夏恋



「…さて、と」

髪だけを残して身支度を整え終えた恋次は、襟に指を滑らせた。
戻ると約束した刻限まで、まだかなり時間がある。
急いて早く起き過ぎたかと手櫛で髪をまとめながら部屋の主を見遣ると、未だに寝台の奥の方に体を寄せたまま眠りこけていた。

「よく寝てんなあ…」

呆れ半分で一護の横顔を突いてみたが、全く反応がない。
まるで母親の腕の中で熟睡する赤ん坊のように無防備で、頬に恋次の指先をのめり込ませたまま一心不乱に寝入っている。

恋次は、一護の横に皺となって残る自分の身体の跡を見下ろした。
昨夜は遅かった上に眠りも浅く、疲労が身体の芯に残ってる。
できればまた布団に潜り込みたい。
そして一護に負けないぐらい朝寝を愉しみたい。
ふうと一息つくと、まるで恋次の思考を読み取ったように、一護がううと小さい唸り声を立てて身体を捩った。
うっすらと首筋に浮かんでいた汗が、珠になって肌を滑り落ちる。
寝台の端に腰掛け、顔に張り付いた髪の毛をそっと取ってやると、迷惑そうな顔をされたので、思わず苦笑が漏れる。

「…チクショ」

眠気が一向に取れない目を擦りながら窓の外を見上げると、雲ひとつない未明の空が広がっている。

─── 暑くなりそうだな。もう夏か。

昨夜のその瞬間、しがみつこうと一護の肩に走らせた指も、倒れこんできた背中を撫でてやった掌も、ゆるりと汗で滑った。
春が過ぎる頃まではそうやって素直に抱き込まれてた一護も、あっちいと呟いて恋次の上から退いた。
張り切りすぎるからだろと揶揄すると、テメエが一回だけとかケチなこと言うからじゃねえかとムキになりつつも、まだ荒い息の下、でもやっぱり一緒に泳ぎに行きたかったなと呟いた。
アホか、そんな暇があるわけねえだろ、明日も夜明け頃には戻らなきゃなんねえんだと突っぱねると、
そんなの分かってるし、大体もう明日じゃなくて今日だろと口を尖らせた。
情事後だけに見せる幼い仕草と甘えた口調に目を細め、いいからもう夜中過ぎてんだろ、早く寝ろと恋次としてはかなり優しく小突くと、テメエが遅く来るからだろと拗ねた顔を隠すように視線を逸らした。
その様子が余りにも所在なさげだったから、すまねえなと素直に謝ると、でもまあ来てくれたんだからそれでいいけどと顔を伏せたまま振り向き、抱きついてきた。

「…ったく。ヤバすぎだろ」

恋次は整いかけてた髪に指を突っ込んでぐしゃぐしゃと掻き回した。
あの瞬間、飛び込んできた一護の身体の細さに、心臓を鷲掴みにされた気がしたのだ。
なのに一護は、むりやり寝かされる形になったとはいえ、所詮は真夜中の子供。
さりげなく手を伸ばしてきたり、暑いと文句を垂れたりながら、恋次に抱きしめられたまま、あっさりと寝付いてしまった。
その汗まみれの寝顔が、溺れかけた自意識に止めを刺した。

恋次の完敗だった。
矜持と理性を総動員し、汗まみれの身体を抱きしめるだけに何とか留めたものの、今、思い出しても身体の芯が疼く。

─── よくもまあ手を出さずにすんだもんだぜ。

恋次は、湿った一護の肌の感触が鮮明に残る掌をじっと見た。
別に抱かれることに不満があるわけではない。
急ぎすぎる一護との閨事を愉しめるのはこちらの側だと謀ってのことでもある。
ただ恋次も男だし、余裕をなくしてきた最近では、焦る一護を組み伏せてしまいたいという衝動をギリギリで抑えることが多くなっていた。

無様なものだと自嘲せざるを得ない。
所詮は行き急ぐ人間との一瞬の逢瀬だと割り切り、覚悟していたつもりだったのだ。
それが年若い一護のためでもあるとも理解していた。
だが、葛藤に苦しみながらようやく朝を迎えた今でも、燻り続ける熱が腹の奥底で行き場所を探っている。
いっそ一護をどこかへ連れ去って、気の済むまで睦んでみたいと思っている。
いつからこんなに自制が効かなくなっていたものか。
このままでは副隊長の責務どころか、死神としての本分をも忘れてしまう夜が来るかもしれない。

「…マジかよ」

恋次は頭を抱えた。
死線なら何度も潜り抜けてきた。
自身を律することにも、我慢することにも自信がある。
死神として成長した自分と今の生活に満足もある。
何より、一人の男として決して譲れない目標がある。
だがどうだ。
たった一人の人間の少年に真摯に求められただけで、自分を押さえきれなくなってきてる。
今まで大切にしてたものを捨ててもっと思うままに生きてみたいと、違う方向を見始めた自分が居る。
こんな自分は知らない。

「…チクショ、呑気に寝てんじゃねえよ」

寝台に腰掛けたまま体を捻じって、元凶たる一護を見遣ると、今だ寝台の端に身体を寄せたまま安眠を貪っていた。
いろいろと我慢している自分が阿呆のように思えてくる。

─── クソ、叩き起こしてやれ。

恋次は勢いをつけて立ち上がり、一護の布団を剥ぎに掛かった。
端を掴んで思いっきり引っ張ると、布団を巻き込んでいた一護もゴロンと転がった。
しつこくしがみついてるのを無理やり振るい落とすと、大きく仰向けになり薄く眼を開けた。
やっと起きやがったかザマアミロと覗き込んでみると、うーと唸りながら思いっきり伸びをし、素っ裸のまま大の字になって再び眠りについた。
規則正しく健やかな寝息が耳につく。

─── こ、このヤロウ、俺を舐めてんのか…?!

恋次はキレた。
今はまだ一護が子供だから敢えて手を出さずにいるだけであって、
恋次だって一介の男なことには変わりは無い。
そこへこの仕打ち。
ただでさえ睡眠不足と不完全燃焼で限界ギリギリだったのだ。
警戒する必要もない腰抜けと思われては男が廃る。
せめてもの意趣返しに手を出して何が悪い。

恋次は不穏な表情を浮かべ、四つん這いの格好で一護の上に覆いかぶさった。
寝台が勢いよく揺れ、一護の体も軽く跳ねた。
括り損ねた髪が流れて落ち、一護の顔に掛かる。
だが一護は僅かに眉を寄せただけで、やはり眼を覚ます気配がない。

恋次は口元だけで笑った。
死神も副隊長も人間も何もあったものか。
油断してるのはテメエの咎だ。 このまま喰らってやる。

顔を近づけると、髪が一護の顔の周囲を染めた。
するとその赤色に、血塗れになって闘ったあの時の記憶が不意に甦る。
凶暴なあの高揚感が胸を満たす。
恋次の表情が恍惚としたそれに変わる。

だがそこで、恋次は不意に動きを止めた。
無防備に晒してくる寝顔の、片頬にくっきり残る布団の跡に気付いたからだ。
横向きに寝てたせいで、半開きの口元に薄く涎の跡まで残っている。
恋次は眉を思いっきり顰めた。

─── これじゃまるで本当のガキじゃねえか!

抱きに来るときのあの雄の匂いは何処へ消えたのか。
答えを捜し求めるように一護の身体に視線を走らせると、くっきりと明暗をつける朝日の透明な光のせいか、いかにも成長途中でまだ細い。
刀を振るう肩や腕はそれなりにしっかりと肉がついてきてるが、腰から尻、腿にかけては、骨の成長に追いついていないためだろう、まだまだ逞しさに欠けるし、
そもそも身体全体の厚みと幅が足りない。
昨夜、腕の中にすっぽりと収まったまま眠りについた一護の身体の感触も甦る。

─── コイツ…。本当にまだガキなのか…。

恋次は呆然と一護を見下ろした。
年齢のことは、特に閨事の時に揶揄の材料にはしていたが、
何にしても、命と、命より大事なものを掛けて闘った相手のことだ。
どこかで自分と同列以上だと思っていた。
だが無邪気に熟睡し続ける様子に、それは願望に過ぎなかったと思い知らされてしまった。
無防備に眠っているのもおそらく、恋次を信頼しているからに違いない。
そんな子供を自分はどうしようというのか。
呆然としたところに、一護が不意に笑顔を見せた。
何の夢を見ているのか、少しくすぐったそうに眉を寄せる。

「ち…」

我に返った恋次は両手両足を一護の横についたまま項垂れ、大きく深呼吸をした。
負けた、と思った。
昨夜に引き続き、完敗だった。
つまるところ、泣く子には勝てないと諭した先人は正しかったのだ。
理屈が通じない相手だと、結局、力にモノを言わせるしかないが、寝てる子供相手に腕ずくなど、恥でしかない。
ならばここは素直に手を引くしかない。
少なくとも大人を自負しているのならば。

「… ああクソ、止めだ止め! つかコイツ、絶対、自分が襲われるとか思ってねえよ!」

乱暴に、けれど抑えた声で吐き捨て、ふっと肩の力を抜いた。
コツリと額同士をくっつけると、鼻先から鼻先へと汗が伝って落ちた。

「…ちくしょう、起きろよなー…」

心細げにも聞こえる声が部屋に響き、窓から流れ込む蝉の声に重なる。
外ももう明るくなってきていた。

「…オイ、もう帰るぞー」

額をグリグリと押し付けてみたが、やはり瞼がしっかりと閉じられている。
結局のところ、寝ると決めた子供の強情さに勝てるものなどいないのだろう。
やっと諦めた恋次は、汗を拭いてやろうと一護の額に手を伸ばした。
と同時に、普段の一護が、似合わないからと額を出すことを極端に嫌うことを思い出した。

「そういや…」

情事の最中や稽古の時に目にしてるし、別に変でもないから、恋次としては何故そこまで一護が拘るかもわからないが、まあ微妙な年齢だしと、普段は放置していた。
だがそれはそれ。
こんな機会、めったに無い。
恋次は、先程までとは打って変わった愉しげな表情で一護の髪をかき上げ、額を全開にした。

「おおう、これは…」

恋次はぶぶっと思わず噴出した。
たかが前髪ひとつのことなのに、確かにずいぶんと印象が違う。
いつも髪型を気にしてるだけに、こうやって無造作に崩すだけで、子供っぽいというよりは、実年齢に相応しく、いかにも少年らしく見える。

「へぇぇ、こんなツラ、してたのか」

妙に感心して、髪をぴったりと撫で上げてみたり、逆に真っ直ぐ下ろして撫で付けてみたり、
調子に乗っていろいろ試してみた。
されるがままの一護が、汗まみれで幸せそうな寝顔なだけに、もはやいたいけと呼んでいいほどの様子で更に笑いを誘う。

「…うん、やっぱコレが一番だな」

ようやく納得できたのか、恋次は手を止めた。
このまま気付かずに階下に下りて、妹たちに笑われてしまえばいいと、ほくそ笑みつつ上半身を起こし、ようやく一護の上から下りようとした。
すると何かがクイと引っ張られた。
そして、
「…恋次?」
とようやく一護が眼を開けた。
だから恋次は四つん這いに体勢を戻し、マヌケな髪型のままの一護の顔を覗き込んだ。
必死に真面目な顔を取り繕う恋次に、なんとか寝ぼけ眼の焦点があった。

「ん…、恋次…?」
「よう。やっと起きたのか」
「テメエ、そこで何を…」
「何でもねえよ。つか起きろ。俺はもう帰るぜ」
「え…? って、うおおッ?!」
「…?!」

今、ここで悪戯のことを気づかれては不味いと、素知らぬ振りして一護の上から下りようとしたのだが、一護がいきなり甲高い声を上げたので驚いて動きを止めた。

「…んだよテメエ、いきなり妙な声出しやがって…って、何だこりゃッ」
「そりゃあコッチの台詞だろッ、つか動くな、折れるッ」
「テ、テメエ、俺の帯になんてことをッ!!」
「煩せぇ、痛てェっ、クソ、動くなっつってんだろッ」

恋次と一護が共に叫んだのも無理は無い。
アレコレと恋次が悪さをしてるうちに、腰から垂れ下がった帯が、朝を迎えた一護のそれに絡まりついていた。
それを驚いた恋次がむりやり逆方向に引っ張ったものだから、一護としても堪ったものではない。

「止め…ッ、クソ、動くな!」
「テメ…、ひとの帯で何、おっ勃ててんだッ…!!」
「お、帯は関係ねえだろ、朝なんだから! つか! 痛い、引っ張ってるって!」
「いや、テメエのことだ…、もしかしてそのせいで寝てるときもニヤニヤしてたのか?!」
「ニ、ニヤニ…ヤ…!?」
「赤くなってんじゃねえか。図星か!」
「ち、違…っ、ただの生理現象だろッ!!」

だがしかし、輪になった部分を中心に絡まった帯は明らかに一護を二重三重と刺激しているらしく、恋次が解こうとすると過剰に反応した。

「クソ、テメエ、大人しくしやがれ」

ここで吐き出されては死覇装が汚れてしまうと、恋次は一護の根元を思いっきり締め付け、帯を外しに掛かった。

「うぐ…、痛てえだろッ、テメエ、もうちょっと丁寧に扱えよな、俺の大事な…」
「大事な何だ? 変な汁出しやがって…」
「へ、変って…、ぐふッ!!!」

恋次は、一護が絶句した隙を突いて、邪魔だった上半身を蹴り倒し、ようやく帯紐を外した。

「ふう、やっと取れたぜ…って、テメ、この野郎! 染みが付いてるじゃねえか!
 この帯、下ろしたてなのに、クソ!」
「…いい気味だ、もっと付けてやる! 貸せ!」
「うおッ、テメエ、何しやがるッ」

膝立ちのままの不利な体勢のうえ、裸の身体というのは掴むところが無く、恋次はあっさりと一護に帯を奪われた。
その上、上衣の袷を捕まれたまま蹴りを喰らったから、後ろ手を付いた拍子に、はらりと前が肌蹴た。

「…よし」
「よし、じゃねえだろ! せっかく着たとこなのに何しやがるッ」
「っせえ! 俺も裸なんだからオマエも脱げ!」
「はぁ?! 真っ裸でおっ勃てたまま、訳の分からねえ理屈、捏ねてんじゃねえ、この変態ガキがッ!!」
「へ、変態ガキィ…?!」

恋次に続き、一護のこめかみに筋が浮き上がった。
そしていきなり膝立ちになって恋次に圧し掛かってきた。

「うっせえッ、俺を変態にしたのは誰だ、テメエだろ! なら脱げッ!」
「ぬ、脱ぐかッ、そんな理屈で脱いで堪るかッ!!」
「いや、脱げッ! 今すぐ脱いで素っ裸になれっ!!」
「脱がねえ! 絶対、脱がねえぞ! …つかテメエ、折るぞ!」
「う…ッ?!」

思わず前を庇って怯んだ一護の隙を突いて腹に軽く一発決め、恋次はあっさりと寝台から抜け出すことに成功した。
気をよくして裾を払い仁王立ちになり、思いっきり見下ろすと、一護は帯を手に、寝台の上にどっかりと胡坐をかいて、ふいと明後日の方向を見た。

「オイ。返せよ、帯」

ほらとばかりに手を突き出したが、一護の反応はない。

「オマエな…」
「つかテメエ、何してたんだよ」

いきなり調子を落とした声に、恋次は戸惑った。

「…?」
「なあ、恋次。帰んのかよ、本当に?」
「あァ…? 帰るっつってんだろ。時間なんだから」
「じゃあ何してたんだよ、さっき! 俺の上で!」
「…っ!」

しまったとばかりに慌てた恋次に、一護は畳み掛けた。

「ほら、やっぱり何かしてたんじゃねえか!」
「…」

いやもうそりゃあアレコレと面白い髪型にしてやっただけで、オマエが期待してるようなことはなーんにもなかったけどなと、それ以前のことは棚に上げて、恋次は心の中で呟いた。
とはいえその髪は、暴れたせいですっかりと普通にボサボサに戻ってしまっていて面白くもない。
俺の努力はパァかよと天井を仰ぎ見た恋次に、誤解したままの一護は枕を投げつけた。

「いてッ、何しやがる!」
「クソ…、俺、よく分かんねえよ」
「あァ? 何の話だ?」
「俺、寝てたけど、でも恋次の気配がしてた」
「…したから、何だよ?」
「だから…」
「…?」
「だからすっげーいい夢見てたのに」

ぶつぶつと呟きながらも今更、正気に戻ったのか、一護はもぞもぞと布団を引っ張り、既に収まり始めてた前を隠した。

「でもオマエ、そういうの全然、分かんねーし」
「…全然ってことは無えと思うんだが」
「いや、分かってねえ。俺のこと変態って思ってるし」
「いや、本気でそんなことは思ってねえって…」
「ヘンなことしてるし」
「し、してねえッ!」
「ほら、動揺してんじゃねえか! クソ、もういい」
「一護…?」

いまや本格的に拗ねて布団を被りこんだ一護の顔は見えない。
全く、子供の考えることはさっぱり分からないと、恋次は肩を落とした。
ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、褒めれば付け上がり、諌めれば拗ねる。
確かに自分も潜り抜けてきたこの時期だが、いまさら思い出せるわけも無い。
かといってこのまま放って帰れば、どこまで曲がっていくのかも分からない。
何故にこうも難しいのか。
そして恋次は腹を決めた。

「…一護。暑くねえのか、布団被って」
「…」
「オイ、暑いんだろ?」
「っせえ」
「オラ、布団から出て来いって」
「うおッ、テメエ、何しやがる!! って、恋次、オマエ…」
「なんつーツラしてやがる」
「な、何でいきなり脱いでんだッ!!」
「あんだけ見せ付けられたら、そりゃあもうやるしかねえだろ」
「やる…? って、見せつけ…!!!」

ぼっといきなり顔を赤くした一護に、恋次は思わず苦笑を零した。

「んだよ、今更。もう使いもんになんねーってか?」
「いや! いや、そんなことはッ」

焦って頭をブンブン振りまくる一護に、ついに恋次は爆笑した。

「んだよッ!!!」
「何でもねーよ」
「じゃあ笑うなッ!」
「ハハッ、そりゃあ無理だろ。ハハハハハ!」
「くそ…」

それでも恋次は目尻に涙を浮かべながら、むしゃぶりついて来た一護を抱きかかえ直した。
そして、お約束とばかりに一護と耳元でその名を囁いてやると、戸惑いながらも、恋次、と熱の篭った声で呼び返してきた。
その単純さと熱さを全身で確かめつつ、恋次はゆっくりと身体を横たえた。

そうだ。
急いでどうする。
どうせ直ぐに大人になってしまう。
そして追い越していってしまう。
ならば、もう少し子供でいてもらおうじゃねえか。

恋次はそっと一護の頬を撫でた。
さっき泣いた烏はどこへ行ったやら、一護はすっかり雄の顔へと変貌して、
「恋次」
と再びその名を柔らかく呼んできた。
その変貌が愛しくもあり、可笑しくもあり。
だからやっぱり水を差せずにはいられない。

「四半刻だ」

耳に囁きこむと、案の定、一護は眼を白黒させた。

「へ…?」
「あと四半刻で戻るから」
「四半刻?! 四半刻って言ったら、えっとえっと…、30分もねえじゃねえかよ!」
「オウ、よく覚えたな。テメーが無理やり脱がせた着替えも込みなんで、その辺、よろしく」
「マ、マジかよ!」
「じゃあ止めるか?」
「止めるかッ!」
「だろうな」

クスリと笑うと、一護が不機嫌そうに鼻を掻いた。
だから、
「ま、テメエなら大丈夫だろ」
と挑発的な声を掛けると、
「あ、あったりめえだ!」
と焦った声が返ってきた。

「だよな。速さには定評があるもんな」
「は、速さ?! 褒めてねーだろッ」
「いやいや褒めまくり。だから早く来い」
「んなの、褒めてるって言わね…って、うわッ、引っ張るなッ」
「分からねーか? さっさと来いって言ってんだよ。いつまでも待たせるな」
「…う…」

こくりと素直に頷く様子が可愛すぎて、恋次はまたハハッと声に出して笑った。
一護は少し恨めしそうに恋次を見上げたが、しはんこくだけだもんな、と自分に言い聞かせるように呟いた。
そんな一護を恋次は愛でながら、胸の奥のほうが充分以上に満たされるのを感じた。
が、一方で、一護の感情に一喜一憂する自分も可笑しくて、甘やかされるのに慣れたのはテメエだけじゃねえぞと耳に吹き込んで八つ当たりをしてみた。
するとぼっと一護の頬が朱に染まった。
恋次は、とても奇麗だと思った。
けれど夏の朝は早く、直ぐにその色を変えてしまうのだ。
ならば急がねば。
恋次はその欲が指し示すまま、物言いたげな一護の唇を塞ぎ、
結局、二人はその朝、それ以上の言葉を交わすことはなかった。



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