Eli,Eli,lema sabachthani
鈍灰色の一室でアーサー・トラインの前に現れたのは、小麦色の肌にラベンダー色の瞳が印象的な緑服の一般兵だった。その青年はディアッカ・エルスマンと名乗ったが、その名前は不快な苦味となってアーサーの喉に引っかかった。
プラント市民でディアッカ・エルスマンの名を知らない者はいない。
命惜しさにナチュラルに膝を折った臆病者として。同胞に銃口を向けた造反者として。旧評議会議員タッド・エルスマンの息子として。
戦後数多開かれた軍事裁判の中でも、彼の裁判の行く末には誰もが注目したものだ。
しかし、同じ戦犯でありながら、ディアッカ・エルスマンにはアスラン・ザラのようなカリスマ性も、イザーク・ジュールほどの軍功も無い。一介の、と言うと語弊はあるが、華やか過ぎる戦友二人に挟まれ、彼には凡庸な印象が常に付きまとっていた。
無罪とまではいかなかったが何とか極刑は免れたらしい、と聞いてはいたが、まさかこんな場所で彼と顔を合わせるとは。
現実とは斯くも皮肉なものらしい。
「何かご不審な点でも?」
甘い声に顔を上げると、正面に微かに首を傾げたディアッカが見えた。「乗船許可証」と書かれた書類を手に、困惑混じりの笑みを浮かべている。どうやら差し出した書類を受け取ろうとしないアーサーに戸惑っているようだ。
「いえ、考え事をしていたもので…… 申し訳ありません」
軽く頭を下げディアッカの手から書類を受け取ると、つらつらと一通り許可証に記載された条件に目を通した。小型艇でミネルバから脱出したミネルバの乗員は、旗艦ヴォルテールに救出され、タリア不在の今、アーサーは責任者としてヴォルテールへの乗船手続きを行っていた。
艦内では指定された居住エリア以外への立ち入りは出来ないこと、乗員同士の揉め事は厳禁であること等、書類にはありきたりな条件が並んでいる。今更言われるまでもない。
アーサーは溜息を押し殺し、許可証の末尾にサインを入れた。最後にもう一度内容に目を通し、書類をディアッカに返した。
「もっと色々聞かれると思っていましたが、意外にあっさりしてらっしゃるんですね」
差し出された書類を受け取り、すぅっとディアッカは両瞳を眇めた。不審に、というよりも面白がっているような気配がする。
「何を聞けと? 戦場で脱出艇が友軍に拾われた時の待遇なんて、どこでも似たり寄ったりでしょう」
肩を竦めて受け流すと、ディアッカの口端がニィッと上がったのが見えた。紅い唇が濡れたように光っている。
「他にもあるでしょう? 例えば…… ミネルバとタリア艦長がどうなったか、とか」
「それこそ…… 言われなくてもわかっています」
アーサーは膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。
退艦命令を下した時のタリアを見た者に、ミネルバの運命を想像するのは容易い。艦の残骸は残っても、戦艦としての命運は尽きただろう。タリアも恐らく生きてはいまい。
「タリア艦長はメサイアでデュランダル議長と運命を共にしたらしいですよ。パイロットのレイ・ザ・バレルも一緒だったとか」
タリアとレイはデュランダルを媒介に、それぞれが特別な縁で結ばれていた。その三人が一緒だったとしたら、それはとても自然なことだとアーサーには思えた。
「良かった……」
ポツリと一言呟き、アーサーは唇を噛み締めた。口を開くと嗚咽が零れそうで、ひたすら喉の奥に込み上げる涙の塊を飲み下した。
少なくともタリアが一人で死を迎えたのではなくて良かった。戦争とはいえ、死の瞬間が独りぼっち、というのはやはり悲し過ぎる。
「へぇ。予想外の反応ですねぇ。ちょっと驚いたかも」
嘲るような口調に、アーサーは眉をひそめた。
些細なこと、と言わんばかりのディアッカに、アーサーは不快感を感じた。人の生死を軽々しく扱いすぎる。軍籍を得る者は、殊更「生命」というものに対して敬意を払わねばならないだろうに。
「アナタにしてみれば見ず知らずの他人でしょうが、私にとっては共に死線を潜り抜けた大切な同胞です。
その同胞が死の瞬間に少なくとも孤独ではなかったことを喜ぶのは、そんなにおかしいですか?」
「どうしてそんな風に思うんです?」
ディアッカは心外だ、とばかりに両掌を上に向け、ひょいと肩を竦めた。
「それに、彼らのうち、少なくともデュランダル議長は私にとっては見ず知らずの人間ではないですしね。
なにしろ、今ここで私がアナタとお話できるのも、間接的にはデュランダル議長のおかげですから」
そういえば聞いたことがある。ディアッカ・エルスマンが極刑を免れ、ザフトに復帰できたのは、当時評議会議員であったデュランダルの弁護があったからだ、と。
「だったら!」
「だったら、もっと追悼の意を表すべき。不謹慎な発言は慎むべき、ですか?」
ディアッカは手にした書類で、口元を覆うとクツクツと小刻みに肩を震わせた。
笑っていることを隠そうともしないディアッカに苛々させられる。
「何が可笑しいんですか」
「だって可笑しいでしょう? アナタは死んだ人間の死に際に心を馳せることができるのに、自分が今どういう立場にあるのかをぜんっぜん気にしてないじゃないですか?
私にしてみれば、そっちの方が重要だと思うんですけどね」
反論に口を開きかけたアーサーを片手で制し、ディアッカは尚も言葉を続けた。
「せめて議長がネオ・ジェネシスなんて物騒なモノを使わなければ良かったんですけど。まぁ、使っちゃったものは今更どうしようもないですけどね。
で、ミネルバは議長直属の旗艦でしょ。そのクルーであるアナタ方が、死んだ議長の代わりに敗戦とネオ・ジェネシスの責任を取らされたとしても不思議は無いんじゃないでしょうか?」
ディアッカの指摘に、あ、と小さく叫び、アーサーは呆然と呟いた。
「スケープゴート……?」
「ちゃんとわかってるじゃないですか」
ケラケラとディアッカが笑い出した。その笑い声を遠くに聞き、アーサーは脱出艇の中で自分の帰りを今か今かと待ちわびているクルーの面々を思い浮かべた。
ヴィーノ、ヨウラン、マッド、チェン、マリク
ザフトに属している以上、例え戦闘行為に直接参加をしないエンジニアであってもザフト兵である。故意、過失を問わず戦場での犯罪行為を問われることは彼らも吝かではないだろう。
だが、彼らは、いやタリアの指揮下にあったミネルバは、ネオ・ジェネシスの使用には無関係だ。
それでも、ミネルバが議長直接の指示で作られた新鋭艦である、たったそれだけの理由で、議長の意思と同一視され、その責任まで問われなければいけないのか。
「そんな理不尽なことがあって良い筈が無いッ」
「心外だ、って顔してますね」
「当たり前です!」
アーサーは身を乗り出し、ディアッカと自分を隔てるデスクを両掌で叩いた。
「確かにミネルバは正しい戦いだけをしてきたわけじゃない。でも、良心と誇りに背くことだけはしなかった!」
「そんなの誰だってそうですよ」
ディアッカはふうっと溜息を付くと、両手を後頭部で組み、椅子の背凭れに背を預けた。
「ロード・ジブリールも生き残っていれば同じことを言ったでしょうね。それに地球連合の兵士たちも」
ジブリールの名前に咄嗟に反論しかけ、アーサーはぐっと言葉を飲み込んだ。
ディアッカの言っていることは、見方によっては正しい。誰もが己の正義を信じ、命を賭して戦火の中に身を置いたのだから。
「俺もそうだったんだよねぇ。アークエンジェルに投降した時も、アークエンジェルと一緒に戦うことを決めた時も、自分なりの正義で正しいと思う道を選んできたつもりだった。
でも、休戦後、プラントに戻った俺を待っていたのは、裏切り者の汚名だけ。何を言っても、臆病者の言い訳だと切り捨てられて。悲しかったなぁ、あの時は」
ディアッカは顎を上げ、前髪を片手で掻き上げた。指の間から金糸がこぼれ波打ち、暗い光りを弾いていた。
当時の記憶に思いを馳せているのか、ディアッカから慇懃無礼な言葉遣いは姿を消している。
「想像できる? 何を言っても曲解されて、臆病者の命乞いと決め付けられることがどれだけ悲しいか。
ほんとに、あの時は裁判なんてめんどくさいモノはすっ飛ばして、さっさと銃殺にしてくれ、って思ったね。もしイザークがいなかったら、俺、自殺してたかも」
淡々とした口調から、当時のディアッカの悲嘆がひしひしとアーサーに伝わってきた。
だが、虚ろに響く甘い声に悪意が潜んでいる。しかも、死を間近にした病人の眼前に大鎌を翳す死神の囁きのような、暝い喜悦に満ちた悪意だ。
ぶるりと頭を振り、アーサーは脳髄に纏いつく甘い声を振り払った。
「ラクス・クラインなら…… ラクス様がいれば、そんな間違った弾劾は起こらない」
ラクス・クラインはいつもプラントの希望だった。語りかける言葉は常に人心を掴み、人々を導いていた。その影響力の強大さはあのデュランダルにラクスの身代わりを立てさせたほどだ。
恐らく、今回の停戦を受けてプラントからはラクス・クラインの帰還を望む声が高まり、遠からず彼女は地球から帰ってくるだろう。
プラントを正しい未来に導くために。プラントと地球の平和のために。彼女は最後に残った希望なのだ。
「ラクス・クライン? アンタ、それ、マジで言ってんの? 全く、おめでたいねぇ」
ディアッカの周囲に不穏な空気が一気に立ち込めた。吐き捨てるようにラクスの名を告げるディアッカの表情は、忌々しいとばかりに歪んでいた。
「デュランダル議長がラクスのことを『女王(クィーン)』って呼んでたのはアンタも知ってるよね。だってミネルバにいたくらいだもん。俺、それ聞いた時、議長ってセンスあるなぁって感動したよ。それ以上ピッタリの呼び名なんて無いもんね。
でさ、話は変わるけど、地球は連合が壊滅しちゃってオーブがプラントとの交渉にあたるらしいんだよね。オーブの代表は、あのお姫様だろ。あの二人を見てると、大昔の地球にいた二人の女王様を思い出すんだよねぇ。メアリー・スチュアートとエリザベス一世って知ってる?」
メアリー・スチュアートとエリザベス一世は同時代を対照的に生きた女性だ。前者はスコットランド女王として。後者はイングランド女王として。
グレートブリテンの二国を治める女王として、二人は一時期「姉」「妹」と呼び合う程に深く親交を結んでいたが、彼女たちが後世にまで名を残しているのは、それだけが理由ではない。
メアリー・スチュアートは恋に生きた。愛するが故に、乞われるまま夫や愛人を側近として政治に関らせ、自ら国政の混乱を招いた。対してエリザベス一世は婚姻による他国の干渉を嫌い、生涯独身を通した。
最愛のキラ・ヤマトと常に共にあるラクス・クラインと、国のため、執政者として生きるためにアスラン・ザラとの別離を選んだカガリ・ユラ・アスハ。
似ていると言えば似ている。しかし。
「確かに条件だけを書き出せば似ているかもしれない。だけど、ラクス様はメアリー・スチュアートではない!」
メアリー・スチュアートは自らの失政で荒れ果てた国を捨て、エリザベス一世に庇護を求めた。そして最終的には、そのエリザベス一世の手で処刑されている。
ラクス・クラインをメアリー・スチュアートに例えるということは、ラクスの、引いてはプラントの未来が暗いものだ、と言うも同然ではないか。
悪意に満ちたディアッカのセリフに、アーサーは拳でデスクを叩いた。狭い室内にデスクが撓む鋭角な音が響いた。
「無駄話をしているヒマはありません。用がなければ失礼させていただきます」
精一杯の殺意を籠めてアーサーはディアッカを睨みつけた。陽光を寄り合わせたような金糸も、ラベンダー色の瞳も、今は全てが忌々しい。
「最後まで聞いといても無駄はないと思うけど。なにしろ、俺、元戦犯だし。貴重な体験談だよ。今後の身の振り方の参考になるかもしれないじゃない」
「結構です! くだらない!」
ディアッカの申し出を一言で切り捨て、アーサーは椅子を蹴って立ち上がった。
無礼とも取れるアーサーの態度を咎めるでもなく、ディアッカの両瞳は楽しげに煌き、口元には笑みさえ浮かんでいる。
「やっぱり、アンタいいね。ちょっと真面目すぎるきらいはあるけど、俺、不器用な男ってキライじゃないし」
ディアッカは静かに立ち上がると、乗船許可証の控えをアーサーの足元にひらりと落とし、出口へと足を向けた。
すれ違い様ディアッカはアーサーの肩に手を乗せ、耳元に唇を寄せた。
「あの時の俺にはイザークがいた。アイツが支えてくれたから、裁判で晒し者にされる屈辱にも耐えられたし、諦めないでいられた。そしたらいつの間にか、デュランダル議長みたいな支援者も出てきてくれたよ。ラッキーだよね。
でもさぁ、アンタたちには誰がいるかな? 誰がアンタたちを助けてくれるかな?」
吐息交じりに囁かれ、アーサーの身体がびくりと跳ねた。それを喉の奥で低く笑い、ディアッカは低く囁いた。
「神様、いるといいね」
死神が妖艶な笑みを湛えて、大鎌を振り上げていた。
END
* 本作は2006年8月11日発行のディアッカ受アンソロジー「D.D.D!」に寄稿したものを一部改訂しています。