階段を上がり、ふらふらと僕は部屋に向かう。今日はラウンジに長居してしまった。間近に迫った最後の作戦日の為か、寮の皆はどこか落ち着かない様子で、特にジュンペーがいつも以上にはしゃいでいてなかなか会話から逃れることが出来なかった。おかげで明日の予習は出来そうもない。既に身体が眠気の来訪を感じてる。
 二階廊下突き当たり、窓から差し込む月の光をたよりに鍵穴に鍵を差し込む。欠伸が一つもれた。

『お風呂、時間ない……』

 鍵を開けたドアから中に入って、電気は付けずに机へ真っ直ぐ。抱えた鞄を机の上に置いて腕の時計に目をやる。もうすぐ0時、影時間。誰も知らない秘密の時間の中では人も機械も静かな眠りに就いてしまう。機械が眠ってしまうのだから、シャワーのお湯だって出てきてくれない。
 無意識にため息が口からこぼれると同時に、カーテンが開けっ放しだった窓から差し込む月の光が蛍光色の緑に染まる。思った傍から影時間が始まってしまった。

『しょうがないな』

 今日はこのまま眠ろう。明日少し早めの時間に起きて、軽くシャワーを浴びることにする。お弁当を作る時間が無くなってしまうかもしれないけど、途中のコンビニで何か買っていくとして。……ああもう、全部ジュンペーの所為だ。
 腕時計を外して、首のリボンタイに指をかける。正直制服を脱ぐ時間も惜しいけど、このまま寝たりしたら皺が酷くて学校に着ていけなくなる。それはそれで面倒。
 プレイヤーとイヤホンをまとめて鞄の上に静かに置く。そしてブレザーを脱ごうと右腕を上げ……腰のあたりに違和感。

「こんばんは」

 驚いて脇下から後ろを覗き見ると、腰に抱きついている柔らかい黒髪の少年と目が合った。影時間特有の月明かりの中でも明るい水色に輝くその瞳が細められる。秘密の時間に僕の前だけに現れる愛しいちいさな子供。何でも知っていて、なにもわからない僕の友達。

「ファルロス」
「うん」

 名前を呼ぶと、腰にまわしていた腕を解いてファルロスが一歩下がる。そして僕が制服を脱いでパジャマに着替えるのをじっと、静かに待っていた。沈黙は嫌いじゃないけどこの子の声を聞いていたいと思う。この声は落ち着くんだ。

「試練は、」
「うん」
「この前聞いた」
「うん、教えたね……最後の試練はもうすぐだ」

 大人びた表情で、水色の眼差しが揺れていた。その目は僕を越えて窓の外、きっと遠くのタルタロスを見つめてる。
 昔から会話する相手の、心の中の感情がぼんやりと見えてしまう僕だけど、この子のは見えない。それを思うと僕の心の一番底で何かが寂しいと呟く。それを払うようにゆるく首を振って、ベッドに座った。こうすると、僕とファルロスの目線の高さは丁度同じになる。

「今日は、どうしたの」
「……うん」

 予言者の表情から、幼い子供のそれに戻る。発光する瞳が僕を見て。

「今日は、お菓子をもらいにきたんだ」
「……お菓子?」

 目を細めて、子供が笑う。予想もしていなかった言葉に僕は瞬きを繰り返した。ファルロスが首を小さく傾けながら近寄ってきて、僕の隣に座る。青いシーツが柔らかく沈んだ。

「今日はそういう日なんでしょう? だからもらいにきたんだ」
「……ハロウィン」

 そうか、今日は10月30日……いや、日付けが変わったから──影時間中でもそういっていいのかはわからないけど──10月31日。悪戯かお菓子か、選択の日。
 唐突に子供らしいことを云い出したちいさな友達の頭に手を伸ばし、髪をかき混ぜるように撫でた。くすぐったそうに笑う様子を見ていると、僕の中に衝動めいた愛情というものが湧きあがるのを感じる。この子を慈しみたいと、強く思う。
 だから僕は戦ってる。この子の予言を信じて。

「ファルロスは、仮装してない」
「服を変えないといけないのかい?」
「そう。子供はお化けに仮装して、お菓子をねだりに、あちこちの家を巡る。『Trick or Treat』って云いながら」
「へぇ。楽しそうだね」

 また水色が遠くを見つめるけど、今度はしらない世界を想う時の目だ。隠された時間に訪れるちいさな子供は、太陽の光をしらない。僕の話す、限られた世界の話にもよくこんな顔をして想いを馳せた。

「でも今回は、特別」

 細く柔らかな髪から手を離して僕は立ち上がる。どうしたのとファルロスの声を背中に感じながら、椅子に掛けておいたブレザーのポケットをさぐる。たしか一つ入れていたはず。……うん、あった。
 丸いそれを持って僕はベッドに座る。期待に瞳を大きくするファルロスのちいさな手を取って、手のひらにそれを落とした。 

「お菓子。これしかないけど」

 ちいさな手のひらに乗っかった青い包み紙の大きなあめ玉。空の色のそれは、僕の好きなサイダーの味。

「これを、くれるの?」
「うん。飴は嫌?」
「ううん。嫌いじゃないよ」

 しげしげと手の上の飴を見つめるファルロスに、嫌いなものをあげてしまっただろうかと考えたけど、大丈夫みたいだ。ちいさな手で飴を握りしめて、子供はゆっくり首を振る。

「うれしいよ。ありがとう、大切にする」
「お菓子だから、食べていい」
「うん、でも大切にするんだ」

 君がくれたものだからと、目を細めてファルロスがちいさく呟いた。本当に大切なもののように握りしめた手を胸にあてている。なんだか少し。

「そんな風に云われると」
「照れ屋だものね、君は」

 ああ、やっぱりバレてる。くすくすと悪戯っ子のような声を漏らしてファルロスが笑う。嫌な気持ちはしなかった。こんな風に笑うこの子を、久しぶりに見る気がするから。もっと見たいと、思うから。

「今度は」
「うん」
「もっとお菓子をたくさん並べて」
「うん」
「……会えると、いい」

 出来ることなら明るい日差しの下で。でもそれは喉に引っかかって、声にならなかった。

「うん」

 それでも、ファルロスには聞こえたのかもしれない。俯いた子供の返事はどこか擦れてた。
 ──胸の底で響くこの予感を、君も感じているの?

 そして僕達はそれから、ただ並んで座って時を過ごした。何の音も聞こえない、ただ月の光だけが照らすこの部屋で。まるでここ以外の全てが、消えてしまったかのようだった。 

「……もうすぐ、影時間の終わりだ」

 何処かへ去っていた眠気が再び僕を蝕みはじめた頃、ファルロスが顔を上げる。そしてそのまま、姿が消えた。

「ファルロス」
「また、くるよ」

 正面からファルロスが僕をじっと見つめていた。この子はこうやって姿を消したり表したりすることが多いから、驚いてはいない。ただ。

「ファルロス、」
「うん。月は、すぐに満ちるから」

 目を細めて頷く子供が、影に溶けた。月の光が白さを取り戻して影時間の終わりを告げる。静かだった部屋に時計の秒針の音がやけに大きく響く。僕はぐらりと、シーツに身を沈めた。

「……来年、また二人で」

 月の夜に、お茶会を。

 擦れた呟きは、きっとどこにも届かない。





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2006.10.31

滑り込みのハロウィン話。
10月30日の影時間なのは、11月1日が日曜日だったからです。翌日のお弁当の心配がなかった。冒頭書いてから気がついた(おバカめ