『ここは雲が生まれる場所』
フラガ家の別荘があった山間地をそう呼んだのは、母だったか、父だったか。それとも他の誰かだったのか。今では記憶の片隅にも無いのに、その言葉だけはずっとムウ・ラ・フラガの心の一番深い所に刻み込まれていたらしい。
頭上を流れる雲を仰ぎ、フラガは独り微笑んだ。
一昨日気まぐれに立ち寄った書店で、フラガの視線が一冊の雑誌に引き付けられた。
ありきたりの旅行雑誌だったが、その表紙には底が無い青い空と白く固い雲の下で風に吹かれる草原。風景写真としても取り立てて珍しい光景ではない。リゾート地の土産物屋で絵葉書にでも使われているような、ありふれた風景だ。
だが、似ていた。
まだ父が自分を息子として愛し、母を妻として愛し、家族が慈しみ合っていた頃、夏が来る度に訪れていた山間の、自然豊かな別荘地の光景と、とてもよく似ていた。
気がついた時には書店を飛び出し、フラガはシャトルに飛び乗っていた。衝動的すぎるかなとは思ったが、ハイスクールも夏期休暇に入り、一人きりの寮で時間を持て余すよりはマシか、と自分を納得させた。
空港からはヒッチハイクを繰り返し、ようやくたどり着いた目的地は記憶以上の雄大さでフラガを出迎えてくれた。
夏の真っ只中だというのに長高い青空の中を白い雲が流れ、糸杉の枝先は陽光を吸い込んだかのように尖った葉先を黒々と空に焼き締め、細い影を落している。視線を巡らせれば、柔らかな草原と幾重にも重なった峰が広がっている。時折頬を掠める風と流れる雲以外は何一つ動くものがない。
自然の雄大さが視界いっぱいに広がる。懐かしさに涙が出そうだった。それが油断になったのかもしれない。
苦い悔恨に溜め息を付き、フラガはゆっくりと目を閉じ、握り締めていた拳を解いた。
伸ばした指先に小川を流れる清水が触れる。その冷たさに反射的に腕を上げると、今日既に何度も味わった激痛がまたフラガの全身を走り抜けた。
「まったく、ついてないよなぁ」
つい諦めにも似た言葉が口を付く。
フフラガ家の別荘は、人里を離れた山奥に一軒だけひっそりと佇んでいた筈。不確かな記憶を辿ってフラガは目的地を目指し、獣道のような小径を駆け上がった。
だが、急ぎすぎたのかもしれない。記憶が曖昧すぎたのかもしれない。途中、フラガは小径に転がる石を踏んでバランスを崩し、谷底へと転がり落ちた。
気付いた時には谷川に半身を浸し、ごつごつとした小石だらけの平地に横たわっていた。
崖はそう高くもなかったが、転落する途中で身体をぶつけたせいで所々服が裂け、その下に擦り傷も見える。
とりあえず致命傷になりそうな大怪我を負った訳ではなそうだ、と安堵のため息をつき、立ち上がろうと身体を動かしてみたら足元からじわじわと鈍痛が広がってきた。
ぐぅっと奥歯を噛み締め、フラガは岩だらけの地面に仰向けに身を投げ出した。じくじくと痛みが全身を覆っていた。
小川のせせらぎが、さらさらとフラガを掠めて流れて行く。
打撲か骨折か。目に見えないところに怪我を負っているのかもしれない。
暫く休めば少しは動けるようになるかと思ったが、時間が経つほどに痛みは増していくようで、今では腕を動かしただけでも激痛が走る。
「ってぇ……」
冷たい水の流れはフラガの体温と体力を削り取り、やがて睡魔がフラガを襲ってきた。ここで眠ってしまったらどうなるか。夏場だけに凍死はないだろうが、衰弱から死へと向かう可能性は無いとは言えない。危険な獣が現れるかもしれない。
しかし、例えここで自分が死んだとしても、悲しむ家族がもういないことを思えば、それはそれでいいのかもしれない。大事な思い出と、美しい自然に抱かれて天に召されるなんて、考えようによっては分不相応な程に贅沢とも言える。
「いロードムービーのエンディングみたいで、かっこいいかもな」
フラガは落ちてくる瞼に逆らわず、目を閉じた。
視界が暗転する間際、きらりと何か光るものが見えたような気がしたが、きっと自分には関係ないもの、と思うことにした。
光が瞼を通して瞳の奥に突き刺さる。
フラガは眩光から逃れようと寝返りをうち、ズキと全身を走る痛みで一気に覚醒し目を開けた。視界一杯に光の波が押し寄せる。
陽光が差し込む部屋の中にフラガはいた。ヴィクトリア調、と言うのだろうか。重厚で古めかしい家具が並んでいる。微かに漂う人の気配に、それが装飾品などではなく、今も誰かが実用として使っているものであることが伺える。
身体を起こそうとして、自分がベッドに横たわっていることにも気が付いた。柔らかなシーツは学生寮で支給される木綿のシーツとは桁違いの柔らかさで、しっとりと身体を包み込んでいた。
とりあえず自分を保護してくれた誰かは、行き倒れを高級家具が並ぶ部屋の、絹のシーツを敷いたベッドに寝かせてくれる程度には奇特な人物であるらしい。
きょろきょろと周囲を見回していると、傍らに小さな気配を感じた。全身を突き刺す痛みを堪え、ぎこちなく振り返り、フラガは思わず目を見張った。
視線の先には、大きなセントバーナード。五、六歳くらいの小さな男の子。更に小さな黒い猫。一人と二匹が横一列にベッドの端に頤と両手を乗せて、瞬きもせずフラガを見つめていた。遠慮の無い視線が突き刺さる。
「えっと……あの、ここはどこ、かな?」
とりあえず声をかけてみたものの、応えはない。ただ無言でじーっとフラガを見詰めている。男の子の零れ落ちそうに大きな紫色の瞳に、包帯や絆創膏を貼られて途方に暮れた表情の自分が写っていた。
見詰められる居心地の悪さに、どうしようかと考えあぐねていると、その子供はすくっと立ち上がり、すり足でドアの方へと後退った。後ろ手でそっとノブを回し、静かにドアを開ける。
ドアの向こうに一歩足を踏み出すと、それまでの静かな動作を一変させて、ばたばたと駆け出した。
その後を黒猫が追い、セントバーナードはちらりとフラガを振り返ったものの、やはり男の子を追って出て行った。
「パパーッ。落し物が目を覚ましたー!」
落し物?
目を覚ます?
もしかしたら自分のことか。
舌足らずな子供の声に応えて低い大人の声が聞こえてくる。何を言っているのか内容まではわからないけれど、雰囲気からして自分の様子を子供に尋ねているようだ。
「落し物」としてはどういう態度で出迎えればいいのか。「落し物」と呼ばれているところからして、崖下に転落していた自分を助けてくれたのだろうし、まずはお礼を言うのが先か。
心の準備が整わないうちに、開け放たれたドアから男の子を片腕に抱き上げた父親らしき男性が部屋に入ってきた。
緩いウェーブのかかった長髪を後ろで結わえた温厚そうなその男性は、労わるような面持ちでディアッカに声をかけた。
「目が覚めたようだね。気分はどう?」
「いえ、特に…… 」
問われるままに答え、フラガはふるりと頭を振った。
「あの、貴方が僕を助けてくれたんですか? ご迷惑をかけてしまってスイマセン。それと、ありがとうございます」
「私はきみをここに運んで傷の手当てをしただけだよ。この子が川原で倒れているきみを見つけた。この子の外出好きには困っていたんだが、たまには良いこともあるみたいだ」
男性は腕に抱えた子供に微笑んだ。男の子が得意気に鼻をひくつかせている。
「私はタッド・エルスマン。この子は息子のディアッカ。きみはムウ・ラ・フラガ、でいいのかな? ポケットの中にIDカードがあったけど」
「そうです。えと、ご迷惑をおかけしたみたいで…… でも、もう大丈夫ですから」
ベッドから降りようと上体を起こし、こめかみにずきりと走った痛みにフラガは額を押さえた。
「あの高さから落ちて打撲と擦り傷だけだなんて、全く運がいい」
運がいい、と言われても、少し身体を動かしただけで全身に突き刺すような激痛が走り、血管を食い破りそうな頭痛が襲ってくる。本当に打撲と擦り傷だけなのだろうか。
嫌な予感に、フラガはおそるおそるタッドを見上げた。
「あの、ご迷惑ばかりおかけして申し訳ないんですが、麓の村にあった病院へ行きたいんですけど。頭が痛くて」
「パパがちゃんと手当てしたもん」
父親の腕からするりと抜け出て、ディアッカがフラガの枕元に駆け寄ってきた。
「パパは立派なお医者さんだからだいじょうぶ」
ディアッカのセリフに答えるように、タッドが苦笑交じりに小さく頷いた。
「立派かどうかはわからないけどね。一応、私は医者なんだ。診た限り、外傷以外は問題無いと思うよ。冷たい水の中にずっと浸かっていたせいで体力は落ちているが。頭痛もそのせいだろう」
「……スイマセン。失礼なこと、言って」
「パパが大丈夫って言ったから、僕がずっと見てたの。なかなか起きないんだもん」
フラガの表情を伺うようにディアッカが顔を覗きこんでくる。窓から差し込む陽射しが金糸の髪に煌いて、もしかすると気を失う前に見た煌きはこの子なのかもしれない、とフラガは思った。
「そうだね。ごめんね」
改めて見てみると随分と可愛い子供だと思う。紫瞳に金髪、丸い頬。これで肌の色が褐色でなく、小さな弓矢を手に持っていれば、宗教画の天使かキューピッドのようだ。
だが、どこかおかしい。フラガは眉を顰めた。
面差しが似ているあたり、彼らは間違いなく親子だろう。だが、肌の色が違う。タッドは典型的なコーカソイド、白人だ。仮に母親がニグロイドかモンゴロイドだとしても、肌の色だけに母親の特徴を受け継ぎ、骨格や髪の色、瞳の色に父親の特徴だけを受け継ぐ可能性は、メンデルの法則上極めて低い。有り得ないと言ってもいい。
だが、それを合理的に説明できる理由がたった一つだけある。
「もしかしたら貴方たちは……」
「あぁ、コーディネイターだよ。私も、この子も」
あまりにもあっさりと肯定され、フラガはぽかんと口を開けた。
ここ数年、ナチュラルの反コーディネイター感情は最悪を極めている。C.E.五十五年に採択されたトリノ議定書によって、その悪感情を肯定する理由ができたこともその一因だ。
議定書の威を借り、自然回帰を掲げる思想集団「ブルー・コスモス」によるコーディネイターへのテロ紛いの攻撃は日々激化の一途を辿り、追われるようにコーディネイターたちは宇宙へと去っていった。
そんな状況でコーディネイターが、しかもこんな小さな子供を連れて地球に居るなんて自殺行為としか思えない。
フラガは言葉も無く、唖然と親子の顔を交互に見やった。
「そんなに驚かれるとこちらも困ってしまうのだけど…… きみはブルー・コスモスなのかな?」
「違いますっ…… 違う……と思っています」
咄嗟に否定はしたけれど、面と向かって問われてしまうと正直言ってよくわからない。
「反コーディネイター思想」は、極めてさりげなく且つ正論の仮面を付けて、日々の生活のあらゆる場面に散りばめられている。
マスコミ報道。学校教育。童話。小説。ゲーム。ドラマ。映画。
あらゆるメディアを通して、「ナチュラル」であることを賛美する思想は地上に伝播されている。
あからさまにコーディネイターと名指しすることは無いけれど、「ナチュラル」に生まれ出でなかったものは「異端」「怪物」と表現され、必ずナチュラルに滅され、消滅する存在として描かれていた。
それはまるでサブリミナル効果のように、ひっそりと心の奥底に根を張り、遺伝子を操作されて生を受けたコーディネイターという存在に対する反発や畏怖へと実を結んでいる。
理性を超えた生理的な嫌悪感、と言ってもいいのかもしれない。
それを最も端的に表しているのが「ブルー・コスモス」だ。
ブルー・コスモスが唱える「青き清浄な世界」において、コーディネイターは穢れであり、駆除されるべき存在と見なされている。
通常、人間は「生命を奪う」ことに抵抗を感じるようにできている。それがましてや自分達と同じ姿かたちを持っている人間であれば尚のこと。それなのにブルー・コスモスの対コーディネイター・テロリズムが「過激すぎる」と一部の平和主義者、平等主義者たちから非難をされるだけで、大衆から存在や思想を否定されないのは、ナチュラルの間にコーディネイターは人間ではないこと、排除されてもやむを得ない存在だと感じる下地が整っているからである。
少年らしい潔癖さで平等思想を旨とするフラガも、ブルー・コスモスにも反コーディネイター思想に反発を感じてはいるが、コーディネイターに対して全く気負わず対峙できるか、と問われると自信がない。彼らも人間なのだから差別は良くない、対等でなければいけない、と思ってはいるが、その気負い自体、既に反コーディネイター思想が骨の髄まで染み込んでいる証なのかもしれない、とも思う。
複雑な心境にどういう表情を作ればいいのか分からず、フラガは顔を伏せた。
それをどう受け取ったのか、タッドはくしゃりとディアッカの頭を撫でフラガの横たわるベッドに腰掛けた。
「私たちはコーディネイターだけど、だからといって反ナチュラルではないよ。私の両親はナチュラルなんだから」
「すいません。コーディネイターの方とお会いするのが初めてなので、失礼な態度を取ってしまったかもしれません。でも、僕はブルー・コスモスではないですし、コーディネイターとナチュラルを分けるような考えを持ちたいとも思いません」
勢い込んで言い募るフラガを、タッドは穏やかな視線で受け止めた。よくわからないといった表情で、ディアッカが父親とフラガを交互に見やっている。
タッドはディアッカを抱き上げると、部屋の外へと足を向けた。ドアを開け振り向いたタッドの表情は、患者を気遣う医師を超えた慈愛に満ちていた。
「込み入った話は明日にしよう。今日はゆっくり休むといい」
ドアが閉まる間際、タッドの肩越しに「おやすみなさい」と小さな声が聞こえた。
再び訪れた静寂に、フラガはシーツを頭から被った。シーツの下で、フラガは自分の卑小さに唇を噛み締めた。
「起きて。起きてよぉ。朝だってばぁ」
「ディアッカ…… お兄ちゃんは未だ眠いの…… 遊びたいならサウザーかシャロンに遊んでもらって……」
「だめぇ!」
ブランケットを引き上げ、もぞもぞとベッドの中へ潜り込もうとするフラガの上にディアッカが飛び乗る。さっさと起きて遊んでくれ、というディアッカの実力行使だ。
毎朝の恒例行事ではあるのだが、ディアッカの起床時間が不規則なせいで、時折とんでもない朝早くにフラガは叩き起こされる。
フラガが来るまでは犬のサウザーか猫のシャロンがディアッカの標的だったが、今では二匹ともその役目をフラガに譲り、安心して朝の惰眠を貪っている。
「サウザーとシャロンを起こしたら引っかかれるもん。だから、ムウ。起きて!」
フラガが頭まですっぽりと被っているブランケットを無理矢理引き剥がし、ディアッカが小さな掌でフラガの顔を叩く。叩かれる、というよりも、撫でられているようでくすぐったい。
「お兄ちゃんは怪我人なの。病人なの。だからゆっくり寝てなきゃいけないの。っていうか、ほんとにとっても眠いから」
「パパがムウの怪我はもう治ってる、って言ってたもん!」
確かに次の朝、目が覚めた時には傷や打撲の痣は残っていたが傷の痛みは消えていた。頭痛もきれいさっぱりなくなり、快適な目覚めを迎えることができた。
自分の身体が丈夫だったからなのか、それともタッドが名医だったからなのか。多分両方だろう。
完全復活とまではいかないが、とりあえず歩いて麓の村まで帰ることはできそうな程には回復していた。
どうやってここを辞去しようか、お礼の言葉をいろいろと考えてもみたけれど、何故だかそれを口に出すのは憚られ。好きなだけ居ればいい、というタッドの言葉に甘えて、ずるずると滞在し続けている。
じっくり外から眺めてみると、この親子が住む家は「家」というよりも「館」と呼ぶ方がしっくりくる、かなり立派な建物だった。
奇特な金持ち、という第一印象は、あながち間違いではないのだろう。
この館もタッドの曽祖父がイギリスの古い郷士の館を、夏の別荘にするために移築したものらしい。ただし電気や通信といった近代的な設備は、山間部にぽつんとある建物には不似合いな程に整っている。
それでもこの館は古き良き時代感を残して山深いこの土地の風景に馴染んでいた。絵本の挿絵にでもなりそうな光景だと思う。
そこに人並み以上に美貌の親子が犬と猫だけを連れて住んでいるとなれば、麓の村で少しは噂になりそうなものなのだが、この親子は上手く風景に溶け込んで他人の目の煩わしさから逃れている。万人に等しく流れている時間すら、ここでは少しばかり流れを緩やかにしているのかもしれない。
その緩やかな時間を満喫するために、フラガはブランケットを引き戻しもう一度頭から被った。いくらなんでも朝日と同時に起床するなんて、健康的かもしれないが自分向きではない。
「ムーウー、おーきーてーっ!」
またウトウトと眠りかけたフラガを、ディアッカの声が現実に引き戻す。
無理矢理目を開けてブランケットの隙間から覗いてみたら、なかなか起きてこないフラガに焦れて、ディアッカが不満気に口を尖らせている。
子供らしい姿に、つい笑みが浮かぶ。ここまで無邪気に懐かれると、怒る気も起きない。
「……わかった、起きる。起きるけど…そのまえに……お仕置きだっ」
自分の上に座り込んでいるディアッカの両脇に手を入れ、抱き上げた。そのままベッドの上に引きを倒し、こちょこちょと全身をくすぐる。きゃあきゃあとディアッカが笑いながら、フラガの手を叩く。
小さなディアッカ。我侭で素直で、それでいて優しい。
弟ができるとしたらこんな子がいいな、と思う。弟にしてはちょっとばかり年が離れすぎているような気もするし、色々手もかかるだろうが、それでもやっぱりディアッカみたいな弟がいたらきっと毎日楽しいだろう。
笑いすぎて息を切らしているディアッカをベッドの上から下ろし、フラガは起き上がった。大きく伸びをして、残った眠気を振り払う。
「っと。んじゃまずは朝ゴハンだな。食べ終わったら一緒に遊ぼう」
ディアッカは目を輝かせて頷くと、身支度をするフラガに纏わり付いてきた。それをウザイとか鬱陶しいと思わない自分が、フラガには不思議だった。
身支度を終え、ディアッカの手を引いてダイニングに行くと、タッドが朝食の準備をしていた。ディアッカを椅子に座らせ、フラガはキッチンに立つタッドへと近づいた。
「おはようございます。遅くなってすいません。手伝います」
「おはよう。今日も朝からディアッカの相手をしてもらって悪いね。とりあえず冷蔵庫の牛乳をディアッカにあげてくれるかな?」
「ぎゅうにゅう……きらい……」
下唇を突き出して不満を露にするディアッカは、なかなかに愛らしい。悪戯心でフラガはわざと大きなカップを選び、なみなみと牛乳を注いだ。
「ディアッカ。好き嫌いしてると大きくなれないぞ」
「そんなことないもん。パパは僕が大きくなる遺伝子をくれたもん! ムウこそナチュラルなんだから牛乳飲まないと大きくなれないよ。だから僕の牛乳、あげる」
「完全な遺伝子操作なんて無いんだよ。パパはディアッカに出来るだけのものをあげたけど、ディアッカの好き嫌いが多いとそれも無駄になっちゃうかもしれないな」
禁忌だと思っていたコーディネイターとナチュラルの違いに関する話も、二人の前では食卓の軽い会話の一つに成り下がる。最初はフラガも面食らったが、慣れてしまうと逆に楽しい。自然体がお互いに分かり合えた証にも思えてくる。
牛乳の入ったカップを前に愚図るディアッカをタッドは視線で窘め、ディアッカの前に焼きトマトとベーコンの乗ったオムレツの皿を置いた。
「トマトはおいしくないよ……」
大嫌いなものを二つも目の前に差し出されて、ディアッカが泣き出しそうな顔で見上げてくる。食べなくてもいいと、誰か言ってくれないだろうか。子供らしい期待がその表情の後ろに見え隠れしている。
「食べないと遊んであげないよ」
わざと怖い顔をしてディアッカの期待を跳ね返す。遊んでもらえないのが嫌なのか、それともフラガが怒ったことが嫌なのか、瞳を潤ませてディアッカが焼きトマトを口に運んだ。無理矢理飲み込んでいる姿はかわいそうだけれど、がんばって食べている様がいじらしい。
「えらいぞ、ディアッカ」
くしゃくしゃとディアッカの頭を撫でると、ディアッカが強張った笑顔を浮かべる。ご褒美にディアッカのカップへ牛乳を注ぎ足し、フラガは自分も朝食の皿に向かった。
じゃれあいのような他愛の無い会話が続く中、フラガはさりげなさを装ってタッドにずっと言えなかったセリフを口にした。
「今日は麓の村に行く予定はあるんですか?」
「一昨日行ったばかりだから、今日は行くつもりはないけど。何かほしいものでもあるの?」
「いえ。バギーをお借りしたいんです。行きたい所があるので……」
元々この土地に来たのは、幸せだった幼い頃の思い出がつまった、あの別荘をもう一度見てみたかったからだ。
タッドとディアッカ。この仲の良い親子を見ていると、郷愁と焦燥が日々募っていった。
自分にも同じように幸せだった子供時代があったのだ、と早く確かめたいのだ。
周囲の風景と村からの位置関係から考えると、恐らくフラガ家の別荘は丘を二つばかり越えたあたりになる。
徒歩では遠い。でもバギーならば、そう時間をかけずに行くことができるだろう。しかしバギーはタッドの持ち物で、居候の自分からはなかなか「貸してほしい」とは言い出せず、今日まで来てしまった。
「たぶん、そんなに長くはかからないとは思うんですけど」
「僕も行く!」
朝食を食べ終わったディアッカが、フラガの膝によじ登ってきた。小さな手でシャツを掴み、自分も連れて行け、と全身で訴えている。
「ディアッカ。ムウがどこに行くか知っているの? 危ない場所かもしれないんだよ」
外見だけでコーディネイターとわかってしまうディアッカにとって、この地上に危険な場所は多い。山岳地方ならではの危険だけではないのだ。
「人が集るような場所じゃないから、大丈夫だとは思いますが…… でも、丘の向こうに行くだけだから、ディアッカには面白くないと思うよ」
「ムウが行くなら、僕も行くの! 今日も遊んでくれるって約束したもん」
唇をぎゅっと引き結んで見上げてくる視線の強さは、勘違いかもしれないけれど単に遊んでもらえなくなる寂しさだけでは無いような気がする。他人の感情に敏感な子だから、もしかしたら自分の今の心境に何か感じるものがあるのかもしれない、と思ってしまう。
コーディネイターだからといって特殊な能力を持っている訳ではないことはわかっているが、それでもディアッカには特別な何かがあるのではないか、と期待してしまうのだ。
「丘を越えたあちら側に、僕の家の別荘があったんです。そこを見てくるだけだから、危険は無いと思います」
「丘のあちら側? ……あぁ、そういえばフラガ家の党首が建てた別荘がある、と聞いたことがあるような。そうか……きみはあのフラガ家の人間だったのか」
納得した、とばかりに何度も頷くタッドに、フラガは表情を強張らせ俯いた。
フラガ家は近代史において、ある種、特別な意味を持って輝いていた。それは、フラガの名を持つ人間が、常に勝者の側に居たからだ。ある時は戦争であったり、またマネーゲームであったり。形は変わっても、勝負事においてフラガ家が係れば、必ずフラガ家が組する側が勝者となった。
運命の女神に愛でられた一族。
第三の目を持つ者。
いつの間にか「フラガ」の名は、勝利を呼ぶ護符の如く扱われていた。
だが、その一族の中に身をおいていた一人として言わせてもらえれば、フラガ一族が常に勝者であったのは幸運でも何でもない。常に状況を正確に判断できる頭脳と、冷静に将来を予測する判断力があったからだ。決して、運命などといった不確かなものに縋ったからではない。
今でも覚えている。一族の大人たちが父の書斎で、大きなディスプレイに表示された数値をもとに議論を戦わせていた姿を。そこにいる大人たちの顔は、対等に意見を交わせる喜びでいつも満ち溢れていた。
遠い過去の記憶だ。
「僕の父は八年前に火事で亡くなるまでフラガ家の党首でした。別荘は思い出の場所なんです」
自分に家族というものがあったことを証明してくれる、唯一の場所。
「わかった。バギーは好きなだけ使うといい。ディアッカはどうする?一人で行きたいのなら、無理に連れて行く必要はないんだよ」
「いえ。ディアッカが一緒に行ってくれるのなら……」
「行く!」
ディアッカの手が、ぎゅっとシャツの裾を掴んでくる。フラガはその手を取り、そっと握り締めた。この小さな手は、いつも温かい。
草原を掻き分けてフラガはバギーを走らせる。
風が頬を掠め、髪を撫でる。
助手席のディアッカも、体中で風を感じているのか、気持ち良さそうに目を閉じて頤を上げている。
「もうそろそろの筈なんだけど……」
GPSの表示では、もうそろそろ建物が見えてきてもいい頃なのに、見渡しても三六〇度ずっと草原が広がるばかり。とりあえずGPSの指示を信じて、フラガは誘導されるままバギーを走らせた。
やがて斜面の先から大きな糸杉の先端が見えてきた。なんとなくそれに見覚えがあるような気がして、スピードを落した。もう一度ゆっくりとあたりを見渡してみる。
山の稜線。
糸杉の森。
徐々に蘇ってくる記憶。
間違いない。ここだ。
フラガはバギーのアクセルを踏み込んだ。きっともうすぐ見えてくる。ログハウス風に設えられた、あの建物が。
しかし。
「ねえ、ムウ……」
小さな手がシャツを何度も引っ張っていることに気が付いてはいたけれど、返事ができなかった。
建物がある筈の場所には、白詰草が白い小花を咲かせている。それ以外は、何もない。周りに比べて生い茂る草の丈が低いことに、ここが更地とされたのがそれほど昔ではないと伺い知れるだけだ。
「そう、だった……」
両親が亡くなった後、叔父の一人がフラガの行く末を案じて、父アリダの個人資産のうちフラガ家にとってあまり重要でないものを幾つか処分し、銀行に信託してくれた。そこから上がる収益で、フラガは学校に通い、それなりに豊かな学生生活を送っている。
しかし、まさかその処分された資産の中に、この別荘が含まれていたなんて。
考えてみれば何も無い田舎の別荘なんて、最初に処分されていて当然ではあるのだが、自分にとって特別な物だっただけに考えないようにしていたのかもしれない。
「ムウのおうち、なくなったの?」
「そうみたいだね」
「どういうおうちだったのか、覚えてる?」
「少しだけ」
色々覚えている、と思っていたけれど、改めて思い出を探ってみたら、案外何も覚えていなかった。それでも数少ない記憶は、どれも幸せに彩られている。
だから建物が無くなって悲しいと思うのだろう。
記憶のままの風景を寂しく思うのだろう。
糸杉の群の中で一際高くそびえる一本は、今日も白い雲を突き刺すように空に向かってそびえている。あの木の天辺には、いつも雲があった。風に流されず、いつだって一番大きくて白い雲があった。
『ここは雲が生まれる場所』
そう言った人も、場所も、もう無いのに、雲だけは今日も糸杉の天辺にある。
「ムウ……」
きゅっと握り締められた指先に伝わる体温が温かかった。
フラガはぎゅっと目を閉じ、網膜に焼きついた景色を一旦すべて消し去った。再び目を開け、視界に入る景色全部を脳髄に焼き締めた。忘れることが無いように。もし忘れてしまっても、記憶の奥底、本能に近い場所に刻み込まれているように。
大きく息を吸い込み、フラガは天を仰いだ。
「ディアッカ。ちょっと遊んでから帰ろっか」
「……うん」
気遣わしげなディアッカの頭をくしゃくしゃと撫で、フラガは微笑んだ。
バギーの後部座席にあったサウザー用のフリスビーを取り出し、フラガは空に向かって投げた。ディアッカがそれを追いかけて、両手で受け止める。受け止められたフリスビーは大きな弧を描いて、ディアッカの手からフラガへと放たれる。
それを何度も繰り返した。単純な繰り返しに、フラガはすぐに飽きてしまっていたのだけど、ディアッカが楽しそうにフリスビーを追う姿を見ていると、やめよう、とは言い出せないかった。
「ディアッカ〜。飽きないのか? サウザーだって、こんなに何回もやんないよ」
「いいの! もっとやるの!」
ムキになってディアッカがフリスビーを力いっぱい放り投げた。放物線はフラガの頭上を越え、草原の向こうへと飛んで行った。
「あー、もう。どこに行ったかわかんなくなっちゃったじゃん」
「いいもん。僕が探してくる」
「あ、ちょっと待って」
止めようと伸ばした腕をすり抜けて、ディアッカが駆け出していく。草の波を掻き分け飛ぶように走る姿は、重力を感じさせない。軽やかさに、つい見惚れてしまう。
だから、出遅れた。
すぐに戻ってくるだろう、と待っていたのに、帰って来ない。もしかしたらフリスビーが見つからないんだろうか。フラガはディアッカが走り去った方角に歩き出した。
暫く歩いた先、草の上にオレンジ色の塊を見つけた。サウザーのフリスビーだ。
しかしディアッカがいない。
どこに行った?
嫌な予感に、背筋に冷や汗が流れる。フラガはフリスビーを抱えて、徐々に足取りを早め、やがて走り出した。走りながらも周囲に注意を飛ばし、ディアッカの気配を探る。
しばらく行くと、丘の下で四、五人の集団が揉めているのが見えた。近付いてみると、いた。ディアッカだ。ハイカーらしい男達に腕を引かれ、必死で抗っている。
「ディアッカ!」
「ムウー!」
駆け寄ってくるフラガに、ディアッカが安堵の表情を見せる。怪我を負っている様子が無いことに、ほっと溜息をつき、フラガはディアッカの腕を引いている男に向き直った。
「すいません。その子は僕の連れなんです。手を放してもらえますか?」
「へぇ。んじゃ、お前もコーディネイターなの? だとしたら放す訳には行かないなぁ。お前も一緒に捕まえてやるよ。トレッキングに来たつもりだったのに、まさか化け物狩りが出来るとはねぇ。こりゃツイてるわ」
捕まえる、と言った。ディアッカがコーディネイターだとわかった上で連れて行こうとしているのだ。
「……あんたたち、ブルー・コスモスなのか?」
怒気を立ち上らせるフラガに嘲笑で返し、男たちはケラケラと笑い出した。わざとらしさが癇に障る。
「んなカッコワルイ集団と一緒にしないでよ。俺たちは単なるハイカーで、ただちょっとばかりハンティングも好きなだけ。最近は自然保護だとか禁猟だとか規制が厳しくてねぇ。ハンターには哀しい時代なのよ。でもコーディネイターをハンティングする分には、自然保護にも禁猟にも引っかからないっしょ」
「ハンティングって……殺人じゃないか!」
「そりゃ人間を殺したらそうなるけどさぁ、バケモンの場合は殺人にはならんでしょ。遺伝子いじくったら、もうそれは人間じゃないし」
男たちのセリフに怒りで目がくらむ。腐った性根に反吐が出る。
「ディアッカ……走れっ!」
ディアッカを捕まえていた男の顔面ど真ん中に、フラガは拳を叩き付けた。殴られた鼻を押さえようと、男が手を緩めた隙にディアッカが逃げ出す。フラガはその後を追い、追いついた所でディアッカを脇に抱え上げ、さっき来た道を逆に走った。
背後から男たちの怒声が聞こえる。声の大きさで距離を測り、更に走る速度を上げる。茂みを抜け、丘を登り、息が上がる。体力に自信はあった筈なのに、今にも膝が崩れそうになる。荒い呼吸に肺が悲鳴を上げ始めた頃、ようやくバギーが見えてきた。
急いでバギーに乗り込みエンジンをかける。アクセルを踏み込み、一気に加速する。
サイドミラーに映る男たちの姿が段々小さくなり、その姿が完全に消えたのを見届けて、フラガは一旦バギーを藪の中に乗り入れ、エンジンを切った。
「ディアッカ……大丈夫? 怪我はない?」
フラガの声にぴくりと背を震わせ、ディアッカは肯いた。小さな背中に、恐怖と混乱が浮かんでいる。
「ディアッカ……」
「僕は、お化けじゃないよね……お化けじゃ、ないよ、ね……」
ディアッカはフラガの顔を覗きこみ、両手でフラガのシャツの胸元を掴んだ。両瞳は潤み、涙が一粒ぽろりと零れた。
自分達コーディネイターを人間とすら認めないナチュラルがいること。そんなナチュラルから嫌悪と侮蔑をぶつけられたことで、ディアッカの心が悲鳴を上げている。
「僕、お化けじゃないよね…… 違うよね」
「ディアッカは人間だよ。コーディネイターもナチュラルも、おんなじ人間なんだ。化け物なんかじゃない」
陳腐なセリフしか吐けない自分をもどかしいと思う。でも今は他に言葉が見つからない。
フラガは震えるディアッカの背中を抱き締め、何度も頭を撫でた。少し高い体温が冷え切って、冷たい汗が肌を濡らしていた。
ディアッカが落ち着くのを待って、フラガはバギーを駆りタッドの元へと路を急いだ。
エントランスにバギーを横付け、館の中へと駆け込む。書斎で読書をしていたタッドを捕まえ、事の次第を伝えた。
「タチの悪いナチュラルに見つかってしまったか…… そろそろここも安全ではなくなった、ということなのかな」
寂しそうに呟くと、タッドは書斎を後にして自室へと向かった。ばたばたと慌しい音がして、やがて大きなスーツケースを引き摺ってタッドが戻ってきた。
「私たちは今からプラントに戻る。大丈夫だとは思うけど、そのナチュラルがここを見つけて襲ってくるとも限らないから」
タッドはフラガの前に立つと、柔らかくフラガを抱き締めた。
「本当はもっとゆっくりお別れの挨拶をしたいのだけど、こういう状況だから……きみに会えてよかった。プラントと地球の関係が良くなったら、もう一度会えると信じているよ」
「はい……僕も、お二人に会えて楽しかったです」
また会える可能性はとても低いけれど、会えると信じたかった。
フラガは心細げに立ち竦むディアッカの前へひざまずくと、その頬に指を伸ばした。
「ディアッカ。元気でね。またね」
「……ムウは一緒に行かないの? 一緒にプラントのおうちへ帰ろう?」
ディアッカが、まだ涙の跡が残る瞳で見上げてくる。離れたくない、と思っているのが自分だけでなかったことが嬉しかった。
でも、ここでこの親子と一緒にプラントへ行くことができない、と判断できるくらいには、悲しいことにフラガは大人になっていた。
「プラントには行けないけど、また会えるから。待ってて」
フラガはディアッカの頬に小さく唇を落すと、くしゃりとその頭を撫でた。精一杯の笑みをディアッカに向け、フラガは立ち上がった。
「僕が先にここを出ます。お二人の行き先を知らない方が、もし何かあっても僕のせいで危険な目に会わせるようなことにはならないと思いますし」
「……気を使わせてしまって、すまない。気をつけて」
「お二人が無事にプラントへ着くことを祈っています」
差し出された手を固く握り、ありったけの思いを込めて握手を交わした。
「じゃあ」
フラガは二人に背を向け、歩き出した。背後から自分を呼ぶディアッカの涙交じりの声が聞こえる。
その声に耳を塞ぎ、ディアッカは歩き続けた。
風だけがフラガの背を押していた。
「今日もおつかれさんでした」
「よ、マードック軍曹。今日も盛大にぶっ壊しちゃった。修理よろしくね」
出迎えのマードックに指先だけの敬礼を返し、フラガは半壊したスカイグラスパーのコックピットから飛び降りた。
戦闘から戻る度に、生き延びた幸運を実感する。特に今日はクルーゼ隊のモビルスールが常よりも気迫に満ちた猛攻を仕掛けてきたせいで、さすがのフラガも何度か冷やりとさせられた。
何人が生き延びたのか。いつものクセで格納庫を見回していると、いつもはストライクが格納されているはずの場所に、見慣れないモビルスーツが収容されていることに気付いた。
「ねぇ、あれ、何?」
肩越しに親指でモビルスーツを指し示す。
「あー、アレですか。バスターっすよ。あんたも何度かやりあってんじゃないんっすか?」
「そういや見覚えあるわ。んで、何でアレがここにあるの?」
「あんたが落したんっすよ。駆動系がやられて動けなくなったみたいで、パイロットもろとも投降してきやがった」
被弾して海岸線に落ちる前、フラガは交錯するバスターに何発か砲弾を浴びせていた。それが命中していた、ということか。
しかし最前線でいつもアークエンジェルを追い掛け回して、自分達の立場くらいわかっているだろうに。その天敵に投降してくるなんて、勝算があると踏んだ策士か、もしくは何も考えてないバカか。どっちにしても一筋縄では行く相手ではなさそうだ。
「ま、俺には関係ないし。暫く休憩してっから何かあったら呼んで。じゃあねぇ〜」
ひらひらと手を振り、パイロットルームへと向かった。
とりあえず疲れた。パイロットスーツから制服に着替え、自室に戻ろうと廊下を歩いていると、艦内放送がフラガの名前を繰り返し呼んでいることに気が付いた。
疲れているし、聞こえなかったフリをして逃げてしまおうかとも思ったけれど、自分の立場を考えるとそれはあんまり上手い方法ではなさそうだ。とりあえず行くだけ行くか、とフラガは疲れた足を引き摺ってブリッジに向かった。
「尋問? 俺が? 何で? 俺、疲れてんだけど……」
ブリッジで艦長と副艦長から命じられたのは、捕虜の尋問。さっき格納庫で見たバスターのパイロットが相手らしい。
やっぱり聞こえないフリをしておけば良かった。
「俺って、尋問とかそういう繊細な作業には向いてないんだよねぇ。ノイマンかトノムラがやった方がいいんじゃない?」
「それは分かっていますが、相手は子供とはいえコーディネイターです。誰が尋問しても良い、というものではないでしょう。注意しすぎてもしすぎることは無いと思います」
生真面目な副艦長が、咎めるように正論を説いてくる。いや、それよりも。
「今、子供って言った? バスターのパイロットって子供なの?」
「身に着けていたザフトの識別タグによると、まだ十七歳のようですね。名前はディアッカ・エルスマン。プラントの評議員にタッド・エルスマンという人物がいます。その関係者かもしれません」
エルスマン。タッド。そして……ディアッカ。もしかして、と思いながらも、まさか、という気持ちが先に立つ。ざぁっと音を立てて血の気が引いて行く。
「わかった、やるよ……でも、尋問は俺一人でいい」
「しかし一人では危険です。せめて補佐役を」
「一人でいい……尋問中は邪魔をしないでくれ……頼む」
識別タグを握り締め、フラガは捕虜が収容されている部屋へと向かった。
早く確かめたいような、知りたくないような。正反対の感情がせめぎ合う。
ありふれた名前ではない。あのディアッカである可能性は高いだろう。しかし、あの小さな優しい子供が戦争に係り、しかもザフトのエースパイロットになっているなんて。やはりありえない。彼は、彼らは、あんなにも平和な生活を愛していたではないか。
あの夏、エルスマン親子と過ごした数日間は、少年時代を最後を飾る大切な記憶だ。
ハイスクールを卒業した後、フラガが士官学校へ進んだのも、彼らと暮らしたあの数日が大きく影響している。悪化する一途のプラントとの関係の中で、軍部が暴発しないための抑止力になりたい、と考えたからだ。
しかし、士官学校で受けた適正検査は、フラガが戦略スタッフよりもパイロットの適正が高いことを示してしまい、フラガの計画は修正を余儀なくされた。しかし前線に居れば、無駄な戦いを減らすこともできるだろうと考えた。
発言力を増すために、戦功を挙げ、エースパイロットとなるための努力は惜しまなかったが、その過程で何人ものコーディネイターを死に追いやったのは紛れも無い事実だ。その矛盾はいつもフラガの中で重く澱んでいた。
指示された部屋の前に立ち、フラガは何度も逡巡し、よしと声を出して怯む自分を奮い立たせた。
電子ロックにパスワードを入力し、ドアを開ける。軽い空気音を立ててドアがスライドした。暗い通路に、部屋の明かりが伸びる。
狭い部屋の中では、ドアに背を向け一人の少年が座っていた。
「きみが、ディアッカ・エルスマン?」
少年がゆっくりと振り返る。
金の髪と褐色の肌。印象的な紫の瞳。似ている。
だが、いつもきらきらと楽し気に輝いていた筈の瞳は、どこか斜に構えたような皮肉な光りを浮かべている。無邪気な子供ではなく、歴戦の戦士だけが持つ、荒んだ眼差しだ。
やはり別人なのかもしれない。
フラガはデスクの反対側に腰を下ろし、少年に話し掛けた。
「ザフトのエースが投降したって艦内じゃ大騒ぎになってるよ。ザフトも大変なことになってんじゃないの?」
「俺はナチュラルなんかと会話したくない。ウゼェよ」
ふんっと鼻で哂い、少年が挑発的な視線を向けてきた。紫瞳は、ぎらぎらと怒りを滾らせ、この投降が決して少年の本意ではなかったことを伝えてくる。負けん気は強いらしい。
「俺はムウ・ラ・フラガ。階級は少佐。きみに危害を加えるつもりはないけれど、手順として聞くことは聞かなきゃいけないから。暫くおしゃべりに付き合ってくれないかな」
「ムウ・ラ・フラガ……?」
少年が訝しげに眉根を寄せ、口を開いた。
「なぁに、俺の名前に聞き覚えでもある?」
どきどきと心臓が早鐘を打つ。掌にじっとりと汗が滲み、唇が震えてきた。
「あんた、ムウ・ラ・フラガ?」
「あぁ……そうだ」
少年の表情から嘲笑が消え、フラガの顔を食い入るように見つめてくる。いかめしい兵士としての仮面がぽろぽろとこそげ落ち、中から一人の子供の顔が現れてきた。小さな、小さなディアッカの顔。
「ディアッカ、なのか?」
デスク越しに手を伸ばし、指先で少年の頬に触れた。びくりと身体を強張らせたものの、少年はフラガが触れるままにさせている。
「ディアッカ、なんだろう?」
「ムウ……?」
少年の震える声に、感慨が募る。
「そうだ……」
指先を頬に滑らせ、両手で頬を包み込んだ。伝わる体温と柔らかな感触は、あの時のままで。
「ニュースで『エンデュミオンの鷹』を見て、あんたが連合軍にいるってわかって……ザフトに入れば、戦場で会えるかもしれないって思って……だから、だから、俺」
「俺に会うために、ザフトに入ったのか……?」
ディアッカが何度も、何度も頷いた。両瞳からぽろぽろと涙が零れ、フラガの両手を濡らす。
嗚咽混じりに紡がれる言葉は、たどたどしい分、真っ直ぐにディアッカの感情をフラガに伝えてきた。
「会いに行くって言ったのに。約束、守れなかった」
言葉を震わせるフラガにディアッカは大きく頭を振り、フラガの手に自分の手を重ねた。
「でも、会えたから」
泣きながら微笑むディアッカに、胸に熱いモノが込み上げてきた。
あの小さかったディアッカが、自分に会うためだけに戦場まで追いかけてきた。平和な生活を愛し、争いが嫌いで、優しかった小さな子供が。
フラガは席を立ち、二人の間を阻んでいたデスクを足で蹴って退けた。
「会いたかったよ」
ありったけの思いを込めて、フラガはディアッカを抱き締めた。一瞬戸惑い、渾身の力で背中を掻き抱いた。
腕の中のディアッカは、もうあの小さなディアッカではなかったけれど、それでも間違いなくディアッカで。
「ムウ……」
小さな呟きは複雑な感情に彩られ、どんな言葉よりも真っ直ぐにフラガの心に響いた。
ディアッカの金糸が、頬に触れる。
あの夏の日にフラガを通り過ぎた風が、帰ってきた。
END
※2004年11月発行の「Shangri-La」を加筆修正しました。