草原の椅子



あ、と宙に伸ばした手が空を掴んで目が覚めた。

どうしたんだと恋次が寝ぼけ眼を擦りながら訊いてきたから、犬を捕まえそこねたと答えた。
犬なんかいねーだろ、ボケてんじゃねーかと往なしてさっさとまた寝ようとするから、
そうじゃなくて夢の中の話だと教えてやる。
テメーはもう眠ってたのか、寝付くのも早いなとからかってくるから、
そんなのオマエも同罪だろと噛み付くと、一蓮托生ってヤツだなとあっさりかわされた。



まあ、聞けよ。
こんな夢を見たんだ。

だだっ広い草原に犬がいた。
たぶんドーベルマンとかの狩猟犬だと思う。
でも闇みたいに全身真っ黒なんだ。
ボロボロで傷だらけだけど、地平線まで続く曇天の下、遠くを見つめて尻尾をピンと立てて。
だから手当てしてやろうって近寄って行こうとしたんだけど、夢の中だからなのかな。
足が強張って動かなかったんだ。



恋次はうつ伏せで枕に半分顔を埋めたまま俺を見、薄く笑って言う。

いーじゃねーか。
犬には犬のやり方があるんだ。
テメーになんか構って欲しくはねーだろ。
つか狩猟犬ならテメーの方がヤバいだろ。

だから俺はムキになる。

分かってるよ。
でもさ、すげー寂しそうだったんだぜ?
元はすごくキレイな犬だと思うんだ。
でもたくさん怪我しててボロボロでさ、血塗れでさ。
広い広い草っ原でさ。
曇ってて暗いしさ。
たった一匹でさ、何してたんだろうって。

恋次が悪巧みをしてるガキみたいな表情になって、クソでもしてたんじゃねーか?と笑う。
あー、全くどうしてオマエはそう・・・、と思わず上半身を起して文句を言うと、
いいから寝ろよ、と恋次はうつ伏せのまま腕を伸ばして俺の肩を引き降ろした。
布団に半ば叩きつけられた俺は、ぐえ、と呻いた。
重石のように胸に置かれ、一向に離れようとしない太く重い腕。
その先に連なる長い指を弄りながら夢の話を続けた。



その猟犬の視線の先には、箱みたいな白い石造りの長椅子がぽつんとあったんだ。
背もたれとか角が崩れ落ちていて、遺跡みたいにひっそりと。
もちろんそんな椅子のことなんて誰も知らない、座る人も居ない。
うす曇りの灰色の世界。
ずっとずっと前に忘れられたままの石の長椅子。
椅子ももう椅子だったことなんか忘れてるに違いない。
だって椅子を見てくれる人も居ない。
自分が何なのか、どんな形なのか、果ては自分が存在することさえも忘れてしまってるんだ。

でも椅子は、猟犬、つまり自分を見てくれるもう一つの存在に気付いた。
そしてずっとずっとその椅子を見てた猟犬も、終に椅子の方に歩き出したんだ。

でも夢の中の俺は知ってる。
あれは猟犬にとって間違いの場所で、側に寄っちゃいけない。
だから教えてやりに行ったんだ。
だめだぜ。
そっちに行くなよ、捕らわれる前にこっちに来いよって。

でも俺が近づくと、猟犬は唸って毛を逆立てる。
来るな、と牙を剥き出して、眼をぎらつかせて唸り、威嚇してくる。
だから俺は近づけない。
手を伸ばせば届くのに、今なら間に合うのに、
猟犬が椅子に捕らわれて、椅子と一緒に時の波に飲まれて消えていくのを見てるしかない。
その無力さに耐えられなくって、噛み付かれるのを覚悟で手を伸ばしたら、そこで目が覚めたんだ。


ふーん、で、結局何の夢なんだ?と恋次が、俺に取られてた手を引き戻しながら訊いてじゅた。

さあ、俺もよくわかんねえ。何だろな? 恋次は何だと思う?
テメーの夢の話を俺に訊くなバカ。もういいから寝ろ。
でもすごくキレイな犬だったんだ。
わかったから寝ろっつってんだろ、バカ一護。頑張りすぎるからヘンな夢見るんだぞ。
・・・ちゃかすなよ。
ちゃかしてねえよ。意味を無理やり見つけようとすんなよ。犬は傷だらけで、椅子の上で野垂れ死ぬ。それでいいじゃねえか。
そうはいかねーだろ。助けてやんなきゃ。
いいんだよ別に。犬は犬の人生を生きるんだから、犬が選ぶんだ。
でもこの先ずっとたった一匹だぜ?
椅子があるだろ、椅子が。
でもそれじゃダメなんだ。椅子も犬も幸せになれないんだ。それにあの犬だけは放っておきたくないんだ、何でか。


恋次が肘を立てて、ゆっくりと上半身を起した。
月明かりを浴びて暗く光る紅髪が、剥き出しの肩から流れ落ち、墨が顕わになった。
紅い眼が髪の間に細く見え隠れする。
思わず一束を掴んでそっと口付けると、恋次は俺のその手の甲に唇をあてて、そっと髪から外した。

恋次が手を俺の首の後ろに入れて、体を近づけた。
こんなぶっとい腕枕、首が痛くなりそうと俺が文句を言うと、
まあガマンしろと恋次は笑ってそのまま抱きしめてくれた。
いつになく優しい仕草と、 直に触れる肌の温かさと、規則正しい拍動の奏でる原始のリズム。
とろりと眠りに誘われると、夢の続きが始まった。

だから俺は語る。
恋次は聞いてるのか聞いてないのか、うとうとと俺の髪を触り続けていた。



猟犬は俺の手が届く前に、長椅子に駆け寄った。
くんと鼻を鳴らして、体を椅子に擦りつける。
崩れ落ちる寸前の冷たい石造りの椅子だというのに、
この世の果てのように寂しい場所だというのに、
まるで陽だまりの猫のように、気持ち良さそうにくつろぐんだ。
あんな獰猛そうな猟犬がうっとりと眼を閉じて。
信じられねえだろ?
必死に叫ぶ俺の声なんか聞こえちゃいねえ。

永遠に続くかと思った薄暗い世界に、光が射した。
やっと雲が切れて、日の光が降りてきたんだ。
それが椅子と猟犬を照らした。
奇麗だった。
空は蒼く晴れ上がり、草原は光り輝いて風にざわめき、海みたいだった。
椅子は光を浴びて真白に輝いて、海を渡る船みたいに見えた。
海の幻想で溺れそうになった猟犬は、椅子に血塗れの足を掛けた。
でもそこには座るところはない。
覗き込むと、ぽっかりと暗い四角い穴。
せっかくの太陽の光も意味をなさないほどの深遠。


椅子じゃない。
匣だったんだ。

猟犬は少し躊躇った。
でも匣の中に入ってしまった。
もちろん俺は止めたかったんだけど、
犬が匣の中に入ることはずっと前から決められていた事で、
当たり前過ぎるぐらい当たり前のことで、自然の流れには逆らえない。
背もたれと思ってたものも実は蓋で、ぎぎぃと軋んでパタンと閉じた。

蓋が閉じる一瞬に俺を見た猟犬の濡れた眼は、赤銅色に燃えてた。
鈍く光を反射して、虹彩が紅く煌いた。
俺はその眼が欲しくてたまらなかった。
でも、蓋は閉じてしまった。



あれは椅子じゃなかった。
棺へと姿を変えた石の匣。
ずっとずっと空のまま、気が遠くなるほどの長い時間、中に収めるものを待っていた。

そして世界は閉じてしまった。
猟犬を飲み込んで、匣はとても幸せそうに見えた。
石のはずなのにおかしいよな。
でもその後はまたあの孤独だ。
猟犬を飲み込んで、匣はまた一人に戻ってしまった。

匣はまた、匣であることを忘れるまであそこに一人で居るんだろうか。
中に真っ黒な傷だらけの犬がいることなんか忘れてしまうんだろうか。
今度は蓋を開けてくれる誰かを待ち続けるんだろうか。
でもその前に消えてしまいそうだ。
風化して、中の犬と共に朽ち果てていく。
だって永遠の孤独には、石でも耐え切れない。
そうだろ?

そう言って恋次を見ると、もう眠りについていた。
穏やかな寝顔と規則正しい寝息。
髪をゆっくりと梳きながら、夢の中の風景に思いを馳せる。



あれは孤高の楽園。
完全に閉じた完璧な世界。
今は光に満ちているあの世界の果てで、匣は一人孤独に何を想っているんだろう。
匣の闇の中に眠る猟犬は、何の夢を見ているんだろう。

俺の腕の中には漆黒の魂。
寝顔はこの上なく静かだけど、その闇の奥に紅蓮の炎が揺れているのを俺は知っている。

一抹の不安が胸を掠めた。
もしかして俺は、この男をあの楽園から、運命から無理やり引き剥がしてしまったのだろうか。

でも、あれは永劫の楽園。
絶対の孤独に似すぎている。
だから俺は、間に合ってよかったんだと自分に言い聞かせ、恋次を抱きしめる。
そして、どうかよい夢を見ていますように、と閉じた瞼にそっと口付けを落とした。





2007.05.14  私的白恋/一恋感  イエモンの「楽園」をベースに <<back