Once Again
ぱたん、と後ろ手にドアを閉めると、馴染んだ景色が目の前に広がった。
自分の部屋なのに、たまらなく懐かしい、と思ってしまうのは長い夜の後だからだろうか。
時計を見遣れば、もう朝が近い。
─── やっと、帰ってきた。
一護は大きく息を吐いた。
失いかけていたもの、失ってしまったと思っていたもの、永遠に手が届かないと思っていたもの。
すべてではないけれど、一番大事なものはこの手に取り戻し、帰ってきた。
ドアに寄りかかったまま、自分の両手を見る。
そこには確かに霊圧の気配がある。
─── 力が…戻った。
そうだ。
この手は、刀を持つための手。
縋って助けを求め、無き濡れた頬を覆うための無力な手じゃない。
俺は─── 、俺は帰ってきたんだ。
「ハハ…、ハハハッ!」
乾いた笑いが漏れた。涙が零れそうだった。
取り戻してみて初めて、どれだけ力を欲していたのかを認めることができた。
その執着が尋常じゃなかったからこそ、無理して日常を演じ続けることができた。
絶望が深かった分、自分を見失い、周囲の気遣いにも気付かず、終にはうまく隠し切れていると思い込んでいた。
だからこそ見事に付けこまれたのだ。
愚かだった。
その愚かさのせいで、力を取り戻すどころか、大事な人々を失うところだった。
一護はドアにもたれかかったまま、大きく息を吐く。
そして呼吸を整える。
─── もう大丈夫。
このドアの向こう、同じ屋根の下。
妹達ももちろん父親も、同じ記憶を共有して眠りについている。
カーテンも引いていない窓の向こうには、まだ暗い空が広がっている。
その下には空座町の街並み。大事な友人たちも同じ過去を背負い、静かに眠っている。
当たり前だと思ってたことが、こんなに嬉しく思えるなんて。
それに、ほら。
意識を開けば、まるで漣のように霊圧が押し寄せてくる。
─── もう俺の世界は空っぽじゃない。
満たされている。感謝している。
だけど。
一護はもう一度、深く息を吐き、窓の外を睨みつけた。
心残りがあるのだ。
どうしても、あの男が足りない。
瞼の裏に、夜闇に輝く緋色の髪が甦る。
傲慢にさえ映るあの笑みも、それから耳を突いたあの声も、思い出すだけでゾクリと背筋に熱が走る。
─── 恋次…!
記憶の中の恋次と、一護の目の前に降り立った男は、同じだけどやはり違った。
見た目だけじゃない。声音とか雰囲気とか、どこか遠く感じた。
長い時間が経ってしまったのだと思った。
─── 諦めが悪りィなあ、俺…。
一護は眼を閉じ、苦笑する。
意識して自分を留めていないと、今にもあの赤を探しに外に飛び出していきそうだった。
ぼろぼろに疲れて指先まで痺れているというのに。
今にも膝から崩れ落ちそうだというのに。
「クソ…ッ」
一護は大きく頭を振ると、乱暴にベッドへ歩み寄り、うつぶせに体を投げ出した。
信じられないほど体が重かった。ちょうどいい、と眼を閉じると、暴力的な眠気が襲ってきた。
意識が曖昧になる。と同時に、今夜起きた出来事のすべてが鮮やかに脳裏に甦る。
一護を捉えた恋次の視線、投げかけてくる言葉、触れた手。
懐かしくて、恋しくて、胸が張り裂けそうだった。
当に終わった恋だと思っていたのに─── 。
分かっている。
力を失くしたあの時に多分、一護の時間は止まったのだ。
あの恋心も凍りついていただけ。
気持ちが消えたわけではなかった。だからこんなに鮮やかに甦る。
けれど今さら縋ってどうしようというのだ。
恋次の時間も過ぎてしまったのだ。当の昔に終わっているのだ。
なのに願わずにはいられない。
少しでも好きでいてくれるんだろうか。懐かしいと思ってくれているんだろうか。
今すぐ会いたい、確かめたい。
思い出してくれ、などとそんな無様、晒すわけにはいかないのに。
─── チクショウ…ッ!!
歯軋りが漏れたその時、ふわりと何かが頬に触れたような気がした。
重い瞼を必死で開けると、深紅の影がぼんやりと見えた気がした。
だけど眼が勝手に閉じてしまう。指一本動かせない。
急激に霊力を取り戻したせいで、身体は当の昔に限界を超えている。
だけど明日になったらこの気持ちが消えているかもしれない。諦めているかもしれない。
なら、今のうちに確かめておきたい。
─── せめて夢で逢えたら…。
一護は足掻く。だけどもう耐えられない。
ついに意識を手放そうとした瞬間、パシッと言う音と共に、軽い痛みが頬に走った。
驚いて目を開けると、天井近くから見下ろしてくる恋次の顔があった。
「…れ、恋次?!」
「寝てるフリしてんじゃねえぞ、オイ」
「な、なんでお前、ここに…!!」
慌てて腕を立てて体を起こすと、ベッドのすぐ脇に恋次が立っていた。
腰帯に指を掛け、轟然と見下ろしてきている。
「なんでもクソもそりゃーテメーに会いに来たに決まってんだろ」
「ク、クソ…って…!!」
当たり前のことのように言い切られ、呆然とする一護の横に、恋次はどすんと乱暴に腰を下ろした。
ベッドがギシリと軋む。
「オマエなあ、恋次…!!」
「……」
「…恋次?」
だが恋次は振り向かず、背を見せたまま、一護の机のほうを見やった。
ぐるりと部屋を見回し、最後に天井を見上げた。
身じろぎもしない。まるで一護など見えていないようだった。
その堂の入った姿に、一護の胸にあらぬ疑念が浮かぶ。
─── もしかして恋次。こうやって時々、ここに座ってたのかな。
だとしたら、霊的なものが一切見えなくなった自分は、どんな風にこの男の目に映っていたのだろう。
霊力と言う拠り所を失くし、それでも平常心を演じ続けていた自分は、滑稽に映っていなかっただろうか。
無様ではなかっただろうか。
いや、と一護は大きく頭を振った。
副隊長という立場では、そうそう現世に来れない事は聞いていた。
ならば霊力を失った一護のところに来れていたはずはない。
自分の未練がましさに反吐が出そうだ、と一護はベッドの上に胡坐をかいて座り直した。
その目前に広がるのは、夜闇にも鮮やか深紅の髪。
─── 綺麗だな…。
あの結び目を解いたら、どんな風に流れるのだろう。どんな顔をするんだろう。
触りたい、と思う。けれど手を伸ばす勇気は出ない。
肩が少し逞しくなった気がする。
しゃべり方もちょっとだけ落ち着いて、穏やかになった。
会わなかった二年近くの時間、どう変わったのだろう。
知りたい。けれど少し怖い。
だって恋次は、自分から会いに来たくせに、一護のほうなど見もしない。
もしかして何か大事な話があったんだろうか。
─── まさか、別れ話…、とか?
黒い不安が急速に胸に広がる。
けれど、と一護は、先走る自分自身に対し、苦笑を零した。
今の恋次と自分は、恋人同士でさえないのだ。
別れもヘッタクレもないのだから、安心して構わないのだ、その点では。
さらにくつりと嗤いを漏らすと、振り向いた恋次と視線がぶつかった。
恋次は軽く首を傾け、僅かに怯んだ一護と視線を合わせてきた。
「…で。どうなんだ?」
「へ…?」
「馬鹿野郎。力を取り戻して、どうなんだって訊いてんだよ」
「あ、…ああ。…いい、と思う」
我ながらマヌケな言葉だと思った。ガキじゃあるめーし、と笑われると思った。
けれど恋次は、「そっか。よかったな」と言って笑った。
含みも何もないその真っ直ぐな笑顔に、思わず一護は頬に血を上らせた。
そうだ。恋次は全部、見ていたのだ。そして知ってる。
力を失くしたのに強がって、執着して、その挙句にこんな騒ぎを引き起こしたことを。
銀城らに無様に出し抜かれ、俺の力を返せと子供みたいに泣いて縋ったことを。
だからすごく心配してくれてたんだ。そして単純なぐらい、すごく喜んでくれてるんだ。だから来てくれたんだ。
─── なのに俺は…!!
一護はぐっと両手を握り締めた。
「…みっともねえとこ、見せた。悪りィ」
「へ…?」
振り向いた恋次に真正面から視線を合わせる。
「それと、…ありがとな」
「…あ? …ああ、そりゃー総隊長に言ってくれ。それと浦原さん、お前の親父もな」
「うん、分かってるんだけどよ。でもそうじゃなくて─── 」
言わなきゃ─── 。
今を逃したら、もう気持ちの置き所がわからない。
ダメならダメと、知っておきたい。けれど何て言って訊けばいい?
こんな時に何を言ってるんだと呆れられないか? 嫌われないか?
一護は眉間に皺を寄せた。
すると何を察したか恋次は、ぐるんと勢いよく振り向き、一護の頭を鷲掴みにした。
「うおおッ?!」
「なにをぐっちゃぐっちゃ考えてやがんだ、テメーは!」
「いてて、いてえッ!」
「ったく図体ばっかデカくなりやがって、中身はガキのままか、あァ?!」
「え…!」
頭を鷲掴みにされたまま、一護は目を丸くして恋次を見上げた。
じっと見つめていると、一護の視線を受けて、「…んだよ」と居心地悪そうに恋次は手を引いた。
その気弱さが懐かしい。
「…オマエ、俺の背が伸びたこと、気付いてたのか…」
「ったりめーだろ。バカみてーにひょろひょろ伸びやがって」
「…なんだ。せっかく自慢してやろうと思ったのに、つまんねーの!」
一護は、へへへと笑って鼻の下を擦った。
恋愛感情じゃないかもしれないけど、恋次はちゃんと一護のことを見ててくれる。
それが無性に嬉しかった。
「…なあ、一護」
「んだよ」
「よくがんばったな」
はっと顔を上げると、同じ高さにある恋次の眼が覗き込んできていた。
そういえばこの男の瞳は赤かったのだと、今さらながら思い出す。
「─── ああ。時間は掛かったし、ヘタも打ったけどな」
「そればっかは仕方ねえ。霊力、戻っただけでも儲けもんだろ」
「…まあ確かにな」
恋次は変わった。髪を伸ばし、体つきもまた少し、逞しくなった。
けれどその笑みは、あの頃と変わっていない。
同じ眼をしている。
─── もしかして、期待していいんだろうか…?
一護は、じっと恋次の瞳を見つめた。恋次の顔に戸惑いが浮かぶ。
「…んだよ?」
「あのさ。恋次」
「…おう」
「オマエ、他に何か俺に言うこと、ねえ?」
「他に…?」
恋次の眼が大きく見開かれた。赤褐色の睫毛の縁が、月光を弾いて光る。
奇麗だなと思う。懐かしいなと思う。
あの、遠くに消えてしまった恋次との時間もこの手の中に戻ってきたような錯覚に陥る。
だったら、あの頃みたいに、自分のことを求めてくれないだろうか。
好きだ、と─── 。
ずっと会いたかった、この日を待っていたんだと、言ってくれないだろうか。
一護はありったけの想いを込めて、恋次の深紅の瞳を見つめた。
「…っと、背が伸びたよな?」
けれど思いっきり眉をしかめた恋次は、人差し指を突きつけて見当違いのことを言い放った。
ぜんっぜん違う。もうまるっきり違う。
一護はガクリと肩を落とした。
「……そりゃあさっき聞いた」
「けど体重とかあんま増えてねえだろ」
「背に追いつかねんだ、仕方ねえ。─── それから?」
「あァ? …それからえっと、…おおう! 足も大きくなってる!」
「痛ってえ!」
恋次は、いきなり一護の胡坐をかいていた足を引き寄せ、自分のと比べた。
「これでオマエの靴も借りられるようになるか? ─── いや、もうちょっとか」
「そんなバカのデカ足にはなりたくねえよ! つか放せ! それから! 何か他に言うこと、あるだろッ!」
「あァ?! …まだ何かあるのか?!」
あるだろ、大事なことが!
つか間違い探しやってんじゃねえよ!
一護は苛立ちを隠さず、眉間に皺を寄せたまま恋次を睨み付ける。
「…っとそれから、─── わかった! モミアゲ!」
「…!!」
違います、大はずれ。そんな答えは期待してない。
けれど確かにモミアゲはつくった。
恋次とおそろいにしようなどという意図があったわけではないが、
無意識だったのかもしれない。きっかけなどよく覚えていない。
─── ヤバい。バレたらどうしよう?
だが恋次は、一護の戸惑いなど気付きもしない。
やっと当たったかチクショウ、大人ぶってんじゃねえよ、などと拳を握り締める始末。
一護はこめかみを押さえた。
モミアゲ、イコール大人というのもどうなんだ?
「…なあ、恋次」
「あァ?」
「オマエさ。─── 本当に他に言うこととか、ねえのかよ?」
「え? まだ他に何かあんのか!?」
─── 寂しかったとか、会えて嬉しかったとか、言えよ!
だが恋次は、一護の思惑になど気付きそうにない。
キョロキョロと部屋を見回し、相変わらずの間違い探しゲームに興じている。
この馬鹿、全然、成長してねえ。
一護が大きくため息を吐くと、案の定、恋次はキレた。
「…んだってんだ、クソッ! 答えは一体、何だ?!」
「─── 知るか」
「んだと、コラァ! 気持ち悪りィだろうが! 答えろ!」
「ヤダね」
「オマエなあ…?!」
額がくっつきそうな距離で、恋次が一護を怒鳴りつけてくる。
息が掛かる。
顔を傾ければキスもできる、そんな距離。
なのに届かない。もどかしい。
「─── 馬鹿野郎。んなのは自分で見つけなきゃ意味ねえんだよ」
だから言ってくれよ。
一護は願う。
「オマエなあ、一護。久しぶりに会った戦友に、そんな言い方はねえだろ、あァ?!」
「戦…友…?」
─── そうか。俺はオマエにとっては戦友なのか。
やはり終わっていたのか。
案外、落胆と言うほどのショックは無かった。
─── ま、仕方ねえか。
離れてからは互いの消息を知ることさえできなかった。
ともに歩ける未来があるなんて想像することさえ出来なかった。
だからといって諦める気はない。自分の気持ちが固まっている。
霊力でさえ戻ったのだ。恋次とのことだってまた最初っから始めればいい。
そのための力はある。時間もある。
「知るか」
「んだと、コラァ!」
─── さて、今度はどうやってコイツを落とそうか?
腹は決まった。一護はニヤリと笑う。
それを見た恋次は、ぐっと息を詰まらせ、戸惑った顔をする。
久しぶりの、─── 本当に久しぶりのくだらない口争い。
またこんなふうに馬鹿をやれる日がくるとは思ってなかった。
どうしようもなく嬉しかった。
スタート地点にはたどり着いたんだ。まずはここから。
笑みを浮かべる一護に向かって、恋次は肩をすくめてみせた。
「…なんかよ、一護。オマエ、変わった…か?」
「いや、別に。俺は俺だ。変わらねえ」
「そうかもしんねえけど、何か…ふてぶてしいっつーか」
「んだよそれ。…ま、成長期、舐めんなってとこか?」
「ったくたった一年や二年でよくもまあひょろひょろと…」
「っせえ、ひょろひょろ言うな! テメーはどうなんだ、テメーは!」
「死神が、んな簡単に背ェ伸びてたまっか! まあ、ウェイトは上げたけどな。今の俺ァ強えェぞ、ハッ!」
「…そのドヤ顔、止めろ。つか雰囲気はともかく、中身ぜんっぜん変わってねえじゃねえか」
「ドヤ…? 雰囲気─── 、髪か? まあ、イメチェンってヤツだな」
「イメチェン?!」
「あ、クソ、笑うんじゃねえ!」
「だって簪までしてよー!」
「簪じゃねえよッ!!」
恋次の顔が心なしか赤らんでる気がする。
なんだ、やっぱ変わってねえか、と内心、一護はほくそえむ。
あの頃も恋次は、強引で格好つけでいつだって意味なく上から目線だった。
けれど一護の前では時々、こうやって子供っぽい一面を見せた。
─── 変わってない。
そのギャップがとても好きだった。
自分だけには素の部分を出してくれてると思ってた。
「…なあ、一護」
「何だ?」
いきなり口調を変えた恋次に、一護ははっとした。
「…あのさ。ひとつだけ訊いていいか?」
恋次は、いつになく真面目な顔をしていた。心なしか苦しげでさえある。
─── 何か、話があるのか?
だからこんな明け方に恋次は訪ねてきたのだろうか。
一護が、うん、と大きく頷いて見せると、恋次は、なあ、一護、と重たそうに口を開いた。
「…オマエ、後悔はしなかったのか」
「何をだ?」
「─── 最期の月牙天衝を振るい、霊圧を失くしたことだ」
「……」
なんと答えていいかわからず、じっと恋次を見つめると、赤い瞳が一護を覗き込んできた。
「オマエにとって霊圧─── 、力ってのがどんなに大事なもんか俺は知ってる。だからこうやって力を取り戻せたことが、オマエにどんな意味を持つのか、分かってるつもりだ」
「─── ああ、そうだな」
そうだ。恋次も、己の力をよすがにその足で立つ男の一人。
だからこそ言葉なんて無くても気持ちを通じることができた。
背中を預けることも出来た。
「オマエ、霊力を全て失うって分かってて最後の月牙天衝を討った─── 、そうだろ?」
「ああ」
「後悔─── したか?」
一護は大きく息を吸った。
「いや、後悔はしてねえ」
「……」
「失くした力は取り戻したかった。無力でいるのは嫌だった。だけど、それは別の話だ。そうだろ?」
「─── まぁ、な」
そうだ。この男に分からないはずは無いのだ。
同じ立場だったら、きっと恋次だって自分を投げ打つに決まってる。
なのになんで今さら訊くんだろう?
「─── そっか。ならよかった」
「…恋次?」
恋次は天井をもう一度見上げ、くつりと笑った。
「後悔ってのはキツいもんだからよ。どうしても歪むんだよ」
「……」
「ま、分かってたけどな。オマエなら後悔なんてしてねーってよ」
あっけらかんとした恋次の言葉に、一護は視線を落とした。
力が欲しいと泣いて悔やむ、そんな夢を一度だけ見たことがあったからだ。
目が覚めたとき、濡れた枕を前にして始めて、自分がひどく後悔していたことを知った。
醜い、と思った。
それでも現実の自分は、自分ができることを─── 、この世界を護るための精一杯を果たした。
うまいやり方じゃなかったにしても、だ。
だから俺達は生きてる。
ならば後悔が無いと言い切るしかない。だって苦しんだのは自分だけじゃない。
大事な人を失った人もいるのだ─── 。
そんなふうに思いやってもらえるほどの価値は自分には無い。
「─── なあ、恋次」
「ん?」
「俺を買いかぶんじゃねえ」
「…は?」
「俺を舐めんなって言ってんだ」
恋次は結局、一護のことなんて全然、分かっていない。
あんなに一緒に居たのに、いや、一緒に居たからこそ、
こんな長い空白の時間の後だと過去の自分を理想化してしまうのだ。
現実の一護自身はこんなに情けないというのに。
こんなに未練を残し、純粋に心配してくれた恋次に付け入ろうと隙を伺っているというのに。
ルキアの言ったとおり、腑抜けていたというのに。
─── チクショウ…!!
一護は、正面から恋次を見据えた。
「…一護…?」
「俺は…ッ!!」
強く拳を握り締めた。睨み付ける眼に力が篭る。
恋次がたじろぐのが分かった。
心臓がドクドクと音を立てて身体中を廻る。耳鳴りがする。手が震える。
言葉が─── 、ずっと飲み込んでいた言葉が喉元までせり上がってきている。
今、言わなきゃ。
俺はこんなにみっともなくて、相変わらずのガキで、後悔してたことも言葉に出せない見栄っ張りで、しかも未練たらしくて、執着しすぎで、それから、それから─── 。
「馬鹿野郎」
「え…?」
ふわりと、頭の上が温かくなった。恋次の手だった。
そのままぐしゃぐしゃと掻き回され、いつの間にか瞑っていた眼を開けると、目の前が真っ黒だった。
それは恋次の死覇装。ぐん、と近づく。
「オメーだけじゃねえよ」
「れん…ッ!!」
抱きしめられて、息ができない。声も出ない。
「なー、一護。…よくがんばったな。それは認める」
「……」
「だけどよ、やっぱ一護。テメーはテメーのままだ」
「…へ?」
腕を突っ張って体を離してみると、うんと近い位置に恋次の顔があった。
「中身はガキのまま。ったく、危なっかしいったらありゃしねえ」
「……んだと?! …って、痛ッ?!」
ゴツンと勢いよく額をぶつけられ、一護は目をパチクリとさせた。
その様子を目にして、恋次が笑う。
「ったく。俺が何しにこんなクソ夜中に来てると思ってんだ」
「は…?」
「それをごっちゃごっちゃ誤魔化しやがって…。妙な知恵ばっかつけやがってよ」
「へ…?」
恋次は、ニヤリと口元だけで笑い、拳を突き出した。
その拳にどんと胸を突かれ、一護はバランスを失い、危うくベッドに倒れそうになった。
「…あぶねッ。テメー、何しやがる!」
「っせえ。ほんの一年ちょいの間にめんどくさくなりやがって」
「めんどうくさい?! んだよ、それ! テメーこそ訳分かんねーだろうがッ!」
「俺か? 俺はフツーだ、フツー」
「は…?! つかテメーがテメーの時点でフツーじゃねえだろ?!」
「っせえ! テメーみてえな馬鹿野郎にそんなこと言われても説得力ねえんだよッ!」
「んだとコラ! …って?!」
思わず殴りかかろうとしたところを手首を掴まれ、動きを封じられた。
軽いじゃれあいのつもりだったのに、手首を掴んでくる手が強すぎる。
「…れん…じ…?」
それには答えず、恋次は一護の肩に、こつん、と額を付けた。
「オマエさー」
「…んだよ」
「キツい時はキツいって言えよ」
「…んだよ、それ」
「呼んでくれりゃー、俺だってテメーの前に来れたよ」
「へ…?」
「けどオマエ、平気なツラして、笑って、さ。すっげーしんどそうなのに、何にも言わなかったじゃねえか」
何の話をしてるのだろう、と一護は、鼻先の恋次の頭を見つめた。
「俺、さ。何度も来たんだよ、テメーのとこに」
「…マジで?」
「なのにテメーは気付かない。─── まあそりゃあ霊力がねえからよ。当たり前のことだけど、…でもそうじゃなくてよ」
「…んだよ」
「─── っとにテメーは全然、俺のことも、他のヤツらのことも…!!」
恋次は、不意に顔を上げる。
その眼はいつになく真摯な光を宿している。
一護は思わず息を飲んだ。
「…恋次?」
「………」
けれどまた恋次は眼を伏せた。そしてボソリと呟く。
「あー、俺の惚れた一護はどこ行っちまったんだろうな?」
「へ…?」
「昔のオマエはもうちょっと可愛かっただろ?」
「は…?!」
「恋次、恋次って犬っころみてえに尻尾振ってたくせによ?」
「はぁ?!」
予想外の言葉を投げかけられて、グリグリと頭を押し付けられて、一護は返す言葉を選べない。
「いいか、一護」
恋次は小さく口元だけで笑う。
「何でも一人で片付けようとすんじゃねえ。俺がいるだろ」
「……!」
「俺だけじゃねえ。ルキアや他の死神連中だって、茶渡たちだっているだろ。最初っから頼れよ。何でもないフリなんかすんじゃねえ」
「れん…」
「呼べよ、俺らのこと」
強い視線で睨みつけられ、一護は息を飲んだ。
「我慢すんなよ。テメーは何もかも我慢しすぎなんだよ。んなの一発で見ぬけるんだよ、馬鹿野郎」
「……!!」
「つか俺に言わせようとすんじゃねえ。ビビってんのか、この馬鹿が」
「へ……!!」
両頬を掌で覆われて、身動きできなかった。
真正面から覗き込まれて、視線を逸らせなかった。
息を飲んだ。喉がカラカラだった。頭がグラグラした。
─── もしかして、もしかして、もしかして…!!
けれどその疑問を言葉にする前に、唇が塞がれていた。
テメーに会いに来たんだっつってんだろ、察しろ、と。
柔らかく耳に吹き込まれた言葉がいつまでもいつまでも鳴り響き、膝から力が抜けるまでそう時間は掛からなかった。
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