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記憶にある「ディアッカ・エルスマン」は、エリート軍人らしく大人びたところもあったが、年齢相応の弱さも持った少年だった。
「随分と鍛え上げたもんだねぇ。すんごい逞しいし。うっわぁ、筋肉硬そう」
すらりと伸びた四肢は華奢で、成長期にありがちなアンバランスさから来る独特の色気を漂わせていたし、
「身長何センチ? っていうか手も足も長ぇ!」
元々整った容貌ではあったけれど、頬にまだ子供らしい丸みがあり、可愛いらしさもあって、
「随分と男っぽくなったよなぁ。セクシーっていうか、マダムキラーって感じ?」
とにかく綻ぶ直前の杜若のような少年だったのだ、彼は。
それなのに、今眼の前で「ディアッカ・エルスマン」と名乗っているのは、面影こそ残っているものの未成熟とか未完成という言葉からは縁遠い、ロダンの彫刻のような端正な青年で。
だから、つい言ってしまったのは仕様がないことなんじゃないかなと思う。
「おまえ、どうしちゃったの?」
「で、殴られた訳だ」
にやにや笑いを浮かべたアンドリュー・バルトフェルドが差し出してきたコーヒー・マグを片手で受け取り、ムウ・ラ・フラガは頬に冷却剤を当て直した。
「こんなの軽い挨拶みたいなもんだ」
すっかりぬるくなった冷却剤をゴミ箱に放り投げ、フラガは小さく吐き捨てた。頬がじんじんと疼いて口を開くのも億劫だというのに、バルトフェルドは常に無い饒舌さで喋り続けている。
「挨拶にしては物騒すぎると思うがね。頬骨が折れていないか検査した方がいいんじゃないか?」
「そんなもんはいらん! ディアッカが俺を本気で殴るわけないだろ」
「そういう台詞は、その顔を鏡で見てからにした方がいいな」
勝ち誇るバルトフェルドを睨み返し、フラガはまだ湯気の立ち上るマグカップに口を付けた。
今更バルトフェルドに言われるまでもない。無様に腫れ上がった左頬は、明日には見事な痣となって衆目に晒されるだろう。それを見てほくそ笑む面々が容易に思い当たるだけに胸糞悪い。
「だいたいさぁ」フラガはマグカップをテーブルに置き、溜め息を付いた。「なんでディアッカってばいきなり怒ったんだろ。折角の再会なんだし、もうちょっと喜んでくれると思ってたのに」
「……ソレ、本気で言ってるのか?」
「どうしておまえに嘘吐かなきゃいけないんだよ」
「……おまえ、実はバカだな」
「んだとぉ?」
「バカが気に入らないなら、とことんマヌケなスットコドッコイでどうだ」
「うるせぇ」
フラガはむっと唇を歪め、呆れ顔に喜悦を滲ませたバルトフェルドを睨み付けた。ずきりと疼く頬を押さえ、フラガはソファの背に身体を投げ出した。
「俺はディアッカに会えて嬉しかったんだよ」
両手を後頭部で組み、フラガは消えそうな小声で呟いた。
停戦を迎え、ザフトとオーブが自由に行き来できるようになり、フラガは喜び勇んでディアッカに会いに出かけた。
何を話そう。何から話そう。話したいことは山ほどあって、でも上手く言葉にすることできなくて、溢れる感情を思いつくまま唇に乗せてしまった。その点は少しばかり気持ちが先行しすぎたせいかもしれない、と反省もしている。
しかし、だ。だとしてもディアッカの反応はフラガの予想を遥に越えていた。
なにしろディアッカからは「久し振り」とか「会いたかった」といった再会にはありがちな感動的なセリフもなく、代わりに放たれたのはキレイな弧を描いた右フック。ザフトレッドの面目躍如な右フックは美しい軌跡を描いてフラガの左頬を痛打していた。
運悪くその場に居合わせたザフト兵たちの唖然とした表情が脳裏に焼きついて、恥ずかしさに身悶えしたい気分になる。
逃げるようにオーブ艦に戻り、事情はどうあれ自分とディアッカの関係を知るバルトフェルドの元へとやってきたのだが、当のバルトフェルドは話を聞くなり喜色満面。にやにやしっぱなしだ。
「おまえを相談相手に選んだのが間違いだったよ。もう帰る」
「まあ待て」ソファから腰を浮かせたフラガを片手で制し、バルトフェルドは執務机の椅子を揺らしながらゆっくりと口を開いた。
「ディアッカとは何年会ってなかった?」
「えっと確か三年?」
「その三年間、おまえは何をしていた?」
「あぁ? 何で今更聞くんだよ。おまえも知ってるだろ。記憶を消されてファントムペインに居たんだよ。でも、関係ないだろ、そんなこと」
「とりあえず最後まで聞け。で、ブルーコスモスに消された記憶は全部戻ったのか?」
「……多分ね。自信はないけど」
いらいらと言い返すフラガをさらりと受け流し、バルトフェルドは質問を続けた。
「ここからが本題だ。ファントムペインに居た間の記憶はあるのか?」
「あるけど……それが何だっていうんだよ!」
記憶を無くしている間、フラガはファントムペインを率いアークエンジェルやザフトに攻撃を繰り返した。理由はどうあれ、友や仲間に銃口を向けた事実は消しようもない。一生負わねばならない業だと思う。だが、それとこれとは話が別だ。
いきり立つフラガにバルトフェルドは肩を竦め、くるりと椅子を回した。
「僕はムウ・ラ・フラガがネオ・ロアノークだった過去とどうやって折り合いをつけているのか興味があってね」
「折り合いをつけるとか、つけないとか、そんなんじゃないよ」
フラガはゆっくり息を吐くと、静かに目を閉じた。
ネオ・ロアノークと名乗っていた頃の記憶は確かに残っている。その記憶の中では、自分は紛れもなくネオでありネオ以外の何者でもない。
だが、フラガとしての記憶が戻ってみると、ネオとして存在していた時間は徐々に現実味を失い、最近では「長い夢を見ていただけなんじゃないか」という気さえしている。
一夜の夢の中でネオという自分ではない人物を演じてはいたが、目が覚めてまたフラガとしての日常が始まった、とでもいうか。
「夢の中でどれだけ時間が流れても、現実には数時間しか経ってない。とても当たり前のことなんだけど、流れる時間の速さが違う世界にいたみたいで、それが違和感っていうか」
ふとフラガは口をつぐみ、くるりとバルトフェルドを振り返った。
「そっか。そうだよな」
「あぁ、そうだ」
バルトフェルドが新しいコーヒーを自分のマグに注ぎ、ついでにフラガのマグに残りを注いだ。
「やっと気がついたか」
「ほんっと、俺ってバカかも」
ネオとして過ごした期間を夢のようだと思っていても、現実の時間は流れ、三年という月日が過ぎている。「夢のよう」であっても夢ではない。時間は万物の上を等しく流れている。
「俺、ちょっとディアッカのとこ行って来る」
「いいのか? アレは変わってしまったのだろう?」
「変わってないよ。全然変わってないのに、そんなことすらわかんなかった俺がバカだっただけだ」
少年から青年への変貌はディアッカに強さを与えたが、思慮深さを湛えた瞳や、秘めた意思の強さは三年前と同じ。何一つ変わっていなかったのに。
「まず謝って、それから三年分ちゃんと話してくる」
慌てて移動用シャトルを手配するフラガに、バルトフェルドはやれやれと首を回した。
「また殴られたら教えてくれ。彼の隣に居たいと願っているのは、おまえだけじゃないからな」
「ありえないね。まあ、アドバイスしてくれたことには感謝しとくよ」
バルトフェルドに指先だけの敬礼を返し、フラガはバルトフェルドの部屋を駆け出した。
長い、長い夢の話をするために。
END
※2007年6月発行アンソロジー「FD/ND」寄稿