第弐拾話 男の恋心いずこ
 

A-Part

 暮れなずむ京都市上京区は一条通の大将軍商店街。山口健は頗る重くなった体を引きずって家路へと向かっていた。どうにか下宿している和風喫茶「元吉」の格子戸をくぐって厨房の直美と伯父さんにただいまを言ってから階段を上って部屋に入ると……
「た、健殿……?」
 真っ先に俺の目に飛び込んできたのは半裸の冴だった。レースをふんだんにあしらったワインレッドの3/4カップのブラジャーと、お揃いのパンツしか身に付けていない冴。
「(俺と云う彼氏ができて見えない所のお洒落もしようかなんて思ったりしだしたんじゃないのかな)」
 なんて考えている余裕など健にあるはずも無い。
「お、お主、ちょっとそこに直れ」
 一先ず身なりを整えると深々と深呼吸一つ。傍らで焦って止めようとする若菜と雪菜は一睨みして動きを止めておいて、冴は静かに笑っていつでも使えるように立てかけてある竹刀を掴んだ。

「いででで……ごめん、俺が悪かった。本当にごめんっ」
 場所を台所に移して、若菜と雪菜が淹れてくれたお茶を飲みながら怒る冴に健は蛙のように平身低頭していた。
「入る前に襖を叩け、妾がお主にそう言うのはこれが初めてではなかろうが。健殿はそう云う点で学習能力が無いのかや?」
 冴の裸を見るのだってこれが初めてじゃないじゃないか、と健は言い返したかったがそれも時と場合によるわえ、と言い返されて機嫌の悪い今では又殴られると危険を察して一言。
「ごめんよ。でも今日はちょっと冴に聞いて欲しい事があってな」
「何じゃ?」
「昼休みの事なんだけど……」
 例によって大村部長と福本副部長、後輩の彩乃と一緒に部室で昼食を食べようとしていた健。だが後期授業の始まった昨日から新参者が現れた。
「はーい坊や、お弁当よー♪」
 満面の笑みで風呂敷包みの重箱を持ってやって来たのは小鈴の八乙女。夏休みに冴と一戦交えて負けてからは改心して付喪神の一味から抜け、大将軍八神社の巫女として奉職する傍ら、京都文科大学に転入生の「八乙女小鈴」として通い出している。だがその実は健に惚れ込んで、側に居ようとしているだけなのであった。
「坊やに食べてもらおうって思って、頑張って作ってきたんだから。さあ食べて食べて」
「いや、今日俺は冴が持たせてくれたのがあるんだよ。悪いけど……」
「さっちゃんが?」
 嘗ての敵同士、そして今も恋敵として、喧嘩相手として対立している相手の名前を出されて面白くない八乙女。だがここはぐっと堪えて包みを解く。
「さっちゃんのはさっちゃんので食べればいいじゃない。せっかく私も坊やのために頑張って作ってきたんだし。ささ、私の坊やへの愛情こもりまくりのお弁当を召し上がれ」
 八乙女が蓋を取った重箱には、一つ一つが健の拳ほどもあるおにぎりと、これでもかと云う程の量の出汁巻き、焼鮭、ケチャップ風味のスパゲティ、ハンバーグと何れも体育会系の学生でも見ただけで降参しそうな程のボリュームで入っていた。それらは健の好きな定番のお弁当のおかずであったにもかかわらず、である。
「(今度ばかりはあのハイエナどもに分けてやる、どころかこっちから食ってくれとお願いしたい所だよ)」
「ちょっと、何よその嫌そうな顔」
「いや、こうもテンコ盛りだと、その、食うのが……」
「私、坊やの喜ぶ顔が見られるの楽しみにしてたのに。味だって自信あるのよ。付喪神の食事作ってたのは私だもん。それでみんな八乙女の作る飯は巧いって喜んでくれてたのに」
 半泣きでいい子ぶる八乙女。こうなると健は無碍に断る事ができない性分だけに、
「分かったよ、食べるよ。いただきます」
 脳内で再生される「東方的威風」と共に八乙女の弁当にがっつく健。八乙女の言った通り申し分の無い出来栄えではあったが、半端ないボリュームに健は半分食べ切るのにもフウフウ言って、完食した時には健の腹は牛蛙の如く膨れ上がっていた。
「(ごめんよ冴。冴が持たせてくれた弁当食べきれそうにないよ)ご、ごちそうさま……確かに旨かったよ、でもなー……」
「ありがとう、坊やにそう言ってもらえると作った甲斐があったわ。はい、お茶どうぞ」
 八乙女は魔法瓶のお茶をコップに注いで、健に渡した。こちらもまた温度も味も申し分ない。お茶を飲んで先ず健の口から出た一言は、
「ふう……」
 お気の毒様、と言いたそうな目で健を見遣る先輩二人。
「ちょっと八乙女さん」
 彩乃が眉を八の字にして、机に手をついて立ち上がった。
「あらどうしたの、妙にチャラチャラした小娘さん?」
 八乙女もムッとした顔で応じる。
「山口先輩困ってるじゃないですか。折角お弁当持たせてもらってたのに八乙女さんがこんなテンコモリのお弁当持って来て先輩に食べさせるから」
「小娘の分際で口出ししないでよ。坊やは別に困ってなんかいないわ。ちゃんとおいしいって言って食べてくれたんだし」
「それは立場上そう言う他なかったからじゃないですか? 山口先輩はいい人だから人を傷つける事は言わないんです。でも本当は冴さんの……」
「まあいいじゃないか彩乃ちゃん、俺の事なら心配ないからそんなに言うなよ。八乙女も一々噛み付かないでみんなと仲良くしようぜ。ギスギスした関係で大学で過ごすなんてつまんねえだろ?」
 健が執り成してその場は収めたものの、その後も八乙女は積極的にモーションを仕掛けてきた。授業が一緒になれば隣の席に陣取って、ルーズリーフに手紙を書いて寄越す。

 坊やの食べたい物って何?

 健は明日の弁当のおかずにしようって魂胆だな、と思い、素っ気無く書いた。

 カレー、それもそんなに辛くないの。

 こうして不可能な事を書けば遠回しに断れるだろうと云う公算が健にはあった。ところが八乙女はその予想をはるかに越えた裏切りに及んだのである。八乙女は今自分が身を寄せている大将軍八神社までは帰り道が同じなのだから一緒に帰ろうと誘ってくると思いきや、用事があるからと健を置いてさっさと帰ってしまい、神社を通ったらカレーのいい匂いがした時はそれだけの事と思ってそれで終わった。だがその翌日、
「こんにちはー(今日は八乙女はいないみたいだな。どれ、直美の弁当をありがたくいただくとしよう)」
「山口、何か匂わないか」
 健が座って弁当の包みを解いた途端、一平が言った。
「あれ、そう言えば……何ですかこのカレーのような匂いは」
「さあな。他の部室で誰かが学食のカレー持ち込んで食ってるんじゃないか」
「先輩、それにしてはもっとスパイシーで深みがある匂いだと思いますけど……」
「彩乃ちゃん、それってまさか……」
「はい?」
「誰かが部室棟前でカレー煮てるかもしれない」
 健は慌てて部室のドアを開け放った。
「きゃっ」
 甲高い悲鳴。声の主は八乙女だった。何と八乙女はカセットコンロと大鍋を持ち込んでカレーを煮ているではないか。傍らには大きめの飯盒が固形燃料の火にかかっている。
「坊やがカレーが好きだって言うから、昨夜から仕込んでたのよ。さあ、食べて食べて」
 八乙女はいかにもアウトドア用と云う感じのリュックから皿とスプーン、しゃもじを取り出して、又してもてんこもりにカレーライスを盛り付けた。
「いや、今日は直美がちゃんと弁当作ってきてくれたし」
「昨日も言ったでしょ、お嬢ちゃんのはお嬢ちゃんので食べればいいって。さあ食べてちょうだいよ」
 健と八乙女が押し問答を繰り返しているうちにカレーの匂いに惹きつけられてどこからともなく腹を空かせた連中が押し寄せてきたが、
「ちょっと何よ、私はこのカレーは坊やのために作ったのよ。あんた達には一皿たりとも分けてあげないんだから!」
「八乙女、ちょっと……」
 やってきた男衆の中にはラグビー部や野球部、サッカー部等の体育会系も少なくない。当然彼らの矛先が健に向いたなら……。
「やーまーぐーちー、お前と云う奴はー!」
「ひっ」
 嫉妬に燃える男衆が一斉に山口に飛び掛ってきた。

「それも八乙女が長刀で追い払って、奴らの記憶も消して、お主は事無きを得たと云う事か。それなら案ずる事もあるまいが。昨日今日と妾と直美殿の弁当を思うように食えなんだのは生憎じゃったろうが」
「まあな。でもよ、俺は八乙女に大学にまで押しかけられて参ってるんだよ。俺には冴がいるのにさ」
「ならばきちんとそう言うが良かろう。大して好きでもない相手になら煮え切らない態度を取るよりはっきり釘を刺しておく事も必要じゃろうが」
「言ったさ。でも何だかんだ口実設けて聞いてくれないんだよな。でもこっちも考えてみれば冴と一緒に店のバイトに入る事はあっても、プライベートで付き合った事ってここしばらくなかったしな。俺としてはもっと冴と一緒に居る時間が欲しいんだよ」
「ああ、お主が何が言いたいか分かってきたぞ。妾と逢引しようというのじゃな?」
「そう云う事。紅葉の季節にはまだちょっと早いけど、今度の休みに嵐山に行かないか。寺や神社はもちろんだけど見所には事欠かないし」
「ふむ、京の名所で逢引。悪くないものよの」
 冴は静かに言って、健に笑いかけた。
「良かろう。健殿に付き合おうぞ」
「本当に? ありがとう」
「お、おい、健殿……」
 冴の手をグッと握って喜ぶ健。冴は吃驚した様だったが、それもすぐに苦笑に変わり、心の中で呟いていた。
「(やはり健殿は妾に本気で惚れておるようじゃな。嬉しい事よ)」

 週末。健と冴は快晴の空の下の嵐電嵐山駅に降り立った。シーズンということで駅前から嵐山は観光客で賑わっている。健は普段着、冴は以前に健に選んでもらったカットソーとスカートで装っている。
「健殿」
「ん?」
「異人も少なからず居るようじゃが……」
「それも別に珍しくないさ。これから絶好の観光シーズンに入る嵐山だもん。海外からも人はいっぱい来るよ」
「妾は外来語や外国語は不得手での。応対には自信がない」
「大丈夫、そういう時は俺に任せてくれよ。英語は得意な方だから」
「そうか。ならばよろしく頼む」
 健と冴が話している所へ、話し掛ける者があった。
「すみません、ちょっと宜しいでしょうか」
 声の主は金色に輝くブロンドの髪も艶やかな、上品な外国人の若い女性。眼鏡が知的な印象を与えていた。傍らに健より三つばかり年下の、余所行きのドレスで着飾った日本人の少女もいる。高貴な家柄の者であるらしい。冴が目配せして、健はそれに頷いて外国人女性に話し掛ける。
「Can I help you?」
「えっ、ああ……」
 横から日本人の少女が口を挟んだ。
「日本語で大丈夫ですよ。レティシアはちゃんと日本語話せますから。それに申し訳ないですけど、その……」
「はい?」
「レティシアは男性と話すのが苦手なんです」
「ち、千秋様……」
 レティシアと呼ばれた外国人女性は少女を咎めるような目で見た。どうやら二人の関係は主人と侍女であるらしい。
「あの、ど、どうかお気になさらず……それで、あの、すみませんがオルゴール博物館へはどう行ったら宜しいのでしょうか?」
 そう言えばレティシアさんの声は若干震えているな、と感じた健。それでも心配しないでと言うように健は優しく言った。
「オルゴール博物館ですか。それなら駅舎を出て左手をずっと真っ直ぐ行った所ですよ。そうだ、俺達もそこへ行きますからこれからご一緒に……ううっ」
 健の顔が痛みに引きつった。冴が健の背中を抓ったのである。
「ど、どうかなさいまして?」
「ああ、どうもしませんよ。俺達先に回りたい場所もありましたんでそちらへ行きます」
「そうですか、ありがとうございました」
「どうもありがとうございます」
 レティシアは千秋と呼ばれた主人と一緒に健に頭を下げ、連れ立ってオルゴール博物館へと向かっていった。その後非難がましく冴を見る健。冴は明らかに怒っていた。
「健殿、そないに怖い顔をしても妾の目は誤魔化せぬぞよ。『れてぃしあ』と申すあの異人をお主が見る目、普段と違うておったでな」
「ば、莫迦言うなよ冴。何で俺が冴以外の女の子に色目使ったりするよ(あんまりそれを否定できないっちゃそうだけど。でも正直に言ったら殺されらあ)」
「本当か? ならばそれを態度で示してもらおうかえ」
「ん……じゃ、じゃあ腕……組むか?」
「良いぞ」
 冴は一遍に笑って、健と腕を組んで歩いた。
「健殿、先ずは野宮神社に参るか」
「ああ、いいぜ。冴が行きたいんならそうしよう」
 バカップルの如く連れ立って歩く健と冴。冴は健の腕に嬉しそうにぶら下がっていたし、健も冴の腕と胸の感触に満更でもなさそうな顔だった。

 パチッ
「うん、可愛いよ冴。そしたらもう半歩右に行って……うん、そう、それで紅葉の木を見上げて。そうそう、じゃあそれ一枚」
 パチッ
 野宮神社の奥にある、赤や黄色に色づいた紅葉林の中で、冴は健の写真のモデルになっていた。ファインダー越しに冴は健に向かって優しく微笑みかけていた。
「どうじゃ、これで満足かや?」
「うん、良かったよ。ありがとう。これで今年の学園祭でもいい写真出せそうだ」
「結局お主も写真機と被写体があれば退屈はせんのじゃな。安上がりな男よ」
「言ってろ。さあ、俺と冴が仲良くいられますようにってお参りもしたし、次どこへ行こうか」
「やあ、船岡さんのお嬢さん」
 健と冴の間に割って入る者があった。神社の神職である。
「おや、これは久しぶりですな」
「ええ、お嬢さんの十六の誕生日のお祝いにお邪魔して以来でしょうか。すっかりご立派になられて……巌九郎様や日名子様もお代わりなく? それは結構なことで……」
 神職と冴はしばらく昔話に興じていたが、
「済みませぬが今日は連れが居りますゆえ、また近いうちにでも」
 適当な所で冴が切り上げて、健と一緒に辞去した。
「まあ許せ。何かの時に一族の知人に妾が居る事を知らせておけば何かと便の良い事もあるでな」
「分かるけど……」
「おや、お主も妾に妬いてくれるようになったか。男の嫉妬は見苦しいものじゃが、お主だけは別じゃて、はっはっは」
「全く……」
「さて、次はお主の行きたがっておった場所に参るか」
 冴はそう言って竹林を抜け、嵐山で一際目立つ洋館へと向かった。そこが目指すオルゴール博物館である。玄関に入り、階上に上がって入館料の千円を払って先に進む。そこには世界最古のオルゴール、帝政ロシア貴族の調度品として使われていたオルゴール、本物そっくりに作られて首を振って囀る鳥、手紙や絵を描く仕掛けがしてあるピエロそっくりのオートマタ等が所狭しと展示してあった。
「中世の異人の匠もなかなか感嘆すべき技を持つ者よな」
 惚れ惚れとオルゴールに魅入る冴。健も荘厳なオルゴールと優雅な音色にうっとりしていた。ふと観客の中に千秋とレティシアの姿を認め、健が声をかけようとしたその時、
 ガシャーン
「キャーッ!」
 オートマタの展示場でガラスの割れる音と激しい悲鳴。乱闘が始まったかと思うや、
「キャッ」
「千秋様!」
 レティシアの金切り声が飛んだ。
「千秋様! 千秋様!」
「うぜえぞこのアマ、どいてろ」
 展示場から放り出されたレティシア。咄嗟に健は両手を出してレティシアを抱き止めた。
「大丈夫ですか、レティシアさん!」
「れてぃ……今朝方会うた異人か!」
 そして彼らの前に立ちはだかる一体の人形。
「おや、また鼠が紛れ込んだようだな……」
 面白くなさそうに言い放つピエロに冴も怯む事無く応酬する。
「お主、異国の付喪神じゃな。民に悪さをしたとなれば捨ててはおけぬのう」


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