「100title」 /「嗚呼-argh」



窓から一瞬、覗かせたその表情が、雨に濡れる紫陽花のように見えたんだ。



 花



雨宿りをするように逃げ込んだ部屋の床の上、
投げ与えられたタオルで髪や肩を拭きながら様子を伺うと、机に向かい直し、書き物をしている一護の背は、少し丸まっていた。

─── なんだ、まるで無関心じゃねえか。

俺はため息を殺した。
締め切った部屋の中に、一段と激しくなった雨音が響きだしていた。
風も強くなったのだろう。
時折、窓一面に叩きつけてくる雨粒に、硝子の向こうが歪んで見える。

─── まあ、酷でェ雨だしな。

俺は改めて、一護の背中を見遣った。
何も話してはくれないし、もちろん訊く訳もないが、雨の日の一護は少し、落ちる。
最初の頃こそ、無駄な笑顔で神経とがらせてたが、この頃じゃそういうのも飽きたんだろう。
思いっきり無愛想になる。
そして必要以上に依怙地になる。
ならばそっと一人にしておいてやればいいのかとも思うのだけど。

考えるのもため息を堪えるのも面倒くさくなって、
「一護」
と声を掛けると、ゆっくりと振り返った顔は酷く空虚だった。
少し首を傾げた風情は、降り続く梅雨に打たれた木々の枝のようで、それがひどく寂しげに見えて、俺はただじっと見つめた。
一護は、何も言わない俺に苛立ったのか、眉を深く寄せた。

床に作った水溜りを後にして、体半分だけ半端に此方を向いた一護の両肩を掴んだ。
一護とその名を呼んでみたが、その焦点は俺に合わない。
あろうことか眼を逸らしさえする。
頭の中で何かが弾けた。
そして気がついた時には、口付けを仕掛けてた。




「…っ?!」

頤を掴み、無理やりこちらを向かせる。
そのまま両掌で頬を包むようにして上向かせる。
困惑気味の瞳にかち合う。
構うものかと、そのまま唇を落とすと、濡れて重くなった俺の髪も一護の頬にひたりと落ちて張り付く。

─── まるで血膜のようだな。

赤く染まった小さな世界の中で、一護に向かって雨粒を滴らせ、大きく見開かれた目を凝視したまま、一護の呼吸を奪う。
ぬらりと唇のすべりが良くなる。
雨の匂いがする。

「…んっ」

何が起こってるのかをやっと把握した一護は腕を突っ張って逃れようとしたが、そんな無理な姿勢で俺を押し返せるわけもない。
椅子の上の一護に圧し掛かかり、余裕で口付けを深めた。

一護が背にした机の上の本や筆記具が、暴れる一護の手に当たってバラバラと音を立てて落ちていく。
無理やり上を向かせたせいで反り返った背を片腕で抱き込み、もう一方の手で上向かせた顔を支え、
喉の奥に引いて逃げようとする舌をゆるりと絡み取り、漏れ出した息ごと吸い上げる。
そして舐め尽くす。



「…ッ」

乱れ始めた呼吸が、雨音に重なった。
酷く甘い。
追い詰めるこの行為自体に酔ってるのかもしれないという自覚はあるが、それを差し引いても、微かに漏れる喘ぎも、半端な抵抗も、何もかもが甘く誘ってきているように思えた。

─── 以前からこんなだったか?

薄目を開けてみると、一護の眉間の皺は一層、深くなっていた。
押し戻そうとする腕の力も抜けていない。
何とか逃れようと模索してるのは確かで、
誘われてるなどと思ったのはやはり俺の勘違いだったようだ。
乱暴に扱ってやろうかなどという不埒な考えがチラチラと脳裏を横切ってるというのに、腰を掴む指をキツくしただけで一護の身体が派手に跳ねたりするから始末におえない。



─── クソッタレ…。にしても、なんだこの硬さは。久しぶりだから緊張してるのか?

いきなり仕掛けた自分の身勝手さは棚に置いて、いつまでも解れない一護の頑なさに、苛立ちが湧き上がってきたが、やはり年上の責任というものがある。
何とか自分を抑え、きつく抱きこんでいた腕を緩めて、背筋を掌でゆっくりと撫でてやる。
もう一方の手で、すっかり湿ってしまった髪を梳いてみる。
抗い続ける舌を解放し、唇を唇でなぞる程度に押さえる。
そして、雨ではないものですっかり濡れてしまった一護の口の端を舐め取ってやる。

─── 少しは落ち着いたんだろうか。

トンと胸を軽く拳で叩かれて唇を離すと、眼が合った。
てっきり眼を伏せていると思ってたから、思いがけず強い瞳で睨みつけられて一瞬、怯んだ。
すると一護は、隙を突いて体を強く捩り、視線ごと逃れた。

少しだけ開いてしまった距離の向こうで、ため息のような音が一護の唇から漏れる。
続く息も荒い。
口元をひどくを乱暴に拭ってはいるが、心なしか顔も首筋も赤い。
ちらりと投げて寄越された視線が理不尽に不満げで、かえって情欲をそそる。

─── …ヤベェ。

その色に気付いてしまえば、自分を押さえきることなど到底できるわけもなく、気がついた時には再び強く引き寄せていた。


頬から耳、こめかみにかけて指を走らせつつ、露になった耳の後ろに唇を落とすと、一護の匂いがする。
鼻先や頬を擦り付けてみると、くすぐったそうに首を竦める。
まだ柔らかさを残す肌も、ぶっきら棒に押し返してくる。
背筋から腰を掌で探ってさらに追い詰め、齧り付きたい衝動を必死で押さえながら、唇でゆっくりと首筋から肩へと辿り、痕がつかないようにと柔らかく吸い上げる。
舌を走らせ、ぴんと張ったその皮膚の下で波打つ脈を探る。
遮ろうと咄嗟に伸ばされた腕は、手首を軽く甘噛みして防ぎ、掌から指先まで丁寧に舐めて牽制する。
そして怯んだところを根元まで咥えて吸い上げる。
目があった途端、一護は視線をそらしたから、早く落ちろと逸る心を宥めつつ、瞼を伏せて指に集中しなおす。



どれぐらいそうやって指だけを愛撫していたことか。
素直に応えて出していた自分の身体に屈したのか、突然、一護が身体の力を抜いた。
こつんと額が俺の肩に擦りつけられた。

─── やっと落ちたか。

もう少し続けてもよかったのだけどと少し惜しく思いつつも、くたりと腕の中に収まってきた一護を、そっとそっと抱きしめてみた。
すっかり湿ってしまった身体から、雨の混じった一護の匂いが立ち昇る。
この部屋を訪ねる途中に目にした木々の姿が脳裏を横切る。

地面に這いつくばって生きていた頃には知らなかったが、この時期の花や木々は、降り続く雨を受け流すようにしなだれて地面を向く。
人も例外じゃない。
俯き加減になる。
今日も電信柱の天辺から見下ろすと、道行く人々の横顔は、傘の影で項垂れているように見えた。
華やかな色合の傘の群れは、まるで川面を流れる花々のようだというのに。
何度も目にした風景だったが、何故か今日に限って息苦しく感じた。
一護に会いに行く途中だったからかもしれない。
何もしてやれないあの憂鬱気な横顔が待っていると、俺まで気落ちしてたからかもしれない。
情けないにも程がある。

電柱の上で空を仰ぐと、現世の雨が降り注いできた。
身体の芯まで冷やしてくれるようで、かえってスッキリする。
少しだけ気を取り直し、電柱を蹴って一護の家へとと足を向けかけた時、遠く足元に咲く紫陽花の花が目に入った。
降りしきる雨と暗い空に向かって、仰ぐように咲き誇っていた
奇麗だった。
そして、その風情が少しだけ、一護を思い出させた。
窓の向こうの雨空を睨みつけたり、瞼を伏せてしまったりしながらも、無理やり笑顔を見せていた頃の一護の表情を。



不意に、今は腕の中にいるこの少年がとても遠くに思えた。

─── 一護…。

今更だが、俺は一護のことを何も知らない。
無理やり笑わなくなったことが素の部分を見せてくれるようになったことと同意だなんて、唯の都合がいい思い込みだったのかもしれない。
結局、今も俺のことなんか関係無しに、雨のことでも考えてるのかもしれない。

居ても立っても居られず、緩んでいた腕を外してみたが、一護は俯いたままだった。
顔が見えない。

─── もしかして酷く嫌な思いをしてるんじゃないだろうか。
こんな雨の日に、こんな無神経なこと。

俺はやっと正気に戻った。

「一護…?」

一護の頬に掌を当ててみると、うっすらと湿っているようだった。
雨粒のせいだろうとは思ったが、頭からすっと血が引いた。
頼む泣かないでいてくれとあらぬ願いを込めて、一護の顔をそっと上向かせてみた。
すると、思いがけない強い瞳にかち合った。
泣いているどころか、むしろ睨みつけてきている。
それも思いっきり。

「…?」

これは何だ?
不機嫌というわけでもないみたいだし、怒っているようにも見えない。
むしろ眼が活き活きと輝いてる。
何か知らんがやる気になってる。
だが一体、何を…?

「い…ちご…?」

返事もない。
それどころか腕組みを解いて、距離を取ってきた。
拳を軽く握り、伺うように投げられた視線は、明らかに臨戦態勢に入ったことを示していた。
俺も思わず構えた。
売られた喧嘩は買う。
反射みたいなもんだ。
と同時に匙を投げた。
分からん。コイツだけはさっぱり分からん。
なぜあの接吻の後に、こんな気合が入った喧嘩腰になるのか。
しかもテメエの苦手な雨の日だぞ?
いくら考えても見当がつかない。

─── …仕様がねえ。少し様子を見るか。

半ば諦め、半ば腹を据えた俺の脳裏を再び、あの紫陽花の姿が横切った。
あの雨の中で、一護は一護だから、雨に負けまいと天を睨みつけて咲き誇るのだろうと思った。
けれどいつか、意識せずに、自然に雨に項垂れることができるようになったらいいとも思ったのだ。
そしてその時、側に居てやれるのが自分だったらいいとも。
けれどそれはきっとずっとずっと先のことなんだろう。
そしてその時には、こんな愚にもつかないことを一瞬でも考えてしまったことを、俺自身でさえ忘れてしまってるんだろう。

俺は、ため息をかみ殺した。
そして意気揚々と構えを固めてくる一護の攻撃に備えた。





 恋する阿散井氏は、にわかロマンチストだといい。ヘタレ万歳。
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