがねえな、これからそっち行くよ。今そう遠くない所にいるし。じゃあな」
 噂をすればって奴か、と呟いて健が電話を切ると、冴が訊いた。
「誰と話しておったのじゃ?」
「友達だよ、光画部の同期。イズミヤのカメラ屋でバイトしてて、そいつは社員割引で売ってる物安く買わせてもらえるんだ。そこで印画紙や薬も特別にそこで仕入れてもらってるって訳さ。また今度にしようと思ったけどどうしても今すぐ取りに来て欲しいって言われたし、ちょっと付き合ってくれないか? その代わり冴に新しい普段着買ってあげるよ」
 健はウインドーショッピングに行く気で冴に言ったが、冴は即答せずに下を向いている。健は冴の顔を覗き込んで声を掛けた。
「冴、どうしたんだよ。何か難しげな顔してるけど」
「あ、ああ……何でもない。健殿が『いずみや』とやらに行くと言うなら妾も付き合おう」
「そうか、そりゃ良かった。あそこで売ってる服なら買ってあげられそうだからな。金なら心配ないさ、イズミヤならキャッシュカードで支払いできるから」
「う、うむ……(妾は嫌な予感がしたでの。これから『いずみや』で付喪が一騒動起こすのではないかとな。こんな時妾の予感は大抵当たる故心配じゃ。行かずばなるまいて)」
「よし、そうと決まれば直行だ、行くぞ(確か今直美もイズミヤにいるはずだよな、あんまり顔合わせたくないんだけど……会ったなら会ったで冴といちゃいちゃしてる所を思い切り見せ付けてやりゃいいじゃないか。お前なんてもう知らないよって言いたげにな)!」
 健は冴の手を引っ張って、北野白梅町のイズミヤへと向かった。その後冴の「嫌な予感」に巻き込まれることになるとも知らずに。


第参話に続く

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