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Fly me to the moon


「こんばんは、旅禍の少年」

その日も、大きな丸い月が空の半分を覆っていた。
どういう理由かは知らないが、この男が、藍染惣右介が一護の前に現れるのは決まって月が大きな夜だけで、その月を背に立つ男の姿は死神だった頃よりも一層死神らしかった。

「現世にいるのに旅禍はねぇだろ」
「細かいところを気にするんだね」

何もない空間を爪先で蹴り、藍染が一護の前に降りて来た。

「では、こんばんは、私の愛しい人」
「……ん」

一護は藍染の肩に額を乗せ、小さく頷いた。
後頭部に掌が乗せられ、一護は藍染の首筋に頬を摺り寄せた。

「随分と久し振りじゃね? 忙しかったのか?」
「すまなかったね。虚圏と現世では時間の流れが違うことを失念していた」
「んな筈ねぇだろ。くだらねぇ言い訳すんなよ」
「愛しい人に嫌われたくない男心だよ」
「ばぁか。本気で俺のこと殺そうとしたクセに、何言ってんだか」
「それでも、だよ」

掴み所のないところは当時から変わることなく、しかし尸魂界を裏切った現在の方が生気に溢れているように見える。少なくとも藍染にとって死神だった頃の「温厚な人格者」という仮面が随分と無理をしていたことには間違いなさそうだ。

「今日はどれくらい一緒にいられるんだ?」
「月が落ちるまで」
「……相変わらず忙しいことで」
「しょうがない。今は一人でも多く破面を作り出さなきゃいけない大事な時だ。それに」

藍染が一護の耳元に唇を寄せ、低く囁いた。

「私がいなくても遊び相手には不自由していないだろう?」

耳の裏をきつく吸われ、一護はくすりと笑った。
そこは、ついさっきまで別の男が幾度も唇を寄せていた場所。何がしかの痕跡は残るだろうとは思っていたけれど、目立つ場所ではないからと、好きにさせていた場所だ。

「しょうがないだろう。アイツがしたいって言うんだから」

小さく笑いながら身を捩ると、ぎゅうと強く抱き締められた。

「他人の目を欺くことにかけては私もそれなりの自信があったつもりだけれど、私の愛しい人はそんな些細な自信すら粉々に砕いてくれる」

背筋から腰へと掌で撫で降ろされ、ぞくりと背筋が震えた。はぁと甘くと息を零し、一護は昂ぶりかけた下肢を藍染へと擦り付けた。

「尸魂界の誰も気が付いてさえいないだろうね。強く優しい死神代行の少年に、こんな一面があるなんてね」
「無駄口叩いてんじゃねぇよ。時間ねぇんだろ」

藍染の胸を両手で押し返し、一護は藍染の首に両腕を回した。首を伸ばし、口端に唇を寄せた。

「私の愛しい人は、幾つの顔を隠し持っているんだろうねぇ」
「……うるせぇよ」

まだ喋り続けようとする藍染の唇を唇で塞ぎ、一護は薄く目を閉じた。
人間でありながら人間でなく。死神でありながら死神でなく。仮面の軍勢でも、破面でもない。自分が何者なのか、どこに属する者なのか。
いっそ清々しいほどに正体不明だと思う。
だが、これまでのところ、それが一護に不利益をもたらしたことはない。
最初は、自分が何者かに拘ることなく一護本人を認めてくれているからなのだろう、と思っていた。
だが暫くして判ってしまった。
一護が何者なのかなど、他人には大した意味はないのだ、と。
誰もが「そうあってほしい」と望む一護を一護の中に見つけ、その一護と対峙しているだけ。人は見たいものしか見ない、という構図がそこにはあった。
だが、藍染は違った。
他人の目を欺くことが習慣となってしまった男の目には、常に正直でありたいと本人が強く望んでいるのに、誰もが進んで騙されようとする特異な一護の性質が興味深く写ったらしい。
今日と同じ満月の夜に、藍染は一護の前に現れた。

「なぁ、もういいだろ」

他人の目を欺きすぎて本当の自分を見失った男と、存在の複雑さ故に無意識に他人を欺いてしまう自分と。
心地よかった。
この男といる間だけ、自由に息ができるような気がした。

「やろうぜ」

空が月に覆われていく。




END