失くしたものを想ってなどいけない。
願ってはいけない。
ましてや泣いてなど絶対いけない。
それで自分が楽になっても、目にした者は苦しんでしまう。
ただ自分には見えないだけで、死神達も魂魄も、今、そこに居るかもしれない。
恋次も、ルキアも、あの優しい死神達は、一護のことをひどく憂えていた。
だから絶対に弱ったところなど見せちゃいけない。
探そうとしちゃいけない。
大きなものを失ったのは、一護一人ではないのだ。
それになにより自分の悲しみに浸って、自分自身を哀れんで泣くのはもう当の昔に止めたはず。

そうやって一護は、何も見ないようにしてきた。
求めないようにしてきた。
恋次がもしかしたらそこに居るかもしれないと期待しつつも、
それでもその可能性ごと、見ないようにしてきた。
なのに何で今さら。

一護は歯を食い縛った。

─── 俺は、大丈夫だ。絶対、大丈夫。

ガクガク震える膝を押さえながら、一護は必死に動揺を押さえ込んだ。
けれどこんな痛みは知らない。

初めて自分の意思で刀を振るったときや、切り刻まれたときは、身体がバラバラになっていくようだった。
だけど護りたいものがあったから、耐えられた。
自分の刀が大事な人たちを傷つけたと知ったときは、
何かを永遠に喪失したような、胸に孔が開いたような虚ろな痛みだった。
それでもやるべきことがあったから、強くなろうと先に進めた。

けれど 今、抱えているこの痛みは、それらに比べればとても静かだ。
あんなふうに一護をいたぶることは無い。
だが胸の奥からゆっくりと深く、身体中に広がっていく。
何かに 侵蝕されて、自分を失っていっているような気がする。

─── どうしたらいい?

恋次の思いがけない来訪に、そしてこの痛みに対抗する術がない。
闘うための刀ももう、この手にはない。
ならば、もがくことさえできずに心も身体も麻痺していくだけなのか。
まるで氷海に身を沈めていくように。


一護は窓枠に両手を着き、俯いたまま、その痛みを耐えた。
そして暫くの後、ようやく大きく息をついた。
窓の向こうの空を見遣ると、
いつの間にか薄暗くなってしまった空が、瓦の波の向こうに見え隠れしている。
これが、自分の全てを投げ打って護ろうとした世界。
結局、あまり役には立ってなかったのかもしれないけど、それでも闘う事ができた。
そして妹たちも父親も生きている。
大事な友人たちも、ちゃんと生きている。
その事実だけで充分だ。



「…よし」

一護は、窓に背を向け、カーテンを閉めた。
もう恋次は来ないかもしれない。
もしかしたらまた来るかもしれない。
だが別世界の存在。
俺は俺の道をしっかりと歩く。
あの日、
この道を選んだ日、
それをしっかりと自分で決めたはずだ。
後悔など、決してしない。
だから決して振り向きなど、後悔などしない。


「…って、ええ? 何だよコレっ!!」

そのままふらふらと椅子に着いた一護は、思わず大声を上げた。
昨日、やりかけでペンを挟んでおいた国語の問題集を無意識に開いた途端、
幾つかの漢字に大きくバツ印がついているのが目に入ったのだ。
そしてその横には少し歪んでいるけど端整な筆跡で、正しい漢字が書いてあった。

「…ってこれ、まさか恋次かよ?!」

間違う訳がなかった。
顔に似合わないと何度もからかった、あの恋次の筆跡だった。
穴が空くほど見つめても、やはり信じられない。
自分の口からまた「恋次」という音が漏れてしまったことも含めて。

「…… 」

一護は息を飲んだ。
そのページの隅っこに「また来る」と小さく、本当に小さく記してあったのを見つけたからだ。
思いっきり塗りつぶされたヘタクソな落描きも。

「なんだよ、コレ…」

あの大きな男が、どれだけ身体を縮めてこれを書いたのか。
苦手な現世の細いペンに四苦八苦しながら、あの仏頂面をさらにしかめていたのだろう。
とても鮮やかにその姿が思い浮かべられて、笑いを誘う。
この一年以上の空白が、まるで何でもなかったことのようにさえ感じられる。

─── 本当に、あの恋次がココに来てたんだ…!

一護は、ぎゅっと眼を瞑って、その事実をしっかりと飲み込もうとした。
嬉しかった。
さっきまでの意地とか、頑張りとか、そういうのが溶けていくようだった。
それなのに口をついて出てきたのは、

「…つか靴屋のコビトさんか、オマエは…」

と、やっぱり憎まれ口。

─── そういやマトモに礼を言ったことなんて、お互いほとんど無かったよな。

無理やり忘れようとしていた恋次との遣り取りを思い出すと、本当にガキの言い合いだったと思う。
つい思い出し笑いして、

「偉そうに」

と憎まれ口を叩くと、

「痛てっ! …って、…あれ?」

コツンと頭を殴られたような気がして、一護は周囲を見回した。
だが誰もいない。
殴られたはずの場所は少し痛い気がするけど、手を伸ばしてみても自分の髪以外、何も触れない。

─── んだよ、これ。訳、分かんねー!

ならばそれは、一護の願いが産んだ痛みなんだろうか。
あの、永遠に続くように思われた日々に繰り返された遣り取りを、体が覚えていたんだろうか。
一護は、殴られたはずのところを擦りながら、
さっきまでの胸の痛みがすっかり消えていることに今さらながら気付いた。
いくら恋次がまた訊ねてきてくれるにしても、顔も見えないし、話もできない。
以前のようにとはいわなくても、 触れ合うことぐらいはできるかもしれない。
けれどあの頃のように、 何かが伝えられるとは思えない。
それに何より、危険な場所に身を置きたがるあの男が、「また来る」の言葉を実践できる保証はどこにもない。
つまるところ、状況は全く変わっていないのだ。

─── それでも…。

恋次は確かにこの部屋に居た。
また来ると約束した。
一護は自分の手をじっとみた。
あんなに冷たくかじかんでいた指先が今は赤く色付いてきている。
血と肉の色を取り戻している。

─── つか俺、ちょっと単純すぎじゃねえか?

一護は眉を思いっきりしかめた。
いやな可能性に思い当たったからだ。

─── もしかしてもしかしなくても俺、拗ねてただけなのか?

絶対、認めたくはない。
それに大体、一年という時間は短いものではない。
そんなに長い間、拗ね続けていたなどと、考えたくも無い。

だが認めるにしろ認めないにしろ、一つだけ、わかったことがある。
それは、もう、黙って耐えることはないということ。
誰も居ない空間に向かって、「居るのか?」と訊ねてみてもいいのだ。
手を伸ばして、触れてくるかもしれない何かを待ってみてもいいのだ。
だって恋次は、また来ると約束したのだから。

もっと自分を許してやろう。
そうじゃないと、もしかしてそこに居るかもしれないあいつらも浮かばれない。
なんてったって奴らの方こそユウレイなのだから。

そして一護は窓の鍵を開けた。

─── 無用心かもしれないけど、変なところで気を使うヤツだから。

だからこうやってまた窓を開けておけば、素知らぬ顔をして忍び込んでくるかもしれない。
そして、一護が見えないのをいいことに、悪さとか仕掛けてくるかもしれない。
あまりに容易い想像に、一護は苦笑する。

─── そうだ、またあの甘い菓子、補充しとかねえとな。
この一年でアイツの好きそうなスイーツとかもいっぱい出てるし。
あ、でもルキアの分も用意しとかねえといけねえか。
一緒に来るかもしれないから、うっかりマズいこと言わないように気をつけねえと。

それはとても無邪気で、意味のない想像かもしれないけど、
こうやって凍りつかせていた心のうんと柔らかいところを、少しづつでも解放してやればいんじゃないかと一護は思う。
そうしたらあんなふうに意地を張ってこれで最期と決め付けなくても、
緩やかに流れる時が始末を付けてくれるだろう。
一護自身にも、そして恋次にも。



一護は手にしていた参考書をバタンと閉じた。
そのとき、

「おにーちゃーん! ごはんー!」

と階下から声が響いた。

「お? おう、今、行く!」

一護は、ごはん、の言葉にぐうと大きく鳴った正直すぎる腹を見下ろした。

─── ったく、しようがねえなあ…。

せっかくいろいろ考えていたのにとは思うけど、これが自分なのだから仕方がない。
必死で成長している身体の悲鳴を無視できるわけもない。

一護はうんと伸びをした。
足を伸ばしてみた。
やっぱりズボンの制服は短くなってる。

だから、含みのある笑みを浮かべる。
次に会えた時は、まず座っておこう。
頃合いを見計らって立ち上がれば、いくらあの恋次でも、背の差がうんと縮まったことに気付くだろう。
その顔が見れないのは少しもったいないけど、けど想像ぐらいは付くから大丈夫。

「…よし!」

一護は一息ついて気分を切り替え、部屋を出た。
いい匂いだなと鼻を鳴らしつつ階段を降りきったところで、クラッカーの音が盛大に鳴り響いた。

「うわッ?!」

パンっと鳴る大音声に思わず耳を塞いだ一護の前に立ち塞がったのは、
思いっきり仮装した遊子と父親と、あらぬ方を見やっている夏梨の三人だった。

「ハッピー、ハロウィーン、お兄ちゃん!」
「ハロウィーンだぜチクショウ!」
「…そういう訳だから一兄も乗ってやってね」

「お前ら…。もしかしてメシが遅れたのはコレのせいか…」

「なによう! ハロウィンだからがんばったのに、反応はそれだけ?!」
「そーだそーだ、ノリが悪いぞ、一護ゥ」

遊子と父親は常軌を逸した仮装姿で、怒鳴りつけてきた。

「…っせえ。つか日本人がハロウィン祝ってどうすんだよ!」

大騒ぎの二人を前に、一護はガクリと肩を落としてみせたが、

─── そういや、今日はハロウィンだったんだ。だからか。

と、恋次が問題集の隅に残した奇妙な落描きを思い出していた。
それは包帯でグルグル巻きにされた眼つきの悪い男と、角らしきものを生やした仏頂面の男の絵だった。

─── ありゃあ恋次と俺か。

そういや去年は皆で仮装して楽しかったなと、一護はくつくつと笑い出した。
此の世の者ならぬ死神達と、ハロウィンの仮装をして騒ぐなどと、今、考えたら夢物語のようだ。
けど、楽しかった。
すごく楽しかった。

「は…、ハハハハハッ!」
「お兄ちゃん…?」
「どしたの、一兄?」
「ハハッ。いや…、いや、何でもねえ…」

涙を目に浮かべてまで笑い続ける一護に、妹たちは呆気に取られていたようだったが、
先に 気を持ち直したらしい夏梨が後ろから蹴りを入れた。

「…オラ!」
「うお?! …ってえ、何すんだ!」
「一兄、いつまで笑ってんだよ。…メシ! 早く食おうよ、腹減ったー!」
「そうだよ、お兄ちゃん! せっかくのお料理が冷めちゃう! 早く早く!」
「お、おう…?」
「つか何で一兄だけフツーの格好なんだよ! 何か着ろ!」
「何か…? って何もねえだろ! つか普通、一般家庭でするか仮装?!」
「しょーがないじゃん、オヤジも遊子もノリノリなんだから!」
「うわっ、脱がすな夏梨! つかテメーが一番ノリノリなんじゃねえか?!」
「じゃあ一兄はフランケンシュタイン! 遊子、絵の具持ってきて!」
「ま、マジか…?!」
「うっさい!」
「いけー、夏梨ちゃん! あたしも手伝う!」
「おぎゃー!」

妹たちにずるずると引っ張られていく一護を目にして、一心は僅かに眼を細め、あらぬ方向に目配せをした。
だがそれも一瞬。
誰にも気付かれぬうちにいつもの顔に戻って、子供たちの待つ台所へのっそりと向かった。
それを静かに見送る一対の真紅の眼がそこに在ったことは、一護はまだ知らない。







本誌、虚圏編終了に添えて妄想しまくり。一護はとても強い子だけど、ね。
ファントム・ペイン>本来は、失くした身体の一部が痛む症状のこと。幻想痛。
Web拍手
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