「…ッ」
「逃げんなよ」
「んだとッ!」
「少し、触らせろ」
一護が手を伸ばした。
俺は慌てて後ずさったが足を取られ、無様にも背にしていた寝台に転げてしまった。
その手を避けようとする俺に、警戒しすぎだろと一護は笑う。
「何にもしねーよ」
「わ、分かってらあッ!」
「ならちょっとじっとしてろ」
「っせえ、つか触んじゃねえ!」
だが一護は俺の言うことなんか聞かない。
体勢の有利を活かして覆い被さり、俺の胸の辺りにそっと掌を忍ばせてくる。
昔なら簡単に跳ね除けられたものを、何故かビクともしやしない。
「…ッ!?」
「ちょっとだけ、な? そしたらきっと分かる。オマエのことが、もう少しだけ─── 」
「まさかテメエ…ッ!!」
予想通り、一護は俺の胸に手を当てたまま、眼を閉じた。
─── 見られてしまう。覗かれてしまう…!
その時、俺の眼に浮かんでいたのは純粋な恐怖だったと思う。
思えば滑稽な話だ。
俺はずっと一護を見ていた。
隠れるようにして、一挙手一投足をずっとずっと観察していたのだ。
心なんてもんはもちろん、鈍い俺には分からなかったが、
それでも一護が何を感じているか、何を考えているかぐらいは察することができた。
その事実を知っても一護は動揺しなかった。
俺が傍に居たという事実に喰らいついただけだった。
逆の立場だったら、俺はそれに耐えられただろうか?
見る側から見られる側に回ったとき、俺の自意識は崩壊せずにいられるだろうか?
─── 否。
あまりにも明確な答だった。
恐慌に突入した俺は、一護に押さえつけられながらも無我夢中でもがいた。
「止めろッ、クソ、離せッ!!」
「うわッ、大人しくしろって!!」
「煩せえッ、離せ、離すんだこのヤロウッ!!」
「ったく、テメエってヤツは…ッ」
「離せッ!!」
だが遅かった。
やっと身体の自由が利くようになったと思った時には、一護は自ら手を引いていた。
─── クソ…ッ!!
霊力の復活に先駆け、完現術とやらを身につけた一護が何をしたのか、俺には分からない。
だが、一護は何かを得たのだろう。
俺の身体を跨いだまま、半立ちで呆然と俺を見つめていた。
─── チクショウ、何をしやがった?!
あの鬼の声を聞かれたかもしれない。
あの絶望の闇を見られたかもしれない。
冷水を浴びせかけられたような感覚に襲われ半ばヤケクソになった俺は、一護を寝台から蹴り落とした。
「うおおッ?!」
「─── ご大層なもんだな、その完現術とやらは」
自分で思ってた以上に俺は怒り狂っていたようだった。
地を這うような声しか出なかった。
無防備に床に転がり落ちた一護は驚いた表情で俺を見上げてきた。
眼が心なしか潤んでいるのは、惨めな俺に同情でもしてるせいか。
─── チクショウ…ッ!!
他の誰に嘲笑われてもよかった。
けれど一護にだけは、知らずにいてほしかった。
「その新しい力でテメエが俺の何を見たかは知らねえが、全部忘れろ」
「れ…、恋次?!」
「そんでサヨナラ、だ。分かったな?」
これ以上、側にいたら何をしでかすか自分で分からなかった。
それぐらい怒気を抑え切れなかった。
「恋次…ッ」
「じゃあな」
「待てよッ!!!」
「うおッ?!」
一気に
窓ごと通り抜けようと構えた時に隙ができた俺の袴の裾を一護が掴んだせいで、
俺は再び、派手に寝台に転がり落ちた。
全くどうかしている。
見えないことに慣れすぎていたのか?!
「クソ…、何で逃げんだよッ?!」
「逃げるだと?! 人聞きの悪い言い方すんなッ!」
「っせえ! 逃げてるじゃねえか! つかテメエは何、勘違いしてんだよッ?!」
「勘違いだァ?! テメエこそ何様だと思ってやがるッ!」
思いっきり眉間に皺を寄せた一護は、いきなり拳を突き出した。
「やる気か、テメエ…?!」
俺も構えを取った。
だが一護は、その拳をゆっくりと、そしてそっと俺の胸に当てた。
「…?!」
「何にも見えてなんかいねえよ。勘違いすんじゃねえ」
「…んだと?!」
「さっきも言っただろ? 何にも見えねえ。見えるわけがねえ」
「じゃあ…、じゃあテメエは何をしてやがった! ここに手を当てて、何を探っていやがった?!」
胸に手を当てる俺を、
一護は真正面から見据えた。
「─── テメエの心の在り処」
「…あァ?! 何、ふざけたこと言ってやがるッ?!」
「ふざけてなんかいねえッ! つかテメーは分かんねえのかよ?!」
「…ッ?!」
いきなり取られた手は、一護の胸に当てられた。
「聴こえねえか? 感じらんねえか?」
「何がだよッ?!」
「完現術とかじゃねえ。こんなの、ずっと前からできてた」
「だから何がだよッ!!」
「オマエの気持ちを感じ取ることだ」
「……!!」
「ずっと不思議だって思ってたんだ。
テメーはいっつも嘘ばっかついて、強がりばっかで、しかもそれが通じるって思ってたことが」
「…何の話だ?!」
一護は俺の胸に掌を当てた。
「オマエは分かんねえか…?」
「…だから、何が…!!」
「俺が、オマエのことをどう想っているか」
「…ッ!!」
「俺が、オマエのことをどう想ってきてたか」
「いち…」
一護は俺の手を取り、柔らかく笑んだ。
「分かんねえか? オマエ自身の気持ちも?」
「…んだよ、何の話だよ?!」
俺の掌が、一護の手によって俺の胸に当てられた。
生温かいそれは、薄く湿っている。
薄皮一枚の下では、やけに焦った鼓動が自己主張している。
それだけの話だ。
「こんなの、完現術とか霊圧とか、多分、関係ねえ」
「一護…!!」
「ごめんな…」
一護は唐突に俺を抱きしめた。
「俺、オマエのこと、護るって約束したのに。─── ごめん。全然、駄目だった」
「テメエは何を…」
「ごめん、恋次。本当にごめん」
俺には、一護が言うように、一護の気持ちも俺自身の気持ちも感じ取ることなんてできない。
きつく抱きしめてくる腕も痛い。
けれど逃れ切れない。
この腕の力には逆らえない何かがある。
俺を納得させてしまう何かが─── 。
それからどれぐらい一護の腕の中に収まっていただろう。
はらりはらりと零れ落ちていく、この気持ちは何だろう。
本当は分かっていた。
ずっとこうしたかったのだと。
その腕に抱かれたかったのだと。
俺の頭を抱きこんだ一護の
吐息も、はらはらと降り落ちてくる。
埋もれていく。
もう声さえ出ない。
見上げてみると、一護はあのふてぶてしい笑みを口元に浮かべてた。
思わずカッと頭に血を上らせると、
「ほら、やっぱ変わってねえ」
と一護はまた、俺の頭を抱きしめた。
ここはどうするべきなんだろう、大人しく昔のように折れてやるべきか、
それとも本性を剥き出しにして蹴り倒してやるところなんだろうかと迷ってるうちに、
性急すぎる一護の手で、俺は押し倒されていた。
「…一護、オマエなあ…」
と、わざと呆れた声を出してみせると、
「分かってんだろ?」
と、お約束の台詞を返してくる。
そしてその唇が、首筋に、そして胸元に落ちてくる。
強く吸われ、甘い痛みが背筋を貫く。
身体を離した一護が、桜の花みてえだと呟く。
跡、つけんなっていってんだろと返すと、
そんな昔の約束、忘れた、と一護はうっとりと囁く。
こんな一護はこの二年の間、目にしたことがなかった。
もしかして思い上がっていいのだろうか。
この顔をさせることが俺だけだってことを─── 。
そして一護は、ゆっくりと俺の身体を抱いた。
それは二年ぶりとは思えないぐらいの落ち着きで、俺は正直、戸惑った。
─── これが人の子の二年の重みか。
あの性急さは、そして抑えきれないほどの熱はどこかに消えてしまったんだろうか。
おそらくその変化は、年を重ねるごとに加速するのだろう。
此処に独り残されたまま、俺は耐えることができるのだろうか。
ふと見上げると、汗まみれのくせに余裕の笑みを浮かべた一護が俺を見返してくる。
「んだよ、そのツラ」
と文句をつけると、
「テメーこそなんだ、そのツラ」
と一護は返してくる。
まるで夜が明けた時のようにどうしようもなく焦ってしまうのは、俺が未熟なせいなんだろうか。
戸惑ってる俺の何を察してか、一護が俺の髪を指で梳く。
そして小さく笑う。
「なあ、恋次。教えてくれよ」
「…何をだ?」
「桜の樹の向こうにいたのは誰だ? もしかしてテメエ、浮気とかしてたんじゃねえだろうな?」
「…オマエなあ」
深く、ゆっくりと突き上げられながら、それでも平静を装って俺は言葉を返す。
「テメエの夢の話とか知るかよ。つか浮気って何だ、テメエにその甲斐性があるのかよ」
「っせえ。んな話、してんじゃねえ」
髪に、こめかみに、頬にと唇を降らせる一護は今も変わらず頑固だった。
「なあ、本当にオマエは…」
「っせえっつてんだろ! んなに気になるんだったら、テメエじゃねえのか?
夢にまで出てきやがって図々しいったらありゃしねえ」
「…ッ」
からかっただけのつもりが、一護は腰の動きを止め、どすっと身体を落としてきた。
「オイッ、一護…?!」
「いや、オマエと同じぐらいの背だった…」
「じゃあ未来のテメエなんじゃないか?」
「……!!」
「うおッ?!」
いい加減、面倒くさくなって何気なく出した言葉に一護は大きく反応した。
マジでそう思うかと、真剣な眼で訊いてきた。
「…つか。それより先にこっちの方をどうにかしてくれ」
と繋がったままのところを指差すと、一瞬、目を白黒させた一護は、
「悪りィな」
と眼を瞑った。
それはとても柔らかい表情で、俺の後悔など吹き飛ばすぐらいの威力があった。
けれど俺の胸の中には一抹の不安が残っている。
本当に一護には何も見えてなかったんだろうか。
何も聴こえてなかったんだろうか。
全部分かって、その上で俺を受け入れたんじゃないだろうか。
だが訊いたところで答えが得られるわけも無い。
だから俺はその疑問は横に置き、今の一護を抱きしめ返した。
これできっと、今の俺の気持ちだけは伝わる。
そう自分に言い聞かせながら。
切り倒された桜の樹は、一恋お題の「喰らいつく」に出した遅咲きの桜。
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