街路樹のナナカマドが白い花を付けている。真っ白い花だ。
夕刻近いというのに、白い陽射しは既に夏の気配で、じんわり汗が滲んでくる。
白いハンカチで額の汗を押さえ、シュッと一吹きオーデコロンを吹き付ける。ドルチェ&ガッバーナのライトブルー。涼やかなシトロンから高貴なホワイトローズに移る香りは清廉でありながらセクシャルで、まさに俺にこそ相応しい。
ハンカチと入れ替わりにポケットから鏡を取り出し、髪の乱れをチェックする。整いすぎてはいけない。過ぎた知性が蝋人形のような時代を醸し出してしまうから。かといって、乱れすぎてもいけない。輝く美貌が霧の如く陰ってしまうから。美と気品が最も効果的に滲み出るよう計算しつくされた、しかし計算高さを感じさせない絶妙なバランスで髪を整え、バッグに鏡を仕舞いこんだ。
最後に深緑のブレザーからぱたぱたと目に見えない埃を叩き落とし、大きく息を吸い込むと、門の中に一歩足を踏み入れた。
「……醜い」
門の先には古ぼけたコンクリート作りの建物が一棟。ところどころヒビが走り、雨水の染みた跡がところどころに残っている。年季の入った建物であることは間違いないが、決して歴史的建造物にはなりえない貧乏臭さが至るところに見え隠れしている。
造形美の欠片もなく、老朽化だけが目立つ、これといった取り得も無いコンクリートで出来ただけの立体物だ。
しかも、うろつく生徒には品も知性もない。どうして誰も彼も敢えて小汚い服をだらしなく着こなすのだろう。わざわざ服装で「僕(私)バカなんです」とアピールしなくても、牛のような愚鈍さは隠しようもないのに。
これが大衆、いや愚民ということか。
「テメェ…… 何しに来たんだよ」
哀れな程の愚かさに眉を顰めていると、不機嫌な声が聞こえてきた。
「なんかやたら偉そうな野郎が校庭のど真ん中で仁王立ちしてるっていうから来てみたら、やっぱテメェか! 何でテメェが俺の学校に来てんだよ!」
貧乏臭い校舎に相応しいドブネズミ色の制服を着た一護が、小汚い枯藁色の髪を逆立てて俺を睨みつけていた。
「大体、テメェ、学校はどうしたっ! さぼったのかっ?」
「オマエと一緒にするんじゃねぇ。俺んトコは学力判定試験とかで半日だったんだよ」
「だとしてもっ! なんで俺んガッコに来てんだよ!」
「うるせぇ、騒ぐんじゃねぇ」
キーキーと騒ぎ立てる一護の額をぺしりと叩く。怯んだ隙に、一護の横を通り過ぎ、すたすたと校舎の入り口に向かって歩き出す。
「オマエ、今日は三者面談なんだろう」
「そうだよ! だから俺、オヤジを待ってたのに、あんなんでも保護者だしよ…… それなのに何でオマエが来てんだよっ? オヤジはどうしたっ?」
「急患だ」
「きゅうかん〜っ?!」
医者の息子のクセして、漢字変換できずにひらがなで思い浮かべただろう、というツッコミは置いておいて、とりあえず事情説明だけはしてやることにした。
「三丁目の山本さんトコの婆さんが大福を喉に詰まらせたって呼ばれたんだよ。
あんなんでも一応は医者だ。患者が出たって呼ばれりゃ行かなきゃなんないだろ。
といっても大事な我が子の将来に関わる三者面談をキャンセルする訳にはいかねぇし。バカな子ほど可愛いとも言うしな。
だから俺が来た。親父の代理で三者面談を受けてやる」
「バカ言ってんじゃねぇぇぇぇっ!」
すたすた歩き続ける俺の背中に一護が飛び掛ってきた。これ以上一歩たりとも先に進ませるものかと、腰に抱きつき、地面に両脚を踏ん張っている。
「どこの世界に高校生の弟の三者面談に保護者で出てくる高校生の兄がいるんだよ! おかしーだろーがっ。テメェだって被保護者の未成年だろーがっ! つか、大体同じ年のクセに保護者ぶるんじゃねぇっ」
「確かに俺は高校生で、法律上は未成年で、オマエと年齢は同じだ。だがな」
腰に巻きつく一護の腕をぺりっと引き剥がし、くるりと振り返る。両腕を引き寄せ、鼻先まで顔を近づけてやった。
「俺は特別だ。なんたって俺だからな。親父よりもよっぽど面談向きだ。
ちゃーんとオマエの将来設計を語ってやるよ」
一護の頬がカッと赤く染まった。相変わらず短気な上に、血の気の多いヤツだ。
ピシッと一護の鼻の頭を指で弾き、どんと両腕を押し出した。
「ぼやぼやしてんじゃねぇ。バカなテメェのことだ。三者面談も簡単には終らねぇだろ。さっさと行って、とっとと終らせるぞ」
「バカって言うなって、いつも言ってんだろーが!」
「じゃ、愚弟」
「ぐてぇ? ってどういう意味だよ、どーせ悪口だろっ! そうだろっ?!」
あーこいつ、ほんとにバカだ。俺の弟のクセに、バカさ加減に泣けてくるってもんだ。
「あの、黒崎君のところははお父さんが面談に来ると聞いていたのだけれど」
黒縁眼鏡が曖昧な笑顔を浮かべている。なんかうさんくさい野郎だな、と思ったところで気がついた。
こいつ、ババァどもに「サマ」付で騒がれてるどこかの俳優に似てるんだ。
キーキー騒ぐババァどもを前に浮かべるあのうさんくさい笑顔。きっとあの俳優には、ババァどもの顔が札束に見えているに違いない。
なんだか信用できない。俺の本能が「警戒しろ」とけたたましいアラームを鳴らしている。
だが、一応は一護の担任教師だ。最低限の礼儀は守らねばなるまい。
「父は急患の対応で来られなくなったんです。なので僕が代理で」
社交用の笑顔を浮かべる横で、ケッと一護が吐き棄てた。外面やろーが、とかぶつぶつ呟く一護の足を、無言で踏み付ける。
誰のためにやってると思ってるんだ。この俺が教師風情に愛想を振りまくなんて、どれだけぎりぎりの葛藤が俺の中で繰り広げられているか、ちょっとは想像してみろ。
「しかし、黒崎君の進路に関わる話ですから、やはり保護者の方とお話を」
「それなら問題ありません」
唸り声をあげる一護に微笑む。ぞぞっと一瞬で顔色を変える一護を横目に、まっすぐ教師の両目を見据えた。
「一護の進路は決まってますから。T大かK大の医学部に進学です」
「はぁぁぁぁっ?! テメェ勝手に何言ってんだよ!」
叫ぶ一護の脳天にガツンと一発ゲンコを落とす。いちいち喚くんじゃねぇ。煩くて話が進まん。
「T大かK大、ですか? 確かに黒崎君は常に成績上位者に名前を連ねていますから、医学部への進学は不可能ではありませんが、T大、K大となると、今の成績では相当厳しいのではないかと」
「問題ありません。これから毎日死ぬほど勉強をしていけば、如何に一護でも何とかなるでしょう」
「しかし、黒崎君の進路調査票ではS大の医学部か薬学部志望だと」
この野郎、S大なら自宅から近いと思って書きやがったな。こいつの判断基準は家から近いか遠いか、それだけか!
「その調査票は忘れてください。そんなバカなことを書くなんて、錯乱でもしてたんでしょう」
「しかし……」
「いいんです、一護の希望進路はT大かK大の医学部。S大じゃありません」
「俺抜きで話を進めんじゃねぇぇっ!」
もう我に返りやがった。昔はゲンコ一発で30分は静かにしてたのに。
「俺はS大に行くんだよ。T大でもK大でもねぇっ」
「何をワガママを言っている。T大、K大のどこが不満だ」
「T大とK大が不満なんじゃねぇ。S大に行きたいだけだ!」
「どーせS大なら家から近いし、ぐうたら毎朝寝てられるとか、そんな理由だろ」
「ちがーうっ! 花梨と柚子だよ!」
花梨と柚子は俺たちの妹だ。双子続きというか、妹たちも双子で生まれてきた。
だが、何故ここで花梨と柚子の名前が出てくる?
「花梨も柚子も、まだ小学生じゃねぇか。俺たちが高校を卒業する時、あいつらはやっと中学生だ。
中学生の大事な時期に、あの生活力のないクソオヤジと一緒に置いとけないだろ。苦労するのは目に見えてるじゃねぇか」
頬を染め、プイと一護が横を向いた。
そういえばコイツは妹たちを異常に可愛がってたな。妹たちのために、ってのは中々立派な考えだが今回は。
「却下」
「はぁぁぁっ? 何でオマエが『却下』とか言うの? つか、何でオマエが当たり前の顔して俺の進路に口出ししてんのっ?」
「俺がT大医学部に行くからだ。だからオマエもT大。滑り止めでK大。T大とK大なら電車ですぐだからな」
T大もしくはK大に進学すると、自宅からの通学は無理。なんたって少なく見積もっても片道3時間はかかる。
となると当然家を出て、一人暮らしとなるところだが、T大とK大は近い。
兄弟が同じ時期に家を出て、お互いの進学先が同じ、もしくは近いとなれば、「一緒に暮らせばいい」となるのは当然で。
「卒業したらオマエは俺とルームシェアだ」
そこには邪魔なオヤジも妹たちもいない。二人きりだ。
「何言ってんだよっ! 何でテメェなんかと住まなきゃいけねぇんだよっ」
「家から通うには大学が遠すぎるからだ。それと、一緒に住んだ方が家賃や光熱費に無駄がないからだ」
「だけどよ、だけど、花梨と柚子はどうすんだよ! まだ小さいのに可哀相じゃねぇか!」
「アイツらのことは心配しなくていい。オマエなんかよりよっぽど大人だ」
「んな訳ねぇだろうがっ! まだ子供だぞっ。っていうか『オマエなんか』って何だよっ」
細かいところに食いつくヤツだ。バカのクセに。いや、バカだからか。
「黒崎君、ムキにならないで、ね? お兄さんもあんまり黒崎君を煽らないで」
すっかり存在を忘れていた黒縁眼鏡が、いきなり話しに割って入ってきた。
薄皮一枚、表情筋だけで作った笑顔で微笑んでいる。
「どこの大学かは置いておくとして、医学部に進学希望ってところには黒崎君も異議はないのかな?」
眼鏡の質問に一護がコクリと頷く。
「薬学部とも書いてあるけど、これはどうして?」
「ほんとはS大の医学部に行きてぇんだけど、医学部がダメだったら薬学部でもいいかな、って…… S大に行くことが一番大事だし。
薬剤師でも、少しはオヤジの病院を手伝うことはできるから」
「S大志望なのは、さっきお兄さんに言ってたとおり自宅から近いから? 妹さんのため?」
一護がまた頷く。なんだか、えらく素直じゃないか。ムカツク。
「だったらS大の教育学部はどうかな?」
「教育学部つったら教師になるトコだろ? ダメだよ、教師は。
うち、小せぇけど病院やってて、ご近所の爺さん、婆さん、みんな俺んトコで診てるんだ。
今はオヤジも元気だけど、いつまでも元気とは限らねぇし、誰かが跡を継がねぇと、爺さん、婆さん、みんな遠くの総合病院まで行かなきゃなんなくなる」
「お兄さんも医学部志望なんだろ? だったら黒崎君が跡を継がなくてもいいんじゃないのかな?」
「ダメだよ、兄貴は俺なんかとは頭の出来が違う。医者になっても、あんなちんけな病院に収まるヤツじゃねぇ。
大学病院とか、もしかしたら海外の大学とかで、重病に苦しんでる人たちを救ったり、治療法を研究したり、そっちの方がいいと思うんだ。
兄貴は…… 特別だから」
ひっそりと寂しげな微笑を浮かべて一護が答えた。最後は小声で、聞こえないくらいの小声で。
いつもしかめっ面で、顔を合わせれば憎まれ口ばかりの一護が、そんなことを考えてたなんて。
「バカだバカだと思ってたけど、そこまでバカだったか」
「またバカって言った! バカって言うなって、いつも言ってるだろーっ」
「うるせぇ、バカだからバカって言ってんだよ」
大学病院はまだしも、海外の大学って何だよ。どうして俺が一護を置いて一人でどこかに行くなんてことを考えてるんだ、このバカは。
どうして俺がT大かK大の医学部だなんて言ってるか、理由を少しでも理解しやがれ。全く腹立たしいほどバカだ、こいつは。
それでもやっぱり初めて知った一護の本心は、やっぱりそれなりに感動的だ。なんだか目頭が熱くなってきたような気もする。
両手を振り回し暴れる一護を、ぐっと抱き寄せようとした将にその時。
「でもね、黒崎君」
またダサ眼鏡が割り込んできた。空気が読めないにしても限度がある。
「この数ヶ月、僕はずっと黒崎君を見てきたよ。いつも一生懸命で、真っ直ぐで、友情に熱くて。
それに小さな子供たちにも優しい」
ダサ眼鏡がメガネをついっと中指で押し上げ、真剣な表情で一護の瞳を捕らえた。
「僕は黒崎君には教師になってほしいんだ。黒崎君ならきっと良い教師になると思う」
「教師って……えぇっと教師? ガッコの先生ってこと?」
「あぁ、そうだ。それに僕はS大教育学部出身でね。S大に進むなら、多少はアドバイスもできると思うんだ。
卒業して教師になったら、同業の先輩としてのアドバイスもできる。
僕はこれからの教育界には黒崎君のような人こそ必要だと思うんだよ。それに」
モサ眼鏡が手を伸ばし、一護の両手をそっと両掌で包んだ。
「君がいてくれたら、僕は僕の理想とする世界を学校に作れると思うんだ」
うさんくさい笑顔を満面に浮かべ、眼鏡が一護の瞳を覗き込んだ。なんだ、なんだ、これは。
なんか澱んだ紫色の空気がゆらりゆらりと陽炎みたいに眼鏡から立ち上ってきている。
「でも、俺……」
一護がぽっと頬を染めた。瞳が潤んでいる。
「俺、医者にならねぇと……」
「君は医者よりも教師に向いている。僕と一緒に理想郷を作らないか」
「でも……でも、俺」
「大丈夫だよ。僕が付いてる」
「でも……」
両手を眼鏡に預けたまま、一護が恥らうように顔を背けた。眼鏡がぐっと身を乗り出し、顔を近づけている。
うさんくさい笑顔は男臭さを増し、一護に迫っていた。
ぶつん、と脳裏で何かが弾ける音がした。
「勝手に話を変えてんじゃねぇ!」
なんだ、この無理矢理作った甘ったるいピンクの空気は。
なんだ、この何ていうか、出来上がってます、みたいな空気は。
手を握って見詰め合う眼鏡と一護を無理矢理引き離し、一護を背後に隠した。
チッと小さく舌打ちが聞こえたのは、絶対に気のせいなんかじゃない。
「先生のご意見はわかりました。しかし、一護はT大かK大の医学部に行くんです。俺と一緒に」
視線に殺意を込めて眼鏡を睨み付けた。しかし、
「それはお兄さんの独断だろう。僕は教師として生徒に適した進路を勧めなければならない義務があるのでね」
ふんっと嘲笑で返された。
この眼鏡、タダ者じゃないとは思っていたが、ほんとにタダ者じゃねぇ。侮れない。人の良さそうな顔をしているが、一皮剥いたら出てくるのは、虎か、狼か。とにかく野生の何かだ。
「一護の進路は俺が決める。『教師』だったら『生徒』の成績が上がることだけ考えてりゃいいんだよ」
「へぇ、随分と強引だね。『お兄さん』だったら『弟』の望むよう応援してあげるべきじゃないのかな」
反論を飲み込み、眼鏡を睨み付けた。「視線で人が殺せたら」とかいうセリフがあるが、ホントに殺せるものなら本気でこの男を殺したい。
「一護、帰るぞ!」
おろおろと狼狽える一護の腕を引っ張り、足早に教室を出た。立ち上がる瞬間、さりげに机を蹴るのは忘れない。
「でも、まだ面談が」
「面談は終った。話はもうない」
「でも、先生が」
「大丈夫、面談は終了だ」
机に肘を突き、眼鏡がひらひらと手を振っている。タダでさえ胡散臭い笑顔に、更に胡散臭さが増している。
「また明日ね、一護君」
言い終わる前にドアを力一杯閉めてやった。できることなら、ドアごとメガネに叩きつけてやりたい。
止まれとか、離せとか、騒ぐ一護を引き摺り、足音荒く歩き続けた。時折、一護の友人らしき男女が一護に声をかけてきたが、視線一閃で黙らせる。
ようやく校門を出たところで、一護の腕を離し、立ち止まった。
「なんだよ、何を急に怒ってんだよ。なぁ兄貴、何とか言えよ」
不安を隠して一護が怒鳴る。眉間に皺を寄せ、しかし視線を揺らせて。不安な時ほど怒鳴るのが、小さな頃からの一護のクセだ。
「一護、もうあの眼鏡に近付くな」
「眼鏡って、藍染先生のコト? 無理だよ、だって担任だし」
「いいから! 俺が近付くなって言ったら、近付かなきゃいいんだよ!」
「でも担任だもん、そんなの無理だって」
「じゃあ、絶対にあの眼鏡と二人っきりになるな。特にナントカ準備室とか、ナントカ教室とか、人気の無いところには絶対に眼鏡と一緒に行くんじゃねぇ」
「なんで? 訳わかんねぇよ」
「いいから! 俺の言うことを聞け!」
「わかったよ! なんだよいつも自分ひとりわかったようなことばっかり言って」
ぶつぶつと文句を垂れる一護を軽く無視して、俺はひとり考え込んだ。
こんなバカガキを気にするヤツが他にもいたなんて。ありえない。しかも、あんなヤバそうな男が。
急ぐつもりはなかったけれど、ここは計画変更が必要かもしれない。
END