迷宮
ひたひた、と。
一歩進む度に、素足から大理石の床の冷ややかさに侵されていくような気がした。
先導する侍女が掲げる燭台の小さな灯りに照らされ、回廊はどこまでも続いているように
見えた。それが先の見えない今の状態を暗示しているようで、不安が更に募っていく。
何故こんなことになったのだろうか。
何がいけなかったのだろうか。
どうしたら元に戻れるのだろうか。
幾度自分に問いかけても、答えの欠片すら見つからない。心細さに夜着の前をかき合わせ、
ディアッカは己の身体を抱き締めた。
湯浴みの後で着せられた絹の夜着は、装飾が取り払われ、それどころか着崩れを防ぐための
帯も紐も、釦すらない。なぜならば夜伽の相手が刺客であった場合、帯や紐でさえ王を害する武器となりうる。それを避けるために施された配慮ではあるのだが、それは着る側の羞恥や屈辱を全く考慮してはおらず、手で押さえていなければ歩く度に裾が肌蹴て、素肌が晒されてしまう。
何故こんなことになったのか。
何度目かの問いを繰り返した時、前を歩く侍女が一枚の扉の前で立ち止まった。
燭台を床に置き、扉の鍵を開ける。
天井に届かんばかりの巨大な扉は、ぎいと低い音を立てて開いていく。その奥に更に広がる暗闇に、
ディアッカはごくりと息を呑んだ。
「お進みください」
後ろを歩いていた侍従が、低い声で中へ入るよう促してくる。
部屋の暗さに躊躇っていると、侍女が燭台の灯りを室内のランプに移していった。
ほの暗い灯りに部屋の様子が浮かびあがってくる。
豪奢なテーブルにソファー。そして、巨大な寝台。
これからここでわが身に降りかかるであろう事柄を露骨に見せ付けられたようで、ディアッカは
思わず後退った。どんと背中が何かにぶつかり振り返ると、侍従が視線を伏せたまま扉の前を
立ち塞いでいた。
「陛下がいらっしゃるまでお待ち下さい」
その言葉に首を振り、ディアッカは幾度目かの、しかし真剣な思いを訴えた。
こんなことはイヤだ。
帰りたい。
帰してほしい、と。
「陛下が貴方をお召しなのです」
願いは敢え無く切り捨てられ、扉は目の前で閉じられた。
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その日はディアッカがずっと待ち望んでいた日、の筈だった。
城内の奥向きを取り仕切る父の補佐としてではなく、近衛兵として初めて登城する日だったの
だから。
子供の頃から憧れ続けた近衛兵の軍服は、赤地に金の肩章があしらわれた王の守護と儀仗の任を
負うに相応しい典雅なもので、袖を通す度に身が引き締まる思いと誇らしさが湧き上がってくる。
この軍服を着るために、ディアッカは幼い頃から剣の稽古や勉学に人並み以上の努力を払い続けてきた。
「近衛兵になりたい」
この国に生まれた男児であれば必ず一度は憧れることだ。それはこの国の王、フラガが
「鷹王」の二つ名で呼ばれる程に尊敬を集めているからでもある。
戦場に於いてはその強さで敵軍を圧倒し、領内に於いてはその寛大さで民を慈しむ。
加えて黄金の髪と青海の瞳を供え、神の加護を一身に受けたかのような容貌は、この国の財の一つと
していつも民が他国民に自慢していることでもあった。
それゆえ古参兵も新兵も、王の一番近くに侍る近衛兵であることに常に誇りと自負を抱いていた。
近衛隊入隊の儀は、例年閲兵式を兼ねて城内の大広間で執り行われる。
そこでは、日ごろ玉座から前に出ることが無い王が、閲兵のために広間に歩を進めることもあり、
貴族たちはそれぞれ美しく着飾った令嬢を伴っていた。
この国の男児が近衛兵に憧れるように、多少でも己の容姿や家系に自信のある少女たちは「王妃に
なりたい」という夢を抱いていた。フラガは正式な王妃を娶っても差し支えない実績を既に持ちながら、
未だ公には独身を貫き、王妃の座を空席としていたためである。
それ故に、例えそれが閲兵の儀の途中ででも、フラガの目に留まり、寵姫に取り立てられることがあれば、
いつか王妃の座に座ることができるかもしれない。その僅かな希望を胸に、少女たちは精一杯着飾って
咲き誇っていた。
フラガが目前を過ぎる度に、少女たちは僅かに顔を上げ、恥らいを含んだ笑みを投げかける。フラガはそれを
鷹揚に受け止め、兵の前を進んでいた。
やがて新兵が並ぶ列後部に来た時、一人一人の顔を確認するように、フラガは歩調を緩めていった。
段々と近付いてくるフラガの姿を視界の端に捉え、ディアッカの鼓動が早くなってくる。
尊敬すべき王。その王が自分のすぐ近くに居る。
緊張がディアッカを覆っていた。
コツコツと床を踏む靴音が段々大きくなり、自分の前を通り過ぎる筈のその靴音がぴたりと止まった。
何か粗相をしたのだろうか、とディアッカはごくりと息を呑んだ。
重すぎる沈黙を破って、低い声音が響いた。
「君は?」
ディアッカは敬礼を返し、硬い声で答えた。
「この度近衛兵の任を拝命いたしました。以後、王の剣となって邁進いたします!」
「……私は、君の名前を尋ねているのだよ」
フラガの言葉に、ざわりと座が沸き立った。
名を問う。
それは、王がその夜の伽を命じる公知の符号であった。
何故?唇が震え言葉が出てこない。何度も唾を嚥下し、ディアッカは口を開いた。
「エルスマン、です」
「タッド・エルスマンの子息か。名は?」
「……ディアッカ…です」
「美しい響きの名だ。気に入ったよ」
ふわりと笑みを浮かべ、フラガがディアッカの前を通り過ぎ、何事もなかったかのように式典が
進んでいく。
どうして?
何故?
何が起こった?
水中から空を眺めているかのように視界が遠くで揺れ、足元がふらつく。それでも身体は儀典長の
号令のとおりに動いている。
どうして?
どうして?
その間も、何度もディアッカの頭の中で繰り返される。
やがて滞りなく式典が終わり、王が退席すると同時に、小さなざわめきは大きな喧騒となって轟々と
広間を揺るがせ始めた。
『何故あんな子が選ばれるのっ?!』
『男の子じゃない!信じられない!!』
罵声と憎悪。好奇と侮蔑。
あらゆる負の感情が無遠慮にディアッカへと向けられる。いたたまれない。
早く。一刻でも早く、この場から立ち去りたい。
じりじりと退室を命じる号令を待っていると、国王付きの侍従が近付いてきた。ディアッカの前に
立つと、低く頭を下げる。
「エルスマン様。こちらへ」
恭しく指し示された先には、父タッドとその副官が立っていた。
救いを求めるように同僚を振り返っても、皆が痛ましげな表情で視線を反らせている。
「さぁ、こちらへ」
促されるまま、ディアッカはふらふらとタッドの元へと向かった。
無言のまま、父に連れられた先は城内にある父の執務室だった。
こんなに厳しい部屋だっただろうか。幾度と無く出入りしたことのある場所なのに、初めて来た
場所のように見えた。
促されるまま椅子に腰掛け、差し出された杯を一息にあおった。乾いた喉から溢れた水に、
ディアッカは咳き込んだ。
「ディアッカ…」
「父上……何かの間違いでしょう? そんなこと…ありえませんよね?!」
縋るようなディアッカの視線にタッドの表情が歪む。
「…間違いでは、ないのだ。陛下はおまえをご所望されている」
「ウソだっ!!」
がたんと音を立てて椅子から立ち上がり、ディアッカは自分の父親に取りすがった。
「ウソですっ、そんな!…私は男です…陛下が私にそんなことをお望みになる訳がありませんっ!!」
「陛下が男性をお望みなったのは、これが初めてではない」
「でも、後宮には女性しかいらっしゃらないではないですか?! 男性が後宮に入ったなど、聞いたことがありません!
それに陛下にはあんなにも美しい寵姫方がいらっしゃるではないですか」
城の後宮には、フラガとの縁故を望む国々からやってきた美しい姫君や、この国でも有力な大貴族たちの
令嬢が幾人も住まっている。数多くの名花に囲まれていながら、わざわざ男性を望む必要など無いではないか。
だから、先程のフラガの言葉は間違いだ、と。ただ、本当に名前を聞きたかっただけなのだと、父の口から
聞きたかった。
しかし、タッドは苦渋に満ちた表情のまま、拳を握り締めている。
「今までお召しになられた男性は、みな少年たちだったが…後宮には入っておらぬ。陛下から一夜の情けを頂いても、子を成す訳ではない。翌日には、元に帰された。
それ故…彼らが戻った後、周囲から好奇の目で見られずに済むよう、陛下はいずれも人目の無い場所でお声をかけておられた。
しかし…おまえの場合は……」
この国の主だった貴族が一堂に会した中で、ディアッカはフラガから召されたのだ。
仮に今日をやり過ごしたとしても、この先ずっとディアッカには「王の夜伽を務めた男」という噂が付き纏うだろう。
「そん、な…」
タッドの服を握り締めたまま、ディアッカはずるずると床に座り込んだ。
「ディアッカ……不甲斐ない父を恨んでもよい。耐えてくれ。拒むことなど、出来んのだ…」
僅かな望みを絶たれ、ディアッカの目の前に昏い闇が降りた。
その後、侍従に伴われ、ディアッカは城奥の浴室へと連れられた。侍従たちの監視のもと、湯を浴び、身体を清めさせられた。
全身に精油が擦り込まれ、爪でフラガの身体を傷付けないよう、爪が磨かれた。
日ごろ大剣を振るっている掌は、小さな傷や胼胝で硬くなっている。それを少しでも柔らかくしようとでもしているのか、香油で入念に揉み解された。
その間、年老いた侍女が寝屋の心得を儀礼的に読み上げている。
フラガに抱かれるための準備は、ディアッカの意思と関係なく儀式のように進んでいた。
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ランプの炎が揺れ、天井に伸びる影が大きく揺らぐ。
それは広い部屋の中で所在無げに立ちすくむディアッカを嘲笑っているかのように見えた。早く朝が来て、こんな影など全部朝日の中に消えてしまえばいいのに、とディアッカは願った。
しかし重苦しい静けさは、やがて扉が軋む音にかき消された。
「待たせてしまったかな」
正装を解いたフラガが泰然とディアッカの前に表れた。
「今日は、せっかくの入隊の儀だったのに悪かったね。驚かせてしまったんじゃないか、と心配していたんだ」
「いえ」
「そんなに緊張しなくてもいい。執務を離れている間は、当たり前のひとりの男にすぎないんだから」
優しげな眼差しと温かな口調に、ディアッカの緊張が解れていく。やはりあの時フラガが自分の名を
尋ねたことに他意はなかったのだ。間違いだったのだ、とディアッカは安堵の息をついた。
「陛下は私にとって、幼い頃からの憧れでした。陛下のお傍近くで働ける、近衛の末席に着くことができただけで幸運だと思っています」
「そうか……だとしたら尚更申し訳ないことになるかもしれないな」
「…どういう、ことでしょうか?」
「説明はまた別の機会にしよう」
ディアッカの腰に腕を回し、フラガはディアッカを寝台へと誘った。柔らかな羽根布団に横たえられる。
圧し掛かってくる重さに、ディアッカは目を見開いた。
「陛下…なに、を」
「わかっているからこそ、その格好でここに来ているのだろう。私は君の名前を尋ねた。
その意味がこれだ」
羽織っただけの夜着はフラガの手によって暴かれ、ディアッカはフラガの前に裸身を晒していた。
小さな炎の灯りに、薄い筋肉に覆われた均整の取れた身体が浮かび上がる。褐色の肌は艶やかな色を刷いていた。
「美しいな……この身体を誰かに与えたことは?」
「ありま、せん」
「きみを手折る栄に浴するとは、嬉しい限りだね」
首筋にフラガの唇が触れ、所々吸い上げながら身体を辿っていく。ディアッカの両腕を押さえつけていた手は、当然の権利を行使するようにまっすぐディアッカの下肢へと伸ばされていた。
「陛下っ!」
『寝屋においては陛下の望むままに。言葉でも、態度でも、陛下を拒んではならぬ』
繰り返し言い聞かされた心得も、実際にその身に起こってみれば、何の規制にもなりはしない。
同性に身体を暴かれる嫌悪感に突き動かされ、ディアッカは叫んだ。
「私は…私は、陛下のお相手を勤められるような人間ではっ…!」
「きみはそれを納得してここに来たのではないのか?」
この国において、誰がフラガの意志に逆らうことなどできるのか。
フラガ王が望んでいる。この一言は、他の何よりも優先される。ディアッカが納得していようが、いまいが、フラガの意志の前には一顧だにされることはない。
そのことをフラガはわかっているのだろうか。ディアッカは口惜しさに唇を噛んだ。
「怯えているのか?恐がらなくてもよい。ひどいことは、しない」
「……はい…」
逃れることなどできない。
逆らうには、フラガの存在は余りにも大きすぎた。
「くっ……っ…ふ…ぅ」
全身を這う唇と指に、嫌悪感がこみ上げる。それを喉でかみ殺し、ディアッカはひたすら時が過ぎるのを待った。
『声を出して、陛下の邪魔をしてはならぬ』
教えられた言葉を何度も反芻し、ともすれば悲鳴を上げて逃げ出そうとするのを必死で押し止めた。
「ディアッカ……」
耳元で幾度となく名を囁かれた。こういう状況でさえなければ、どれだけ誇らしかっただろうか。
願っていたのは、戦場において王の傍らで、国の執政を司る円卓で、王の片腕として名を呼ばれることであった筈なのに。現実は、身体でもって王を慰める伽の相手を務めているにすぎない。名前を呼ばれることも、睦言の一つでしかない。
昨日まで、剣と知力とで王と国のために身を捧げようとしていたのに、ただ肉体だけを望まれた。
今までの努力は何だったのだろうか。近衛兵に選ばれた時に感じた栄誉が、塵のように散って、消えていく。
「ディアッカ。少し苦しいかもしれないが…我慢、できるな?!」
「……はい」
これ以上に苦しいことなど、何があるというのだろうか。「嫌だ」と言えば、止めてくれるとでも言うのだろうか。
ディアッカは命じられるまま、うつ伏せになり、腰だけを掲げた。
双丘の狭間に熱塊が触れ、ディアッカの中を抉じ開けていく。
「……っ、くぅっ………っ…あ、あぁっ…!!」
身体を開かれる激痛に息が止まる。喉が痙攣し、引き攣ったような悲鳴が後から後から溢れてくる。
逃れようと肘で這い上がると、引き戻され、更に奥へと突き入れられた。
「痛いか?」
フラガの問いに何度も首肯し、ディアッカは苦痛を訴えた。
「そうか……だが、私もこれ以上は自制できそうもない」
「あ、あぁ…うぁぁっ!!」
手荒く揺さぶられ、引き裂かれるような激痛が全身を走る。息をつく間も無い責め苦に、視界が暗さを増してくる。やがて暗転した視界のままに、ディアッカは意識を闇へと飛ばした。
「---様、--ィアッカ様」
遠くから呼ぶ声が聞こえる。
「ディアッカ様」
「…っ、あ」
瞼を開くと、紅色の影が揺れていた。瞬きを繰り返し、焦点をあわせた先には、深い紅のお仕着せを身につけた背の高い青年が立っていた。
「おはようございます、ディアッカ様。ご気分は如何ですか?」
警戒心を抱かせない、あけすけな笑顔に引き摺られ、ディアッカも青年に笑みを返した。
身体を起こし、寝台から降りようとすると、青年がすっと脇を支えてきた。
「大丈夫。一人で歩けるから」
「いえ、陛下からお身の上はお伺いしております。医師を呼んで参りますので、ひとまず身体を清めましょう」
「医者なら家に帰って自分で呼ぶから。今は、いい」
早く家に帰りたい。自分の部屋でもう一度眠れば、昨夜のことも少しは忘れることができるかもしれない。
少なくともこの場所にいる限り、寄せる波のように昨夜の記憶はディアッカを苛むのだから。
「ご自宅に戻ることなどできませんよ。ディアッカ様には、このまま離宮へお移りいただきます」
「なに、を…なにを、言っている?」
父は言ったではないか。今まで王に召された少年たちは、みな翌日には元の場所へ返された、と。
「陛下はディアッカ様を大変お気に召され、今朝程ご実家には、ディアッカ様がこのままお留め置かれることを通達いたしました。本来、陛下のご寵愛を受ける方々には後宮へお住まい頂くのですが、ご存知のとおり後宮は陛下以外の男性は入れません。ですから、今日から離宮がディアッカ様のご住居となります」
青年が笑顔を浮かべながら告げる言葉は、一言一言ディアッカを切り裂いていく。
「いや…だ……帰る…俺は、家に帰る…」
「何がご不満なのですか?陛下のご寵愛を受けたいと望んでも受けられない人間がどれほど多いことか。
ご自身の幸運をお喜びになってもよろしいのではないですか」
この身の幸運を喜べ、と言いながらも、青年の笑みには侮蔑の色が混じっている。
「申し遅れました。私、ディアッカ様のお世話係を言い付かりました、ラスティー・マッケンジーと申します。お世話係と言っても、半分以上は監視役ですが」
「かん、し?」
「監視です。逃げ出したい、と思っているのでしょう?!陛下はご存知ですよ。
でもね、逃げても行く場所なんてありませんよ。ご実家は既に手が回っていますし、近衛隊も除隊手続きがなされております。ご友人の方々にも、ディアッカ様が陛下の寵童になったことはお知らせ済みです。
陛下のご寵愛を受けている貴方を匿おうなんて奇特な人間は、この国にはまずいないでしょうね」
眠っていた間に、逃げ道が全て閉ざされていた。
両脚から力が抜け、ディアッカは床に崩れ落ちた。
何故こんなことになったのだろうか。
何がいけなかったのだろうか。
どうしたら元に戻れるのだろうか。
答えは見つからないと知りながら、ディアッカは何度も自問を繰り返した。
END