第八話 迷子の迷子の子狐ちゃん
 

A-Part

「あ、そうなの……うん、分かった。じゃあケンちゃんの分は置いとくから……はい、じゃあ気を付けて帰って来てね」
 ガチャリ
 夕方、丁度大学の授業が終わろうかと云う時刻に電話があり、出ていた直美が受話器を置いた。厨房にやって来た冴が直美に声をかける。腕の怪我は治ってギブスも取れ、喫茶の女給として復帰していた。
「健殿か?」
「うん、用事で後輩の子と新京極と河原町に行くから遅くなるって」
「でえとにでも行っておるのかの?」
「ちょっと冴さん」
 直美の顔が曇った。彼女は健の後輩には誰にも会ったことがないので男か女かは知らないが、彼が気心の知れた相手以外と仲良くすると云うのは些か不安ではある。ましてそれが女の子だったとしたならば。
「妾の軽口、気に障ったかの? 済まぬな(まあ妾は勿論、直美殿の気持ちすら解さぬ健殿に限ってそれはないじゃろうが……)」
 冴は直美を幾つもの意味で気の毒に思った。女同士、まして人より読心術に長けている冴だけにその辺りの心理は口に出されなくても分かる。奈々香には常々、
「ここまで出来た娘もそうはいないわよ」
 とまで言われているのに妹的存在以上に直美を見られていない健と来たら……。
 間もなくお茶の時間も過ぎ、若干店内が落ち着いた所に来客があった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ……おお」
 はんなりとした声と共に現れた上品な感じの女性は小野原女医こと大原野楓であった。病院勤務の外科医とは仮の姿で、冴とは旧知の知り合いの稲荷の守護神である。
「ああ、先生ですか。この間は冴さんがお世話になりました」
「いえいえ、とんでもないです。今日は冴はんの快気祝い云う事で寄せてもろたんですけど……しばらく冴はんお借りできませんやろか」
「いいですよ、今ならそんなに忙しくありませんから」
「おおきに。それから此方は中村軒のお菓子です。直美はんや健はんらも上がっていただかれて」
「どうもすみません、ありがとうございます。あ、今お茶淹れますから其方の空いてる席にどうぞ」
「いえ、えらいお勝手言いますねんけどちょっと人様には聞かせられへん深刻な話もおまして。せやさけ応接間あったらそちら貸してもらえませんやろか。いえ、冴はんの怪我のことではおへん。それはもう心配おませんよって」
 冴は直美に目配せした。直美はアイコンタクトで「居間使ってもいいよ」と答えたので冴は楓を促した。
「何事かは分からぬが、楓がそう言うなら一先ず聞かせてもらうとするか」
「ほな暫くお手取りますけどよろしゅう」
「済まぬな直美殿」

「何じゃと、篝(かがり)が家出したとな?」
 冴が久しぶりに再会した友人から聞かされた話は、妹が失踪したと云う話だった。直美の持って来てくれたお茶を一口飲んで楓が話を続ける。
「ええ、元は言うたら些細な事ですねんけどうちと喧嘩して、お社を飛び出してそれっきり帰って来やへんのですよ」
「それは心配じゃのう。お主と違って篝はまださほどの神通力を持ち合わせておらぬ。万が一にもこの物騒な京の街で付喪神に襲われたなら無事に済むかどうか……」
「うちもそれを案じてますねん。お宅からも連絡があって、うちはここ来る前に日名子はんに会うて来ました。うちを出たその日に篝が来て、日名子はんに冴はんの行方を訊ねてたんですて」
「篝は妾に懐いておったでの、山を降りた妾を頼る肚なのじゃろう。で、母上は篝に何と申したかの?」
「うちのお社に戻るよう説得しやはったそうです。せやけど『儂は山を降りて冴と一緒に暮らす』の一点張りで、しまいに泣き出して『分からず屋の姉上も日名子叔母様も大嫌いじゃ』言いもって行ってしもうたとかで……」
 いつも静かに笑っている楓の顔が曇った。我儘な妹に手を焼く姉としての困惑の色が浮かんでいる。
「あの宮司では守護神を務めるのが嫌になるのも無理からぬ話ではあろう。じゃがお主等に逃げられて困るのは何と言っても信徒や参拝者じゃ。楓、お主もそう思って辛抱して奉職して来たのであろう?」
「そうです。参拝してくれはる皆さんあってのお社ですよって」
 冴は楓と篝のいる大原野稲荷の宮司の顔を思い浮かべて顔を顰めた。彼はまだ若い男で、受験にもご利益があると云う社が儲かっているのをいいことに神職の務めそっちのけで祇園で芸者やクラブのホステス相手に遊び回ってばかりで、幾ら周囲が注意しても叱っても放蕩癖を改めようとしない。彼の家もまた船岡の一族と浅からぬ縁のある関係上交流もあって、宮司は冴とも顔見知りなのだが、そんな男である上に自分もしつこくモーションをかけられていたので冴はこの宮司を嫌っていた。況やいつも一緒にいる楓や篝の彼に対する心境は察するに余りある。
「(せめてしっかり者の楓のおかげで今日の大原野稲荷がある事くらい少しは分かって欲しい物じゃがのう……)」
 望むだけ無駄か、と思いながらも冴は旧知の友人の困り事とあっては捨てては置けぬと思い直し、
「妾を頼るとはっきり言うておったなら、余程の事でもない限り妾の所に来るじゃろうの。妾の匂いを辿る事くらいなら篝にもできる故。分かった、篝を見つけたらお主に連絡しよう。先日まで妾が入っておった病院で良いな?」
「ええ、当座はそっちに居りますさけ。ほな今日はこれでお暇さしてもらいます」
「うむ、玄関まで送ろうぞ」
 そうして二人の巫女が元吉のホールに出て来るなり聞こえたのは、
「ええ〜っ?!」
 素っ頓狂な直美の叫び声だった。彼女の向かいには友人の祐子がいる。何やら直美の気になる話をしていたらしい。そこにいた他の客と冴と楓が目を丸くして直美の方を見ていた。
「あ……」
 顔を赤らめる直美。冴の物問いたげな視線を見て、祐子が面妖な顔で言った。
「いえ、私別に変な事言ってないわよ」
「そうなのか?」
「用があって新京極行ったら、ケンさんが女の子に手取り足取りレクチャーしてたって」
「おほほほ、健はんも隅に置かれへん事。大人しそうな顔してしっかりそっちの方の興味もあらはったんですなあ」
 楓が口元を手で抑えて笑う。
「え、何の事ですか? ケンさんが女の子に教えてたのは写真の撮り方ですよ」
 祐子が説明し、冴と直美は非難の目で楓を見ていた。

「あ、ちゃんと写ってる。おかしな色してるのがほとんどないですね」
 四条寺町の喫茶店「御多福珈琲」で、福原彩乃は健と差し向かいの席でついさっき上がったばかりの自分が撮った写真を見て感激していた。
「簡易露出表だけ頼りに撮っても結構写ってるもんでしょ? スライド用フィルムは別だけど、ネガフィルムならマニュアルカメラ使うのもそんなに怖い事じゃないさ。後はもう練習に練習を重ねて彩乃ちゃんなりの露出感覚を身に付けていけばいいんだ」
「えー、早く上達する方法ってないんですか?」
「そんなのないに決まってるじゃないか。今でこそ俺だって写真を商業誌に買ってもらえた程の腕はあるけど、ロクな物撮れないなって言われた時代はどうして長かったんだぜ? 美大も受けてた彩乃ちゃんなら分かると思うけどな」
「何事につけ芸術の道は厳しい物ですね、とほほ」
 ションボリする彩乃。健の指摘した通り、彼女は「芸術家」を志して美術系の大学も何校か受けていたものの、実技選考で落とされて滑り止めで受けていたこの大学に入った経歴の持ち主である。ピンクと白のチェックのワンピースと、お揃いの柄のリボンで飾ったツインテールと云う彩乃の出で立ちは、さながら芸大生の日常を描いた少女漫画から抜け出してきたキャラクターのようだった。そんな漫画に親しんでいた直美ならさぞ好感を持つであろう。
「まあそう言わないで。何枚も撮っているうちに必ず得る物はあるはずだから。撮って撮りっ放しってのは勿論駄目だよ。辛いだろうけど失敗作も次のステップの糧にしていかなきゃ」
「ですよね。山口先輩、私頑張ります。今週日曜日のワンワンフェスティバルに向けて!」
「うん、その意気だ。俺で良かったら空いてる時ならいつでも練習に付き合ってあげるよ」
「山口君、浮いた噂がなかなかないと思ったらいよいよ行くのかい?」
 店のマスターが冷やかした。
「いや、そんなんじゃありませんよぉ。彼女は大学の後輩で、フィルムカメラで本格的な写真を撮りたいって言うし、もうそっち方面の事分かる連中って俺以外にそうそういないから俺が成り行きで先生やってるだけです」
「えー、私は山口先輩っていい線行ってると思いますけど?」
「またまたぁ、彩乃ちゃんまで」
「先輩もファッションいい感じにコーディネートすれば行けると思いますよ。とびっきりのイケメンって訳でもないけど素材はいいんですから」
「(なんて言ってもらえたのは直美以外では初めてだ)そうかな」
「そうですよ。ちょっと有名でお洒落なカジュアルウェアでも着たら山口先輩はきっと化けますよ。今度良かったら私が服選びましょうか」
「いや、遠慮しとくよ。俺はそんなにもてたいって方でもないからさ」
「あら勿体無い」
「あー、そうだ、その代わりと言っちゃ何だろうけど、さっき彩乃ちゃんが言ってたワンワンフェスティバル、良かったら俺も付き合ってあげるよ。今の所予定ないし」
「いいんですか? 私まだこのカメラ使いこなせるかどうか不安なんで山口先輩に来てもらえると嬉しいです♪」
「じゃあ決まりだね。日曜日は彩乃ちゃんのために空けとくよ」
 健は手帳を取り出して、予定を書き込んだ。これがまた彼が付喪神の関わる事件に巻き込まれる発端になる事などこの時は思いも寄らずに。

 そして日曜日。健は東山二条でバスを降りて京都の有名な展示場「みやこめっせ」に向かって歩いていた。今日はここのイベントホールで来場者と犬が交流できるイベントが開催されている。犬が大好きだけどアパート暮らしで飼えない彩乃に取っては有難いイベントであった。ストロボを焚かない限りは写真撮影も許可されていたので、彩乃はカメラ持参でさぞ張り切っているだろうと健は思った。岡崎方面をブラブラ歩いていると、何者かが健に付いて来る気配がある。
「(誰だろう?)」
 健が振り向いても、そこには誰も居ない。下で何か明るい茶色の塊が動いているのが見えたので、健が足元を見ると、そこにいたのは尻尾のフサフサした子犬だった。哀願するような目で健をじっと見ている。
「何だお前、腹でも減ってるのか?」
 健はしゃがんで視線を子犬に合わせて訊いた。そうだよと言いたそうにクンと鼻を鳴らす子犬。
「……こんなもんだけど、良かったら一つ食うか?」
 健は出掛けに冴が持たせてくれた弁当の包みを開けて、稲荷寿司を出して子犬に差し出した。好物をよく知ってたねとばかりに目を輝かせて食べる子犬。
「どうだ、腹膨れたかい子犬ちゃん。じゃあ俺はこれで……」
 健がその場を離れようとした途端、その背中に金切り声が飛んだ。
「無礼な、子犬とは何じゃ子犬とは!」
 健が吃驚して振り向くと、犬に代わってそこに立っていたのは怖い顔で健を睨む巫女装束姿の少女だった。頭には狐耳まで付いていて、肩の辺りまで伸ばした髪を冴と同じように一本にまとめて、檀紙で包んでいる。外見が冴に似ているだけに怒った顔まで冴のそれと似ているように健には見えた。
「(何だこの冴をサイズダウンしたような子供は)お、お嬢ちゃん、君は一体……」
「お嬢ちゃん? 尚無礼じゃぞこの虚け者」
 少女は思い切り健の向こう脛を蹴った。
「ぎゃああっ」
 余りの痛さに足を抱えて飛び上がる健。更に少女が二の矢を放つ。
「畏れ多くも儂は八百年の昔より大原野稲荷に仕えておった化け狐、人呼んで大原野篝じゃぞ」
「稲荷に仕えておった? じゃあ、その……篝……ちゃんはひょっとして楓さんのぎゃひっ」
「その名を出すな、不愉快じゃ!」
 もう一発健の向こう脛に篝のキックが飛ぶ。健は又片足で踊る羽目になった。
「あんな人の良すぎる姉上や盆暗な宮司にはもう付き合い切れぬ。儂はあんな社に見切りをつけて、冴と暮らしたくて此処まで来たのじゃ」
「……(そうか、楓さんは冴とは知り合いだって言ってたな。当然妹がいるなら同じように冴を知ってるだろうさ。冴の格好や喋り方を真似てる所見てるとこの子はどうやら冴の事は好きみたいだな。やたら怒る点はやっぱり子供だけど)」
「ところで貴様、山を降りて街にやって来た冴の行方を知っておるようじゃな?」
「(貴様って何だよ)冴って……船岡の一族とか云う巫女の冴の事か?」
「そうじゃ。貴様ならきっと知っておるであろう。心当たりがないとは言わせぬぞ?」
「ああ、知ってるよ。でもどうして分かったんだ?」
「迷いに迷ってこの界隈を歩いておったら冴の匂いがしての。それを追い掛けて行ったら貴様に行き当たったのじゃ。それに貴様の持っておる稲荷寿司は確かに冴がよく食べさせてくれたのと同じ味での。ああ、間違いのない所じゃわい。で、冴は今何処におる?」
「冴なら俺と一緒に俺の従妹の家に下宿してるよ」
「何と、貴様のような腑抜けた男が冴と同居とな?」
 篝は一声叫んだと思うと、小鬼のような形相で健を睨んで言った。
「貴様、さては冴を拐かしたな! そうして一つ屋根の下で暮らし、如何わしい行為に及んでおるのじゃろう」
「(何でそんな方向に話が行くかなあ)……」
 絶句する健。彼がどう言おうとも怒り心頭の篝が聞くはずもなく、
「掛巻も恐き稲荷大神の大前に恐み恐みも白さく、枉神(まがかみ)の枉事(まがごと)有らしめ給はず過ち犯す事の有らむをば。神直日大直日に見直し聞き直し、坐して夜の守日の守に守り幸はへ給へと恐み恐みも白す」
 両手を上げて天を仰いだ。だが何も起こらない。
「……は、何やってんの?」
「……」
 しばしの沈黙の後、篝は吐き捨てるように言った。
「運が良かったな貴様。数日何も食べていなかった故神通力が不足しておったようじゃ。貴様が稲荷寿司を食わせてくれたおかげで人間体に戻る事は叶ったがの」
 健は苦笑しながら説明した。
「あのな、一緒に暮らしてるったって冴と俺の関係は同居人以上の物じゃないんだ。俺は女の子には優しくするってのが信条なんだし、冴も冴で別に俺の事どうこうって聞いた覚えはないよ(揶揄われてばっかりなんだし)」
「さてどうかの、今一つ信じられぬわい。冴が貴様のような虚け者に心を許すとは思えぬ。今日一日貴様に付いて、貴様が女子に狼藉を働く事がない男かどうか監視させてもらう。何事もなければ貴様のその言葉を信用してやろう。何事かあれば今度こそ貴様に制裁を下す。せめてもの情けで死因は選ばせてやるぞ?」
 篝は意地悪そうに笑った。
「莫迦言ってんじゃねえ、誰がそんな事……いいだろう、俺に付いて来るなら好きにするがいいさ。だけど俺達のする事に茶々入れたりはするなよ。今日は俺の後輩にとって重要なイベントのために行くんだからな。引っ掻き回されたらかなわん」
「ふん、そいつは貴様次第じゃ」
 こうして健は狐耳付きの巫女少女と云うオプションを付けて彩乃と会うことになった。何事か分からない彩乃が吃驚したのは言うまでもない。
「や、山口先輩、その娘どうしたんですか?」
「いやまあ、話せば長くなる事で……俺の知り合いの知り合いとでも言おうか。迷子になっちゃって、何か俺にどうしても付いて来たいって言うから結局一緒に此処まで来たんだ。邪魔しないでって釘は刺してあるから大丈夫と思うよ。気にしないで」
「でもぉ、迷子だからって……」
 訝しがる彩乃を宥めながら、健は篝を引き連れてみやこめっせに入っていった。

奈々香です。ついさっきケンと後輩らしい女の子がみやこめっせにやって来ました。と言ってもこみトレや大B反市に参加する訳でもなく、ワンワンフェスティバルに用があって来場したみたい。あたしは今一般入場列の真っ只中ですぐには抜けられないけど、暇があればどうしてるか見て来るわね。でも犬耳の付いたちっちゃな女の子がケンの後に付いてきてたのはどうした事かあたしにはさっぱり分からない。見た感じ冴さんのミニチュア版って感じだったけど?

 この日同じくみやこめっせで開催されていた同人誌即売会に来ていた奈々香は、直美の依頼で健の動向を探っていた。その結果を報告する携帯メールを直美は休憩中に訝りつつ読んでいた。
「犬耳のちっちゃい巫女さんって何よ。迷子でも拾ったのかしら」
「何じゃと?!」
 そろそろ店に戻るよう言いに来た冴が、直美の発言を聞きとがめて思わず声を上げた。
「冴さん?」
 驚く直美。冴は深刻な顔つきで直美に告げた。
「その犬耳、いや正しくは狐耳が付いておると云う巫女、もしかして妾の格好を真似ておると云う事はないか?」
「さあ……でも冴さんのミニチュアなんて書いてあるから似てるんじゃないかしら?」
「そうか、ならば篝に違いあるまい。済まぬが直美殿、健殿の所に行かせてくれぬか? 行方の知れぬ知り合いの妹が今健殿と一緒に居るのじゃ。なるたけ早く戻る故、暫し店を頼むぞ」
 冴はそう言って、足早に元吉を後にした。
「あっ、冴さん?」


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