ゆく水に かずかくよりも はかなきは
おもはぬ人を
思ふなりけり
「取引、しないか?」
薄暗い拘禁室に閉じ込められた俺の前に、薄青の瞳に鬱々とした光を湛えてあの男はやってきた。
無理矢理取り繕った表情は、感情が押し潰されたような強張った笑顔が貼り付いている。
その痛ましさに、少しだけ同情してしまったのかもしれない。
いつもの自分だったら、きっと酷い言葉でその申し出を撥ね付けた筈なのに、考える前に先を続けるよう促していた。
自分から申し出てきたクセに、俺が少しでも受け入れる姿勢を見せるとは思っていなかったのか。あの男は悲しげに視線を揺らめかせ躊躇いがちに説明を始めた。
「俺がお前に提供するのは、監視や警備レベルは同等だが、ここよりは快適な個室。食料や衣料、その他にも必要なものがあれば、手に入る限りは提供する」
「へぇ。悪くないじゃない。んで、俺は?俺はあんたに何を渡せばいいの?言っとくけど、ザフトの軍事情報とかPLANTの機密情報だったら、お断りだから」
「そんなものは、いらない…」
「んじゃ、何さ?」
返事を待っても沈黙が続く。訝しさに男の様子を伺ってみると、関節が白くなるほどきつく拳を握り締めていた。言い淀んでいるだけなのか、それとも未だ葛藤の渦中にあるのか、何度も口を開きかけては止める、を繰り返している。
何となく男が何を望んでいるのか、わかったような気がした。
「俺の身体?」
捕虜相手に律儀なことだ、と思う。男の纏っている制服の階級章は士官クラス以上のもので、男の手にかかれば俺の生殺与奪など書類一枚で決めることができるだろう。やろうと思えば、俺の意思など関係なく男の望むとおりにできるのだろうに、それでもわざわざ『取引』などと申し出てくるあたり、本当は生真面目で誠実な人間なのだろうな、と思った。
ふざけた口調で告げた言葉に、男はぎこちなく肯くと、噛み締めた歯を抉じ開けるように小さく呟いた。
「すまん…」
瞳を曇らせていた陰鬱な色が更に暗さを増しているのは、それが男の罪悪感だからなのだろうか。求めてきたのは男の方なのに、まるで自分が無茶な要求をされているかのように、途方に暮れたような表情で佇んでいる。それが何だか迷子の子供のようで。可哀想で。
下賎と言ってもいい程に馬鹿げた取引を、俺は結構すんなりと受け入れていた。
「いいよ」
「……すまん…」
「アンタ、今から時間あるの? とりあえず、やる?」
無言で鉄格子の扉を開けて入ってきたのを肯定の意味と捉えて、俺は自分から服を脱いだ。全て脱ぎ去って、固いベッドの上に横たわると、ぎしりとベッドを軋ませて男が圧し掛かってきた。間近で見る男の顔には未だ戸惑いの色が浮かんでいる。
無体な要求をされているのは俺の方なのに、何故こんなに辛そうな表情をするのだろうか。少しでも寛いでほしくて、俺は柔らかな笑顔を浮かべて男の頬に手を伸ばした。少し伸びた固い無精髭が指先に触れた。
「頼みがある」
「何?」
「目を閉じないでほしい……俺の…腕の中にいる間だけでいいから」
「ヘンなの。まぁ、いいけどね。それくらい」
「すまん…」
何度も謝罪の言葉を繰り返す男が可愛くて、俺はまっすぐに男の瞳を見据えたまま、小さく唇を開き近付いてくる男の唇を受け止めた。
それから幾度もあの男と同じ時間を過ごした。
アイツは確かに俺の身体を抱いていたけれど、本当のところは俺がアイツを抱いていたのだと思う。アイツはいつも悲しげな表情でやってきて俺を抱くけれど、その後は子供のように俺の胸に顔を埋めて眠りに落ちて行ったから。
その度に俺はいつもアイツの頭を両腕で抱きかかえて眠った。頬に触れる男の蜂蜜色の髪の密かな感触は、小さな灯となって俺の中を少しずつ広がっていて。
それが俺の中をいっぱいに満たした頃には、この関係はずっと続くものだと思うようになっていた。
本当に、そう、思っていた。
5月8日。
オペレーション・スピット・ブレイク。
アラスカに、PLANTから一機のMSが表れ、
そのMSから、キラ・ヤマトが降り立ち、
キラ・ヤマトが俺と同じ紫瞳を持っていることに気付くまでは。
体つきも、肌の色も、髪の色も違うのに、瞳だけが同じ。
それに気が付いた時、脳裏にアイツの言葉が蘇った。抱かれる都度、耳元で囁かれたアノ言葉。
『目を開けて…俺を、見て』
「あぁ……そういうことね…」
悲しくはなかったけれど、満たされていた何かが少しずつ、零れ落ちて。
『ゆく水に かずかくよりも はかなきは おもはぬ人を 思ふなりけり』*1
空っぽになるはずなのに、空しさが積もっていく。
END
*1 「古今和歌集」巻第十一(恋歌一)。「伊勢物語」第五十段。
口語訳:川の流れに数を書くよりも虚しいのは、自分に心が無い人を想い続けることなのです
みゃおさんからイメージイラストを頂きました。画像サイズが大き目なのでコチラからどうぞ。別ウィンドが開きます。