第伍話 我輩はカモである(後編)
 

A-Part

 翌日の新歓コンパの日。健が元吉を出ようとすると店の厨房にいた冴に呼び止められた。
「健殿、こんぱに行くのか?」
「ああ、新入生に挨拶して適当に飲み食いしたらすぐ帰るけどな(イロモノ喫茶にあんまり長いこといたくないし)」
「ならばこれを飲んで参れ」
 冴が健に差し出したのは湯気の立つ液体を湛えた湯呑みだった。何やら漢方薬のような、薄荷とエタノール臭が混じったような匂いもする。
「何だこれは。煎じ薬か?」
「うむ、船岡の一族秘伝の酔い止めじゃ。酒に弱い健殿もこれでつらい思いをせずに済むであろう」
「おいおい、俺はまだ十九だぜ。法律上酒は飲めないんだし、まして俺が全然飲めないってのはみんな分かってるし、俺らに酒飲ませるなんて莫迦な事はしないよ」
「いや、万一と云う事もあろう。お主に酒を飲ませようとする虚け者がおらぬとも限らぬ。それにこの薬は食べ過ぎや食中りにも効果があっての、飲んでおいて損はあるまいて。ほれ」
 冴は更に湯呑みを健に差し出した。気が進まないけどそうまで言うならと湯呑みを持って、健は薬を飲んだ。
「ぶぇへっ、まじい」
 一口啜っただけで妙な味を感じて咽る健。
「男子がそれしきのことで苦しんでどうする……まあ楽しんで参れ」
「楽しめるかよ、あんなとこで、ぶへっ、ああ口ん中気色悪い」
 ゼエゼエと苦しそうに息を喘がせる健。
「ケンちゃん大丈夫? はい、お茶飲んで」
「ああ、ずまねえなぶへっ……ああちょっとましんなったけどまだ変な感じだぜ、ぶへっ」
 健は直美が淹れてくれたお茶を飲んで、出て行こうとしてもう一度冴に呼び止められた。
「ああ、それから健殿」
「あんだよ、ぶへっ」
「何かあったらすぐ連絡するのじゃぞ」
「あー分かったよ。携帯は持ってんだし……ぶへ、ぶへへっ」
「ほんに何事も起こらずばよいが……」
 健が出て行った後、格子戸を見ながらポツリと冴が呟いた。
「冴さん……」
 直美の物問いたげな視線を見て、冴は独り言のように答える。
「妾はまた健殿の身の上に何か起こるのではないかと思うての……いや、恐らくそうなるじゃろう。この船岡冴が心配しておるのじゃから」

「えー、新入生の皆様、改めまして京都文科大学入学おめでとう。そして光画部にようこそ。皆様がこのサークルで素晴らしい映像作品を作ってくれる事に期待しております。当会は説明会でもお伝えした通りに毎回参加しており、カメラ雑誌のフォトコンテストの常連も輩出しているレベルの高いサークルです。この四年間、いや、ひょっとしたらそれ以上かも分かりませんが(失笑)、未来の大写真家を目指して精進してください」
 新入りも含めた部員を前に大村がにこやかに開会の挨拶を始める。一同が楽しげにしている中、健だけはこの雰囲気を面妖に感じていた。
「(妙だな。やっぱり会長の態度は最近大学で見る時と違うぜ。いつもは会議も億劫そうなのに今は延々と長広舌ぶってる。小嶋や稲森も授業サボりがちでたまに出てもやる気なさそうだしな。好きな事に妙に情熱を傾けてるだけって言えばそうかもしれんけどそれにしては何かおかしいよ……)」
 参加者の前に次々と巫女の手で料理が運ばれ、飲み物が運ばれて来る。奈々香や道枝、そして前に健達が来た時には非番でいなかった奈々香のコスプレ仲間の内苑祐子もいる。飲み物が行き渡った所で昌彦がビールのジョッキを持って宣言した。
「それでは京都文大光画部の尚一層の発展を祈って、乾杯!」
 昌彦の音頭で乾杯し、盛大にコンパが始まった。参加者はそれぞれにこれからの事や写真やカメラの話に花を咲かせていた。こんな一幕もあったものの。
「あ、道枝ちゃん。ジュースお代わり」
「お客様、私共は今多忙でそこまで手が回りません。手酌でごゆるりとどうぞ」
 スパーン
「痛えな、盆で叩くなよ」
「あら御免あそばせ。手元が震えましたかしら」
「……(懲りない奴)」
 健は苦笑しながら有二と奈々香のドツキ漫才を見て、烏龍茶に口をつけた。
「あれ?」
 健は茶を飲んで妙な味を感じた。甘いようなほろ苦いような味、木炭を焼くと出る匂いに似た焦げ臭い匂い、舌を棘で刺されるような痛い刺激。
「(変だな、これって酒混じってないか?)おいちょっと……」
 健は周りに呼びかけようとした。だがそれは
「どひゃひゃひゃ」
 正にすっかり出来上がったような出席者の笑い声にかき消されてしまった。
「ああ、山口、お前全然飲んでねえじゃねえか」
「いや、このお茶何か変だったから……っておい小嶋、お前飲んでるのかよ」
 有二に声をかけられた健は焦った。有二の声は明らかに昂ぶっていて、目の下も赤く染まっているではないか。
「おう飲んでるとも、それがどうした? お前も飲んで大いに騒げや」
「莫迦言うな、お前だって俺が全然酒ダメなの知ってるだろ」
「あぁ、無礼講の中でお前一人だけ酒飲まないいい子ぶって何だ。ほら飲めよ、な?」
「いや、俺手洗行って来るわ」
 健はそう言って逃げるように座敷を出て行った。廊下に出たその時、健は別の座敷から荘厳な神楽が聞こえてくるのを耳にした。襖を少しだけ開けて隙間から覗くと、向こうの壁に禍々しい神像と祭壇が置かれ、その前で巫女が舞を奉納している。彼女の前には横一列に置かれた机の前で客が頭を垂れ、順番待ちの人々が後ろに座っている。全員が中年の男女である所を見ると町内会か何かの集まりでここに来たらしい。巫女舞の奉納が一段落すると傍らに控えていた小太りの巫覡が、巫女の前に頭を下げていた客の前に置かれていた盃に御神酒を注いで回った。
「本日は木屋町大明神にご参拝いただき誠に有難うございます。辛く苦しい毎日をお過ごしで皆様は心も体もさぞかしお疲れでございましょう。今宵、癒しの一時を皆様に過ごしていただきとうございます。さあ、御神酒を戴いて、変化大明神様に全てを委ねるのです。そうすることで憂き世の苦しみから貴方方は解放されましょう」
 巫女が祭壇から降りて来て、御神酒を飲んだ客の頭の上で鈴を振る。健は言い様のない恐怖を覚えた。
「何か不穏な空気だ、イロモノ喫茶のお遊びって感じじゃない。それに変化大明神だと? まさか……!」
 健は慌ててその場に踏み込もうとした時、祈祷の終わった客が座敷からゾロゾロと出てきて、危うく客の一人とぶつかりそうになった。
「うわっ」
「おい気をつけなよ……ああ、山口君か」
「ああ、中谷のおやっさんじゃないですか。こんばんは」
 相手が顔見知りと知って健は丁寧に挨拶した。北野天満宮にある小さな写真屋の主人だった。去年部室に暗室をもう一度整えてもらうまで健はそこの暗室を借りていたし、新品では手に入らないカメラのレンズやアクセサリーも調達してもらっていた恩人である。
「最近はご無沙汰ですけど、またちょくちょく覗かせてもらうつもりなんで……」
「いやー……もう俺店閉めるよ」
「え?」
「最近はデジカメ流行りでな、うちの店の商売はさっぱりだ。俺も何とかフィルムカメラを使ってもらおうって頑張ってたけどそれももう潮時だな。悪いが他の量販店を利用してくれや」
「ちょっと、何ですかいきなり」
「しょうがないよ山口君……」
 中田にはすっかり諦観しきった顔で去って行った。
「(そんな、威勢のいいはずの中谷のおやっさんが簡単にそんな事言うはずがねえ……)」
 あの祭礼が怪しいと直感的に思った健は襖を開けて座敷に踏み込んだ。すぐと場を取り仕切っていた巫女が侵入者の存在に気付き、傍らの化け物に指示を下した。
「うぬ、私の祭礼の邪魔をする者が現れたか。壽屋の古狸、あの虚け者を捕えなさい」
「御意」
「しまった、気付かれたか」
 弾かれたようにその場から逃げる健。彼の手はベルトケースに入っている携帯に伸びていた。

「はい、『元吉』で……え、何? 何よこれ」
 ドドドドドド……
 電話の向こうから先ず聞こえて来たのは激しい足音だった。続いて健の素っ頓狂な声が響く。
『も、もしもし、俺だ、健だよ。さささ冴を呼んでくれ! 狸の化け物が俺を追いかけてんぐっ、おごうううううううううううう』
 健の何か口に押し込まれたような篭もった悲鳴とコトンと携帯が床に落ちる音がした後は静かになってしまった。
「もしもし、ケンちゃん、ケンちゃん?」
 真っ青な顔で受話器を置く直美。冴は直美の顔を見て何か起こったことを察した。
「直美殿……」
「ケンちゃんが……ケンちゃんが化け物に追われてるって電話かけてきて……それで……」
 泣きそうな声で直美は冴に事の次第を話した。
「分かった、参ろうぞ。確かこの間健殿と学友と妾の行った巫女かふぇじゃな? 急いで着替えて参る故、しばらく店の事は頼んだぞ」
「ええ」
 冴は直美に後を任せ、矢絣和服から巫女服に着替えるために大急ぎで階段を上っていった。


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