Hegelian dialectic
地球連合の核攻撃で開戦ムードの高まったプラントに、一人の少女が降り立った。
ラクス・クライン。
彼女は歌姫だったころのプロモーションビデオと全く同じ背景を背負って市民に訴えかけた。
「怒りに囚われるな」
「評議会を信じろ」
と。
その映像はプラントの全チャネルを通して配信され、発火寸前だった世論を誰かの思惑通り
一時的に沈静化させた。
映像の中でラクス・クラインが語る言葉は、どれも慈愛に満ち、平和を求める優しいもので。
優しいだけに、それはひび割れた人々の心に染み透った。
だが、どうして誰も気が付かないのだろう。
ラクスが語る言葉は、耳に心地よく飾られてはいても、どれも空虚で意味を持たない単語の羅列でしかないのに。
ご丁寧なことにラクス・クラインの映像には、「ウソ」「虚像」の徴が「理解できる人間にだけ理解できればいい」とでもいうように嵌め込まれ、製作者の底意地の悪ささえ垣間見えているのに。
例えば、風車。
風力発電の白い風車が余程お気に入りなのか、ラクス・クラインの映像の背景には白い風車が並ぶ緑の丘が使われていることが多い。しかし、その風景はプラントでは存在し得ない。
風力発電は自然の風が吹く場所で行われるものだが、雨量、風量、日照時間、日々の気候、季節すらホストコンピュータで制御されているプラントでは、太陽光を除いて自然界の力に頼る発電方法自体が成立しないのだから。
プラントのため、コーディネイターの未来のため、と甘言を弄するラクス・クラインが、地球の、ナチュラルの世界を背景に立っている。
これほど露骨な皮肉があるだろうか。
偽りの風景の中、虚構を築くラクス・クライン。
その虚構を真理と信じて支持する民衆。
その民衆を俯瞰するプラントの支配者階級。
民意を作り出し、民衆を支配しているつもりの支配者たち。
彼らも何故気が付かないのだろうか。
人為的に作り出した筈の民意も、大勢が支持した時点で支配者の手を離れ、民衆のものになってしまうということに。
虚構も真理となってしまう可能性を秘めていることに。
なんて愚かで、悲しい関係。
嗚呼、世界はこんなにも矛盾に満ちて。
だからこそ、こんなにも美しい。
END