第伍話 再会の街
B-Part
四月二十八日、土曜日。この日の午後に冴はMRI検査を受ける予定になっていた。だがこの日はもう一つイベントがあったのである。冴が弟に会えた時、一緒に過ごすのをずっと楽しみにしていたイベントが。
お昼時、刀十郎が冴の病室に入ると、
「「「お誕生日おめでとう」」」
冴と、先客の健と直美が拍手と共に刀十郎を迎えた。冴の前には蝋燭を十九本立てたバースデイケーキとサンドウィッチ、鶏の唐揚げが置いてある。
「昨日冴さんから話を聞いてたから、ケンちゃんと一緒に準備して来たのよ」
「うん、あんたの好物が鶏を揚げたのってのも直美経由で冴から聞いてたからな。直美が心込めて作った絶品だぜ。スパイスと鶏の味が絶妙でよ……」
「ちょっとケンちゃん、私が目を離した隙に摘み食いしたわね。道理でちょっと減ってるような気がしておかしいと思った!」
「あ、悪い悪い、あんまり旨そうだったんでな」
「もう」
直美が膨れっ面をして健の頭をコツンと軽く叩いた。悪びれもせずヘラヘラ笑ったままの健。冴と刀十郎は可笑しそうに笑っていた。
「妾からはそれらしい贈り物をしてやれんで済まぬな。今ならまだ桜の散っておらぬ場所もあろう。退院したら一緒に花見に参ろうぞ」
冴が優しげに微笑みかける。だが主役であるはずの刀十郎は今日はそんな日だったろうかと言いたそうにポカンと目と口を丸くしたまま冴達を見ていた。
「うん、どうした刀十郎?」
「ああ……そう言えばそうでしたね、ありがとうございます姉様。健さんや直美さんも僕のためにわざわざありがとう」
刀十郎の顔が綻ぶ。どこか引きつっているような所はあったものの。直美がプラスチックのナイフでケーキを切り分け、皿に乗せて刀十郎に差し出した。
「ありがとう、直美さん。でも姉様から先に戴いてくださいよ。僕が食べさせてあげますから」
「良いのか刀十郎? お主には気を遣わせてばかりで申し訳のない事じゃ」
「いやいや、僕こそ三年も顔も出さないで姉様や一族のみんなに迷惑かけてましたし」
刀十郎は穏やかな笑みでケーキの皿を手に取り、フォークで突いた欠片を冴に差し出す。
「(やっぱり刀十郎さんってケンちゃんにそっくりだ……顔つきも、女の子に優しい所も)」
直美はそんな思いで刀十郎を見ていたが、冴の発した一言で随想は遮られた。
「刀十郎、お主は左利きじゃったかの?」
「え?」
「妾は左利きじゃが、お主は右利きじゃったろう。違うたか」
「あー、いや……ん、あはははは」
曖昧に笑って、フォークを右手に持ち替える刀十郎。
「いいじゃないですかそれくらい。僕はこうして姉様のお傍にいるんですから」
「(変だな。そうは思わないか直美よ)」
健は眉間の皺と目で直美に語りかけた。直美は黙って、困惑したような顔で首を傾げた。どう考えていいのか分からないらしい。その後は食事しながら四人で他愛もない会話を交わして(健は刀十郎は何かおかしいと思っていたが)、その内に小野原女医がやって来て、扉越しに冴を呼んだ。
「船岡さん、船岡冴さん、MRI検査の準備が出来ましたのでおいでください」
「うむ」
小野原女医と看護婦に付き添われて冴は出て行った。
「さて、僕も今日は失礼しますか。健さん、直美さん、今日はわざわざありがとうございました」
「いえいえ」
しばらくして刀十郎も立ち上がって辞去した。
「どうも彼のことが気になる……直美、ここで留守番しててくれないか。俺は彼の後をつけてみるよ」
「どうして?」
健は直美の疑問も聞かずに、風のように病室から消えていた。
「ケンちゃん……」
直美は健の通って行った廊下を見つめていた。健が又事件に巻き込まれるのではないかと云う不安を感じながら。
「僕をお探しですか」
健が探していた人物は存外早くに見つかった。しかも相手から僕はここにいるよと言われて。果たしてそこは病院の喫煙室だった。その一角は窓付きの衝立で廊下からは完全にシャットアウトされている。煙草の副流煙が外に流れないようにするためだ。
「山口健さん……だったかな。僕に何の用です?」
「あんたの事で知りたい事がある」
「何ですか、そんな怖そうな顔して。まあこっちに来て座ってくださいよ」
「……」
窓越しに刀十郎に呼ばれて、健は喫煙室に入って訊ねた。
「ふん、冴の言う通り、あんたは俺に良く似てるようだな。初めて会った時、冴が俺をあんたと間違えたのは無理もないだろうさ。だがその俺に似ていると云う冴の弟に化けて、あんたが冴に近づいたのは何故だ」
「何の事ですか? 僕は船岡刀十郎ですが」
「とぼけるな。俺は昨日からどうもお前が怪しいと思ってたんだ。どうも腑に落ちない点が多すぎるんだよ。帰り際に俺がお前と会った時の驚きようと言い、今日が誕生日と聞いても冴が促すまで無反応だった事と言い、冴に言わせると右利きのはずのお前が左手でフォークを持ってた事と言い」
「……ふ」
刀十郎の顔は健を小莫迦にしたように笑っている。
「笑ってないで何とか言ったらどうだ」
「……君はなかなか鋭いですな。お察しの通り僕は姉様、いや、船岡の巫を殺すために遣わされた付喪神の尖兵ですよ。船岡の巫に怪我を負わせて病院に軟禁し、奴が病院にいる間に病院の医者や患者諸共皆殺しにするのが僕の狙いです。ここまで船岡の巫を油断させ、事を穏やかに運ぶために、僕は刀十郎の姿を借りていたのですよ。おかげで貴方に勘付かれるまでばれずに済みました。それもどうでもいい事ですけどね。山口健さん、貴方もここで死ぬ事になるのですから」
「この、ふざけやがって……!」
怒った健は立ち上がり、喫煙室から出ると廊下に放置してあった箒を手に取って構えた。
「おやおや、その構えを見ると貴方はどうやら剣術の心得があるようだ。僕を倒そうと云う心意気はご立派ですが、そう上手くいきますかな?」
健は箒で偽者の刀十郎目掛けて一本取ろうとした。だが刀十郎は平然とかわして廊下に出て逃げる。追いつ追われつを繰り返した挙句、偽の刀十郎に隙が出来たと見た健は小走りに走って間合を詰めて、偽の刀十郎の頭に箒を振り下ろした。
スパーン
健に面打ちを浴びせられ、腰を抜かして尻餅をつく偽の刀十郎。振り向き様に彼は健にニヤリと笑いかけた。
「何?」
次の瞬間、健の目に映ったのはMRI検査から戻って来た冴だった。
「た、健殿……」
冴は眼前の光景に暫く吃驚していたが、やがて怖い顔で健を睨みつけて右手の拳を握り締めた。
「お主、よくも刀十郎を打ったな。一体何の恨みがあってこんな事をした!」
「違う、お、俺はこいつが……」
「黙れ!」
渾身の力を込めたパンチが健に当たる。吹っ飛ばされて尚、健は怒りの冴の攻撃を受けた。
「妾はやっと刀十郎と再会できたと云うのに、虚け者!」
「やめて冴さん、ケンちゃんを叩かないで」
この時慌てて病室から飛び出した直美と、回診に来た小野原女医と看護婦が冴を止めなかったら、健の命にも関わる所であった。冴は直美に宥められながら病室に戻り、健は小野原女医に助けられて外科病棟に運ばれて行った。
健は診療室のベッドの上で意識を取り戻した。傍らに居たのは安心したような顔の小野原女医である。
「気いつかはりましたか」
「え、ああ、冴の担当のお医者さんですか。どうもお世話かけてすみませんでした」
「いえいえ……それにしても山降りて来て早々に冴はんを見つけた思たらこんな事件があるやなんて……」
「山? 冴はん? 先生はひょっとして冴を知ってるんですか」
「ええ、旧知の仲です」
「どうしてまた病院に?」
「うちはうちでこっちぃ来たんは別の事情がありましてん。そやけど冴はんが入院さされる前にどうも怪しい事がおましてなあ。ええ、うちは偶々やけど冴はんと付喪神が戦ってた場所に居合わせて……」
小野原女医は北野天満宮での一件を健に話し、健は眉を顰めた。
「そんな事があったんですか。偶然にしてはタイミングの良すぎる話にも思えますね」
「そうですやろ。そこでうちはこの病院のお医者はんに化けて、冴はんの側に付いてました。この隙に付喪神が来たらうちが冴はんを助けよ思て」
「そして奴の魔の手が冴に伸びてる、その事を俺はあいつから聞かされてましたよ」
「あの刀十郎はんが怪しい云うんはうちも前から思うてました」
「先生はどうしてそれを?」
「うちには人間以上の嗅覚がおます。あの人からはあるはずの刀十郎はんの匂いを感じることができひんだんですわ。昔から刀十郎はんの事もよう存じ上げてるうちが本人さんと偽者の区別がつかんとでも?」
小野原女医は皮肉っぽく笑い、ピョコンと獣の耳を頭の天辺から出してみせた。
「い、犬耳……まさか、先生も妖怪だったんですか。しかも化け犬」
「妖怪? まあ当たらずとも遠からずですやろか、おほほほ。せやけどうちは犬ではおへん、化け狐です。もっと正確に言うならうちの本業は外科医に非ず、お稲荷さんの守護神ですけど……ちゃあんとフサフサの尻尾もおまっせ、見とおますか?」
小野原女医はスカートをめくってみせた。狐の尻尾とその上にある黒い布がチラリと見えた所で健は慌てて遮った。
「わあっ、や、やめてくださいよ」
「減るもんでなし、これくらいどう言う事もないのに……あら顔真っ赤にして、可愛いお人やわぁ」
「放っといてください。それはそうとあいつの正体は一体何なんですか」
健の疑問に小野原女医は暫し考えてこう答えた。
「もひとつ分かりません。健はんは何か気づいたことはおませんか?」
「そう言えば……」
健は記憶を辿って、刀十郎についてこれまでおかしいと思ったことを話すと、小野原女医は言った。
「それでもまだはっきりとは言えませんけど、恐らくは幻影みたいなもんですやろ。あるのは実体だけで刀十郎はんの記憶までは持ってへん事から察して。そうやとすれば、
冴はんの刀十郎はんを思う気持ちと付喪神の宿る何かが反応して、付喪神が刀十郎はんの姿を映し出してるんとちゃいますやろか」
「(付喪神の映し出す幻影? もしや……)」
「どないしやはりました? ハッとしたような顔して」
「先生」
「はい?」
「直美がまだ冴の病室にいたらこっちに呼んでくれませんか。ちょっと頼んでおきたい事があるんですよ」
「そら構いませんけど、またどうしてですのん?」
「それは、その……あんまり人様には話せない事もあるんで」
「分かりました。ちょっと待っとってください」
小野原女医は部屋を出て、冴の病室に向かった。
「お待たせ。洗濯した替えの下着とパジャマとタオル持って来たわよ」
夕方、一度家に帰った直美が冴の病室に戻って来た。
「ああ、忝い」
「それから今日お風呂ないでしょう。体拭くからパジャマ脱いで」
「どうしたのじゃ? いつもは医者や看護婦が手伝うはずじゃが」
「急患が来て、小野原先生も看護婦さんも手が離せないんですって。それで私が代わりに手伝ってって先生に言われたの」
「ふむん、直美殿なら安心か。これが酔っ払った奈々香殿なら……」
冴は巫女喫茶での一件を思い出して口を滑らせたが、直美も被害に遭っていると健から聞いていたと思い直して口を噤んだ。直美は何も言わずに苦笑している。
「では頼もうか」
冴はパジャマを脱いで、ブラジャーを外して上半身裸になった。直美が病院備え付けの電子レンジで温めた即席蒸しタオルで冴の体を拭き始める。
「直美殿」
「はい?」
「先刻帰った時に健殿と会うたそうじゃな。何を話したのじゃ?」
「別に大した話じゃないのよ。今夜は久しぶりに私の作るカレーが食べたいとかそんな話だけ」
「それしきのつまらぬ話のためにわざわざ呼びたてるか」
「私のカレーはケンちゃんにはご馳走だし、暫くご無沙汰だったから。ほら、出来合いのルウ使うんじゃなくてそこから自分で作ろうとしたら……ね?」
「それにしても、じゃ、先程の事より今日の夕食を気にかけるとは健殿は何を考えておる。妾に言わねばならぬ事があろうに」
ケンちゃんは(相手が誰だろうが)意味も無く手を上げるような男の子じゃない、とそれを事実として知っている直美は主張したかったが、そこは堪えて、
「そ、そんな風にケンちゃんには言わない方がいいと思うよ。あんまりストレートに言うと、ケンちゃんは余計意地になるから。機嫌のいい時を見て、こう、怒らせないようにプライドを擽りながら言い含めると案外素直になってくれるけど」
「……」
「あー、その、冴さんも明日か明後日には退院するよね? 私のカレー是非食べて欲しいな。ケンちゃんもお父さんも美味しいって言ってくれるし、きっと冴さんも気に入ってくれると思うの。ほらケンちゃんって甘党でしょ? だから辛い中にもまろやかさを出そうって事でミルクもちょっぴりだけど増量させて、女の子でも安心して食べられるように……」
直美は慌てて話題を変えようとしたが、冴の反応は余り楽しそうではない。
「直美殿、これは何の冗談かの?」
「あ……」
直美は冴の胸を拭いていたのだが、胸の下側を拭くために乳房を持ち上げていた手が適度な刺激をそこに与える感じで触れていたようであった。そこで「ミルク」発言があったことが冴には気に入らなかったらしい。
「ご、ごめんね冴さん。セクハラするつもりじゃなかったの。あ、そうそう、洗濯物はあるかしら? また持って帰って洗うわ」
「洗濯物ならそこのびにいる袋の中じゃ」
冴は顎をしゃくった。
「そ、そう。でも他にもあるかもしれないわね。ちょっと引出しの中見せて」
「おい直美殿、何をするか」
冴が慌てて直美を止めようとしたが、直美は引出しの中を検分するのをやめようとしない。何かを探しているかのように。そうしてどう見てもまだ使ってすらいないようなタオルを二、三枚洗濯物と一緒にビニール袋に入れてそそくさと行ってしまった。
「じゃ、じゃあ今日はこれで失礼するわ。また明日ね」
「おいちょっと待て直美殿……」
冴が引きとめた時には、もう直美の姿は病室には無かった。病院の廊下が騒がしくなり、「火事やー」と云う悲鳴と非常ベルの音が響いたのはそれから数分後の事だった。
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