第八話 迷子の迷子の子狐ちゃん
B-Part
「フィルムは何入れてるの?」
「DNPのISO400です」
「うん、それなら1/60秒で絞り2で大丈夫だよ。近づいて絞り開放だと広角でもピントはシビアになるから、落ち着いてじっくりピント合わせてね」
「はーい」
健の指導を受けながら、彩乃は犬にレンズを向けて、ファインダー越しのボケた世界がピントリングの回転に合わせてピシッと像を結ぶのを楽しみながらシャッターを切った。カメラはオリンパスFTLで、レンズはペンタックス製のSMCタクマー35ミリF2である。彩乃の父親が使っていたと云う事だが、健は彼女のカメラを初めて見た時には驚かされた物である。
「(オリンパスがOM−1を出すちょっと前にそのつなぎで短期間出してたカメラじゃないか。今じゃコレクション物だぜ!)お父さんはよっぽど大事に使ってたんだね。ほとんど新品同様にピカピカだよ……さすがに露出計はへたってるみてーだけど。大事に使って、いい写真撮れるように頑張ってくれ。そうすればこのFTLも喜んでくれるだろうさ」
「はい、私頑張ります!」
それまではホルガと云う玩具の中判カメラでピントも露出も極アバウトな写真を撮って、一廉の芸術家を気取っていた彩乃だったがここに来てピントと露出のしっかり合った写真も撮りたいと思ったのがFTLを持ち出す切っ掛けであった。
「前も言ったけど脇を締めて、静かにシャッターボタンを押して」
カシャッ
「そうそう、彩乃ちゃんはなかなか筋いいじゃない?」
「えへ、ありがとうございます」
なかなかいい雰囲気の二人である。
「山口とやら、貴様の女子には優しく振舞うと云う言葉に嘘はないようじゃな」
篝が口を挟んだ。
「俺は最初からそう言ってるだろ」
「ああ、それはよく分かった。じゃが儂は貴様を認めた訳ではないからな」
「分かってる、皆まで言うな。お前の言いたいことは良く分かるから」
「冴に少しでもおかしな真似をしてみろ。儂は承知せぬからな」
「承知するもしないもあるかよ。俺と冴はそんなじゃないって言ってるじゃないか」
「そう言えばそうかも知れぬな。貴様のような男など、冴は歯牙にもかけるはずなど……」
「おい、お前が喧嘩吹っかけるから彩乃ちゃんを見失ったじゃないか」
「そんな事儂の知った事か」
「知った事かじゃねえよ。全く何のためにこっち来たか分かりゃしねえ……あ」
辺りを見回した挙句、健は会場の一隅にスペースを借りていた怪しげな団体の前にしゃがんでいた彩乃を見つけた。
「(あれ、あの団体はひょっとして……)」
健は京都に住まうようになってから、彼らには何度も遭遇してトラブルになった事もあったのでよく知っていた。偶々四条河原町でスナップ撮影をしていた所、カメラのレンズが彼らを向いて(健には彼らを撮るつもりはなかったにもかかわらず)リーダー格の男と一悶着あったのである。しかも後で大学の友人から聞いた話では捨て犬の里親探しの体裁を借りて集めた募金を主催者は私物化していると云う事だった。その話は地方ニュースでも取り上げられていて、健は開いた口が塞がらない思いをしたものである。
「(暫く見かけねえと思ったらほとぼり冷めるのを待ってたのか。そしてこんな所にまでノコノコ出てきやがって)彩乃ちゃん……え?」
健は彩乃が寂しげな目で、衣装ケースの中の子犬を見ているのに気がついた。彼の物問いたげな目に彩乃が答える。
「私ね、子供の頃こんな子犬飼ってたんです。でも四年生の時に今のアパートに引っ越す事になって、そこでは犬が飼えないから里子に出す事になったんですけど誰も引き取り手が見つからなかったんです。まだこんな団体もそんなになかったですし……
結局お父さんのお友達の子の所にあの子は行ったんですけど、それすらもできない子もいっぱいいるんだなって……」
「そうなんだ。まだ京都では年間何匹もの犬や猫が里親が見つからないまま殺されていてね、私達はそんな動物を保護して、里親を見つけてもらう活動をしているんだよ。そこで君、募金をお願いできないかね」
「ちょっと待って彩乃ちゃん」
健は財布を出そうとしていた彩乃を押し止めて、この団体に付いて知っている事を話した。彩乃の顔が曇ったと思うや、割り込みが入った。野球帽を被った初老の男である。
「兄ちゃん、何かワシらに文句でもあるんか?」
「いや、他見に行こうって言ってただけです」
「折角この姉ちゃんが善意で募金しょうとしてくれてたのに邪魔すんなや」
「善意だと? お前らのやってる事は知ってるんだ。ニュース種になってよくもまあ抜け抜けとこんな所にまで出てこれたもんだな」
「うるさい兄ちゃんやのう。ちょっと黙っといてもらおか」
男は健の首に手を伸ばして、首輪を嵌めた。すると健は犬に変身してしまった。そのまま衣装ケースに閉じ込められてしまう健。
「山口先輩!」
「山口!」
「ふん、出しゃばりが。俺の邪魔しょうとする奴はこうや」
「山口先輩に何するんですか」
「折角ホームレスに食い扶持を与えてやって、犬や猫の世話もしてやっているのにそれを邪魔する方が悪い」
「でもこんなの酷すぎます。山口先輩を元に戻してください」
「姉ちゃんも文句付ける気かい。ほな……」
男の手が動き、彩乃も首輪を嵌められて犬に変えられて、衣装ケースに入れられてしまった。
「ふん……」
「ちょっと待て貴様、付喪神の手の者じゃな?」
篝に言われて男は動揺の色を見せたが、すぐに変装を解いて開き直ったように答えた。
「ふ……バレてしまっては仕方ないか。いかにも俺は変化大明神の神職で手拍子の神楽男と云う者だ。だがそれがどうかしたかね」
「儂は船岡の一族とは縁浅からぬ稲荷の守護神よ。貴様らが京の街で民に仇為しておる事は儂らの耳にも入っておる。貴様らは討たねばならぬと冴は言っておった故、成敗させてもらう」
「面白い、たかが子供がこの俺に何ができると言うのかな?」
「たああああああああ」
篝は神楽男に当身を食らわそうとしたが、あっさりかわされてしまう。すかさずカウンター攻撃が飛んだ。
「お前も俺の邪魔立てをするなら許さん。この首輪で狐の姿のまま戻れないようにさせてもらおう」
手裏剣のように神楽男の手から放たれた首輪が篝の喉元目掛けて飛ぶ。だがすんでの所で首輪は叩き落され、篝の体はヒョイと持ち上げられた。
「何者だ!」
「名乗らずとも分かろう。既にお主は妾と会っておるのじゃからな」
「船岡の巫……」
冴は篝を抱き上げて、神楽男に向かって言った。
「化け狐を追って此処へ来たのじゃが、おかげでお主の良からぬ企みに行き当たったようじゃのう」
「ふ、馬鹿々々しい。この俺が何をしたと云うのだ」
「お主の足元に落ちておる服、それは健殿が今日家を出る時に着ておった服じゃ。その傍らのは健殿の後輩とやらの服であろう」
冴は戦闘態勢を整え、懐から一蓮を取り出して構えた。
「篝を危ない目に遭わせた事は勿論、健殿に仇為したとあれば妾はお主を許す訳にはいかぬ。妾の手で調伏されるが良い! 妖討の巫覡、船岡が……何っ」
すかさず神楽男が篝目掛けて首輪を投げつけた。気付いた冴は篝を庇って体を捻ったが、首輪はそのまま冴の首に嵌って冴が犬に変えられてしまった。
「冴!」
我を失って叫ぶ篝。犬に変えられた冴は神楽男に突進したが、あっさり押さえつけられて口輪を嵌められ、そのまま健や彩乃と一緒に衣装ケースに放り込まれてしまった。
「事は穏やかに運ぶつもりでいたが、こうなった以上手段は選べまい。人間ども、俺の妖術で犬になるが良い、行け、首輪の路傍犬」
ザッと立ち上がる付喪神とパニックに陥る場内。逃げ惑う人々は片っ端から首輪の路傍犬と呼ばれた付喪神に捕まり、首輪を嵌められて犬へと変えられてしまった。
「おのれ……!」
何もできずに悔しげな顔の篝。だが足元にあった健の鞄にふと目が止まった。
「(そうじゃ、山口は冴の作った稲荷寿司を持っておったはず。あれを食えば幾許かでも儂は神通力を得る事ができる)」
篝は健の鞄を開けて弁当の包みを取り出し、稲荷寿司を平らげると神楽男に向き直った。
「さあ、儂は神通力を得たぞ。今度こそ貴様に天誅を下してくれるわ」
篝は両手を上げて祝詞を唱えた。
「掛巻も恐き稲荷大神の大前に恐み恐みも白さく、枉神(まがかみ)の枉事(まがごと)有らしめ給はず過ち犯す事の有らむをば。神直日大直日に見直し聞き直し、坐して夜の守日の守に守り幸はへ給へと恐み恐みも白す」
篝の両手が光り、雷が轟いて神楽男にダメージを与える。
「ぐわあっ」
強烈な一撃に倒れる神楽男。雷は衣装ケースも破壊して、中から神楽男の手にかかって犬に変えられた冴、健、彩乃が人間の姿に戻って現れた。
「篝のおかげでどうやら元に戻れたようじゃな」
「今の雷撃で首輪が切れて呪いが解けたんだ」
「良かったぁ。山口先輩、私怖かったです〜」
「わっ、ちょっと待ってよ彩乃ちゃん、俺達は……」
服が脱げて真っ裸だよ、と続きの言葉が出るより先に彩乃は自分も健も服を着ていないことに気付いて、真っ赤になったと思うや慌てて腕で胸と下半身を隠して飛び退いた。
「きゃああああ、山口先輩、早く服着てください」
「ごめん、でも彩乃ちゃんもね(彩乃ちゃんって発育いい方だったよな……さすがに冴や直美ほどではないにしても)」
冴達は脱げた服を着て、冴は暴れ回る路傍犬と対峙した。
「うぬ、まだ抵抗するか船岡の巫」
「お主らが京で民に仇為す限り、我らを要する者が一人でもいる限り、妾は敗れる訳には参らぬ」
改めて一蓮を手に掛けて念じる冴。
「妖討の巫覡、船岡が族の名に於て畏み畏み申す。古に付喪調伏せし護法童子よ、我に力を与え給う!」
光と共に冴の手に収まったのは、犬のおやつとして売られている骨型の犬用のガムだった。
「おおー、俺の大好物じゃねえか。今寄越せ、すぐ寄越せ、さあ寄越せ」
「(これは大方爆弾じゃろうて)食いたいのなら食うが良かろう。お主で掴み取った上でな、それっ!」
冴が投げたガムを追い掛けて、口でキャッチする路傍犬。
「あんぐ……ん、あんかおかひいお、だんだん熱くなって……ぐわあああああっ」
ドカーン
「ぐぞー、くやしいのう、くやしいのう……」
断末魔と共に路傍犬は爆発し、後に古ぼけた犬の首輪が残って床に落ちた。
「おのれ船岡の巫、次はこうは行かんぞ覚えておれ」
計画の失敗を悟って逃げようとした神楽男だったが、彼は何か柔かい物に阻まれた。冴から連絡を受けてやって来た楓である。
「あん、やらしいお人やわ。いきなり何しやはりますのん」
「お前は……先日祭文の督と会った病院の女医か」
「そうです。またあんたらこんな所で悪さしやはってからに……お仕置きが必要ですなあ」
楓は神楽男を捕えて離さず、そのまま篝を見遣った。
「あ、姉上……」
「篝、あんたもやで、分かってるやろね」
「ひぃぃぃっ」
「ほんまにもうあんた云う娘は勝手ばっかりして、うちだけやったらまだしも、日名子はんや冴はん、健はんにまで迷惑掛けて何してんのん」
みやこめっせのロビーで、楓は篝をうつ伏せに膝に置いて袴を脱がせ、強かに何発も篝の尻を叩いた。
「痛い、痛い! やめてくれ姉上ぇぇ」
二十発ほど叩いた所で楓は篝を立たせ、冴に頭を下げさせた。
「ほら謝りよし」
「冴、世話掛けて済まなかった……ぐすっ」
「健はんには?」
「それは嫌じゃ。山口なんか知らぬ」
「あんた健はんのお昼のお弁当食べたんやん。その上足まで上げてからに……」
「いやいや、気にしないでください楓さん。何分あの状況では仕方なかった事ばかりで……」
「こない言うてくれはる健はんはええ人やないね。せやけどあんたがした事は悪い事ねんし、謝らなあかんえ」
「……」
意地でも健に謝りたくないと黙って首を横に振る篝。
「もう一回お尻叩こか?」
怖い顔で楓に言われて、篝は渋々と云った感じで
「……済まぬな、山口」
健に謝った。
「皆さん、今日はほんまに篝がご迷惑おかけしてすんませんでした。うちは篝を連れて大原野稲荷に帰ります。うちらもいつまでもお社を留守にして、信者はんらにご迷惑おかけする訳にはいきませんよって」
「うむ、又会う機会もあるじゃろうしの。妾はいつでも待っておるぞ」
「おおきに。ほないずれまた……」
楓と篝は玄関で冴達と別れた。
「ねえ山口先輩」
「ん?」
「これからレストラン行きません? 私お腹空いちゃって……」
「妾も腹拵えしたいのう」
「ええっ……あー、そりゃ別にいいけどさ、あんまり高い物は奢れないよ」
「心配しないでください、私の分は私で出しますから」
「妾もじゃ。余り健殿を困らせる訳にもいかんでな」
「ならいいけど……ん、何か犬が吠えてるような声がしてるな」
「さあな、気のせいじゃろう」
三人は入口脇のレストランに入っていった。その様子を見ていた奈々香が直美にメールを打つ。
いつものように女の子には優しいケンだけど、まだ後輩の女の子とは特別な関係までは行ってないみたい。ナオといる時とそんなに態度が変わらないのがその証拠。あの娘は積極的な娘みたいだったし、あの娘から言い寄ってきたならともかくケンの方から彼女に靡く事はまずなさそう。でもうかうかしてられないのも事実かもよ?
メールを見た直美は些か安心して携帯電話の蓋を閉じた。
「そっか、ケンちゃんはいつものケンちゃんだったか。でも最近ライバル増えてるみたいだし、うかうかしてられないってのは本当かもね……今日はケンちゃんの好きな直美ちゃん特製カレーまた作っちゃおうかしら。お母さん、買い物行ってこようと思うけどついである?」
「嫌な予感がして様子を見に来たのじゃが……」
「神楽男、あんたなんて格好してるのよ!」
「わははは、人間共を犬に変えるつもりがお前が犬にされてしまったとはな」
「荒太郎! 笑ってる場合じゃないでしょ。今度の作戦も失敗に終わったって云うのに」
「痛い痛い、八乙女、俺の顔を掴まないでくれ」
「八乙女も荒太郎も落ち着かぬか」
「おい……お前ら内輪揉めしてる暇があったら俺を助けてくれよ」
付喪神の幹部がみやこめっせにやって来て目の当たりにしたのは、裸に剥かれて犬耳と尻尾と「私は愚かな牡犬です」と書かれた札の付いた首輪まで付けられて紐で木に繋がれた神楽男だった。
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