鴉の理 13
 



遠い記憶の彼方から一護が我に返ると、
恋次の咆哮はいつの間にか止み、呻き声へと変わっていた。
代わりに、ガァァ、ガァァと喚き続ける鴉の声が土壁に反射して、洞中を満たしている。
一護の膝元、頭を抱えて地面にうずくまる恋次の背に流れるもつれ乱れた髪は乾ききって、
かつての艶やかさを欠片も残していない。


遥か昔、僅かな時間の逢瀬でも、忍んで睦ぶときにでも、せがんで髪を下ろさせていた。
こんな気味悪い色の髪のどこがいいんだと恋次は呆れていたが、
一護は飽きもせずに髪を梳き、指の隙間から零れ落ちる様を眺めては口付けた。
その時そのときで色を変える恋次の髪を、夕焼けみたいだとか爪紅のようだとか、
目にしたさまざまな美しいものに例えては、照れたり不貞腐れたりする恋次の反応を愉しんだ。
恋次のほうだって満更でもなかったと思う。
いつまでてめえは餓鬼みてえに夢見てやがると揶揄し返す視線も柔らかかったし、
閨事の後、一護がしていたように髪を梳き返してみる恋次の横顔は満ち足りているように見えた。

だがもうあの時は戻ってこない。
あの頃の恋次もいない。
一護自身も既に失われている。
今の一護は、在り方こそは違ったが、恋次と同様、嘗て光り輝いた命が形作った影に過ぎなかった。
人としての命も在り方も捨てた二人の邂逅。
つまりそれが全てだった。
一護は恋次に手を伸ばした。
その指には遠い昔、死の間際、
梳いてやろうとして引き抜いてしまった恋次の髪が数本、絡みついたままだった。



極楽だの地獄だの、信じる気性でもなかった一護は、
死後はただ、消え去るだけだろうと思っていた。
だが気がつくと、果てしない青空の元、白い壁だけの世界に、一護は独り立っていた。
そこがどこだか一護は知らない。
人一人、獣一匹いない世界。
暑くもなく寒くもない。
風も吹かず、雲が流れるだけ。
声を出しても木霊さえせず、白い壁が光に明暗を分けるだけだった。
酷く孤独だとは思った。
しかし罰と呼ぶには、軽すぎると思った。
もっと決定的な何かが欲しかった。
だが、何も存在しない絶対的な空虚というものは、それだけで酷く重く、一護は押しつぶされそうになった。
その苦しさに、やはりこれは地獄というものなのだろうと思うようになり、なぜか酷く満たされた。

孤独の中で、記憶は風化していった。
楽しかった頃の思い出は哀しみとなって雨と降り注ぎ、
ぬくもりに満ちた記憶は冷たく世界を凍てつかせ、胸の奥には黒く硬い何かが押し固められた。
そんな時、指に絡みついたままの紅を見ると、なぜか独りではないようで、ほっとした。
その彩だけが、無機質なその世界で不思議に息づいてるように思えたからだ。
いつしか指に巻きつく紅い糸の意味も忘れてしまったが、
その紅を目にするたびに無性に胸が痛むようになった。
ギリギリと締め付けられ、痛くて、哀しくて、だから蒼い空を見上げては心を削った。
そのうち、自分という形があることさえ忘れ去っていた。
白く硬く何もない空洞で、存在するためだけに存在し続けていた。
胸の奥の押し固まったしこりはいつしか零れ落ち、そこには暗い孔が穿たれていた。



今さら何故、消えてしまったはずの自我が古い記憶を伴って覚醒したのか、一護自身は分からないでいた。
突然、海の底から浮き上がる泡のように意識を取り戻したのだ。
もしかしてこの髪が呼んだのかと、一護は指に絡まったままの恋次の紅い髪を見た。

消えてしまうことも敵わず、虜囚のようにあの空洞に居続けたのは、
指に絡まる紅が、永劫に一護を繋ぎとめていたからだ。
けれどそれは 一護自身も望んでいたことなのだろう。
孤独に苛まれつつ記憶は風化し、その紅の意味を忘れてからも、決して解くことはなかった。
剥き出しの魂が抜け殻と化して尚、
頑なにその細く頼りない紅を護り続けたのは、
いつか巡りあうのだと、祈りに似た意思を込めて待っていたからかもしれない。
ただひたすら、いつ訪れると知れない邂逅のそのときを。



覚醒時、曖昧な存在のまま、中空から目にしたのは、人骨と思しき白い骨が山積する暗い洞。
そして異形と化した嘗ての想い人と、その闇に侵されて死に行く少年の姿だった。
恋次と叫んだその声は届かなかった。
止めようとした腕も、霞のように空しく恋次の身体を通り抜けた。
鴉だけが一護の存在を認め、嘴の奥に赤黒い内腑を覗かせて、ガァァガァァと繰り返し威嚇し続けたのだ。
そして為すすべもなく少年は恋次の手にかかってその魂を失い、力を得た恋次は外へ出ようとした。
目的はわからない。
だが、この恋次を外界へと出すことは憚られた。
だから、恋次を止めるのは自分しかいないと、一護は夢中で少年の骸へと滑り込んだ。
そして生の血肉を再び纏うことで恋次と対峙し、その末に理解できたのは、
暗く湿った孤独の中で抱え続けていた狂気が、恋次をこんな風にしてしまったのだということ。
元凶は一護自身。
罪を重ね続けたのは恋次。
責を取るためかどうかは知らぬが、僅かに与えられた仮の命と時間がこの手にある。
そのために延々とあの白く虚ろに乾いた煉獄に在り続けたのかもしれない。
これこそがあの時間と苦しみの意味かも知れない。
ならば、恋次をこの手で消すのみ。


一護は地面にうずくまり細かく震える恋次の背中をじっと見つめた。

「恋次・・・」

どんな時でも真っ直ぐに伸びていたのに。
広く逞しく、どんな苦境にいても決して折れることなどなかったのに。
悔やんでも悔やみきれない。
今更、購えるものではない。
代償と差し出すものもない。
ましてや救うこともできない。
今、ここで恋次の命を絶って楽にしてやることしかできない。

「恋次。ごめんな・・・」

だが同時に、恋次と共に在りたいとも思っていた。
狂っていても苦しんでいてももいい。
互いに 悠久の孤独を越え、やっと巡りあえたのだのだ。
今、ひと時だけでも。
心の底から願った。
けれど、だからこそ、殺すべきなのだ。
この執着が実体を持たないうちに。
一護が、一護としての意識がまだ保てているうちに。

「俺も一緒にいってやるから」

この手で今度こそ恋次の息の根を止め、楽にしてやるのだ。
驕りだろうと傲慢だろうとなんだろうと構わない。
この苦しみから恋次を救えるのなら、何でもする。
魂の奥底で慟哭しながら、恋次をこの世から消し去ろうと、一護は手を伸ばす。

チリリと黒く侵食された両眼が痛み、視界が霞んだ。





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