なんでだろと、一護は恋次をまじまじと見つめ、そして納得した。
雨の中の恋次は、髪が濡れて毛先が垂れてしまっているせいか、
いつもと違ってずいぶんと所在なさげに見えるのだ。
いくら凄んでみせても、通り雨に打たれた迷子犬みたいにどこか寂しげで、なんだか撫でてやりたくなる。

同じく雨に濡れている自分が傍からどう見えるかになんて全く考えの至らない一護は、改めて恋次に見入った。

「オイ、一護! 何、ボーっとしてんだ、あァ? 立ったまま寝てんじゃねえか? 雨に降られて頭、沸いたか?」
「…オマエなあ」

自分勝手に浸ってたとは言え、あまりにムードもへったくれもない台詞に一護はガクリと肩を落とした。

「…つかなあ。テメエこそ一体、何しに来たんだよ。副隊長サマなんだろ? ヒマすぎなんじゃねえか? つか左遷か?」
「なわけねえだろ! テメエこそいつまでもバイト気取りで代行やってんじゃねえぞ」
「誰がバイトだ。現代語、無駄に覚えやがって…、つかヤベッ、こんなとこで道草食ってる場合じゃねえ!」
「え? おい、待て一護、どこに行くんだ?」
「妹んとこ! 悪りィけどまた後でな」
「って妹たちならオマエの学校の方に向かってる筈だぜ?」
「…え?」

鞄と傘を拾って走り出そうとしていた一護は、足を止めた。

「さっき、あの子ら、二人揃って家を出るとこだったから」
「…へ? あいつら、もう帰ってたのか」

恋次はこくりと頷いた。

「大騒ぎだったぜ? おにーちゃんに傘、届けなきゃって」
「マジかよ」
「おう。つかテメーはちゃんと傘、持って来てたんだな」
「あ、いや、これは水色に借りたんだ。そっか、あいつら…」

一護は家の方向を見た。下唇が不安そうに尖る。
恋次は、突然、黙り込んでしまった一護を前に、小さくため息をついて苦笑を浮かべた。

「…オラ。せっかくの傘なんだからちゃんと差そうぜ?」

恋次は、半端に閉じられたままだった傘を開いて差しかけてやり、ついでに自分も傘の下に入り込んだ。
パタパタと、雨粒が傘を叩いて音を立てる。

「全く世話の焼けるおにーちゃんだなあ、オイ」
「…っせえ。つかテメエがおにーちゃん言うな。気色悪りィ」
「お互い様だっつうの」

そう言って鼻で笑ったくせに、
雨に煙ったままの睫毛の奥の紅い虹彩は、いつに無く優しい色をしている。
ぎゅうぎゅう詰めの小ぶりな傘の下、一護は再び声を失ったが、
「いいからほら、早く妹んとこ、行ってやれ」
と手に傘を握らされて、やっと思い至った。

─── 多分、恋次、入れ違いにならないようにと妹たちのことを知らせにきてくれたんだ。
だからこんなにずぶ濡れになったしまったんだ。
妹たちだって、俺に傘を届けようと雨の中へと家を出た。
それに大体、この傘だって水色からの借り物。

堪らず一護は恋次を見上げた。
それぞれの困ったような笑顔が、遠い日の母親の笑顔に重なる。
嬉しいはずなのに、胸が痛いのはなんでだろう。
悪いことした気がするのはなんでだろう。
素直に喜べない自分はどこかおかしいんだろうか。
じっと見上げたまま黙ってしまった一護の髪を、恋次はくしゃりと掻きまわした。
水滴が一護の頬を伝って落ちる。

「オーイ、大丈夫か? マジで熱でも出てんじゃねえか?」

一護はその手首を取って、濡れた紅い眼を覗き込んだ。

「…なあ、恋次。オマエ、さっきまでどこにいたんだ?」

─── 何しに俺のところに来た? 何で?

「あ? なんだよ突然」
「なあ。教えろよ」

一護は知っていた。
真っ直ぐ視線を合わせると、恋次は折れてくれる。
滅多にこんな風に甘えることはないけど、でもどうしても訳を知りたい。
恋次の口で証明して欲しい。
そうでないと望んではいけない期待に押しつぶされそうだった。

真剣な一護の視線に、恋次はボリボリと頭を掻いて眼を逸らした。
濡れた毛先から雨が滴り落ちる。
その様子に、犬といっても成犬っていうよりは、身体だけ育ちすぎた仔犬みたいだなと一護は心の底でひっそりと笑う。

「…ここ」
「うおっ…?」

突然、雨の中へと一歩下がった恋次は、傘の端を掴んで引き落とした。
水しぶきを立てて、二人の間に傘の壁が出来る。
恋次は、自分のほうに向かった傘の尖った先端を掴んでいた。

「オマエさ。俺が近づいても全然、気がつかなかっただろ。だからここに乗ってみたんだけどな」
「はぁ? ここって…、傘の先っぽかよ!」
「結構、重さを消してバランス取るのとか難しくってよ。
 どんだけ驚くかと思ったのに、ぜんっぜん気がつきゃしねえ。お子さまは水遊びに夢中ときた」
「オマエ一体…」

予想外の答えに、お子さま呼ばわりに腹を立てることさえ忘れた一護は、呆れて口をぽかんと開けた。

─── 仮にも副隊長だろ。傘の上でやじろべえ遊びしてたのかよ。

けどその様子を想像したら、笑えるどころか胸が痛くなる。

─── 何でだよ、そんなの変だろ! 何考えてたんだよ! 

答えを求めるように恋次を見上げると、
「挙句の果てに走り出すし。振り落とされちまったぜ」
と苦笑交じりの笑顔が返ってきた。
けれどその視線は、雨に濡れているせいか柔らかい。
だから、今ならと一護は思った。

「恋次…」

母親を失くしたあの雨の日のことは話したことはないし、話す気もなかった。
だけど今なら何かを伝えられる気がする。
伝えなきゃいけない気がする。
自分の中に未だ消えないこの欠落。

─── 恋次ならわかってくれる気がする。
慰めてもらおうとかそういう甘えじゃなくて、ちゃんと伝えなきゃいけない気がするんだ。

「…恋次」
「あ、雨、やんだみたいだぜ」

恋次は空を見上げて、掌をかざした。

「あのな、恋次」
「ん?」
「あのな。俺な。…俺、昔は雨、好きだったんだ」

昔は雨が好きだった。
口にした途端、一護は後悔した。
俺が雨が好きだろうと嫌いだろうと、何も知らない恋次には関係ない。

─── こんなんじゃ通じやしない。もっと他に言いようがあるだろ。
これじゃ、何言ってんだって、さっきだって雨で大はしゃぎしてただろとかバカにされるのがオチ。
けど何をどう伝えていいのかわからない。わからないんだ。
 
恋次は、深く俯いてしまった一護を前に、
雨が好きだったというその言葉を反芻し、意味を考えた。
事情はよくわからないが、言葉に込められた思いの丈、伝えたいという気持だけはわかる。
雨降りの度に気鬱を隠そうとしていた一護のことも熟知してる。

だから、
「そうか」
とだけ静かに応えた。
一護が勢いよく顔を上げると、
「オマエも昔は雨が好きだったんだな」
と恋次は一護の言葉を繰り返した。
一呼吸置いた後に、こくりと頷いた一護は目を伏せて、
「だから、もっと好きになれると思うんだ」
と続けた。
恋次はまた、そうかとだけ応え、空を見た。
続いて暗い空を見上げると一護は、なんだかそれだけで充分な気がした。
言葉を尽くして伝えようとしても伝えきれないことなんてたくさんある。
けどこうやって一緒に雨の中に立ち、痛みも怒りも苦しみも思い出すたびに雨に溶かしてしまえれば、
きっと遠い思い出はさらに遠くへと消え行くまま、新しい想いを重ねていける。
それならいつか、雨もこの空気も風景も、全部違ったものになる。
きっと好きになれる。その時には全部話せる。
恋次なら受け止めてくれる。

一護は泣きたくなるのを堪え、
「…だってさ。雨ってさ。悪くねえしな」
と軽口を叩いて誤魔化した。


恋次は一護を横目でちらりと見遣った。
一護の声が震えている。
傘の柄を握る手が、関節が白くなるほど握り締められてる。
だから、
「ああ、そうだな。水遊びもできるしな」
と茶化して笑ってみせた。
すると案の定、一護は真っ当にキレて、
「そうじゃねえッ!」
と怒鳴り返してきた。
恋次は内心の安堵を押し隠し、抱きしめてやりたい衝動をやり過ごしながら、
「わかってるよ」
と雨に濡れて頭にべったりと張り付いてしまったオレンジ色に指を絡めた。

「ガキ扱い、するんじゃねえ」
恋次の声と指に気遣いを感じ取った一護は、
らしくねえことしやがってと恋次の衿を掴み、同じ目の位置まで引き落とした。
すると恋次は、片頬だけで笑って挑発してくる。

「…ガキだろ、実際?」
「知ってる。だからガキまんまの扱い、するなってんだ」

恋次は目を見張った。
こんなふうに一護が自身を子供と認めることなど決してなかった。
けれど誰もいつまでも少年のままではいられない。
一護も大人になっていくんだろう。

言い知れぬ寂しさのようなものを感じて恋次が視線を落とすと、
その衿を一段と強く引いて、一護は素早く唇を近づけた。
まさか通りの真ん中で一護がこんな行動に出ると思ってなかった恋次は、虚をつかれて硬直した。
それでもなんとか、
「…そういうとこがガキってんだよ」
と反撃してみる。
けれど一護は、
「っせえ、わかってるっつってんだろ」
とうそぶくだけで、余裕さえ見せた。
だから恋次は肩を竦めて苦笑いする。
それが照れ交じりなのが感じられて、一護は少し、安心した。


「…なあ。妹たち拾ったらすぐ帰るから、部屋で待ってろよ」
「今からか? 床がずぶ濡れになるぜ?」

恋次は少し驚き、そして困ったように笑った。
けれど一護は、自分のせいで濡れたんだから当然じゃねえかなどとは口にしない。
そんなこと言って気遣いさせるほうがガキの甘えだから。
それにこうやって、
「お互い様だろ?」
と視線を合わせて虚勢を張れば、それだけで通じるはず。

─── そうだろ? 

一護が見上げると、恋次は口元だけで笑い、
「そうだな。じゃあ先に戻ってる」
と傘の先端へ一蹴り入れてひらりと中空へと飛び去った。




電信柱の上、一瞬だけ揺れて消えた黒と赤の影を見送りながら、雨の日も悪くない、と一護は心の底から思った。
こんな日には、雨粒といっしょに優しさが降ってくる。

─── ま、死神が降ってくることもあるけどな。

一護は、恋次の消えた方角を見遣って微笑する。

─── だから雨の日も悪くないんだ。俺は、もっと雨を好きになろう。きっと大丈夫。

一護は傘を差して、妹たちの居る方向へ走り出した。
再び降り出した雨が、柔らかく世界を包んでいた。








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