砂の海に溺れ、鏡面のような陽炎を見た。
触れた指は、溶けるように沈んで感覚ごと消えた。
雲に滲んだ影が耳を塞ぎ、吹きすさぶ風が視界を奪っていく。

さあ、眼を開けろ。
自由になるものなどこの世には何一つない。
あの月でさえも、重い鎖で天に繋ぎ留められたまま、身じろぎできずに苦しんでいる。




劣化する世界の淵で




「恋次…?」

俺に気付いて振り向いた一護の声は、いつになく静かだった。
大きく見開かれた眼が一瞬、潤んだように見えたのは錯覚ではあるまい。
だってほら。
指先が震えてる。
らしくねえ。

「本当に…、本当に恋次、なのか? いつ、現世に戻って来れたんだ?
 ヤツは…、ヤミーの野郎は倒せたのか。他の奴らはどこに居る?
 こっちは最悪だ。アイツ、強すぎる。隊長格も歯が立たねえ。
 …つか、何なんだよ、その格好。なんかヘンじゃねえか?
 霊圧も全然、感じらんねえ…。オマエ、一体どうしたってんだよ?!」

くしゃりと顔を歪めた一護は、
駆け寄っても来ずに、曖昧な問いを次々と繰り出した。
俺は答えない。
答えるための声がない。

「オマエ…、恋次だよな?」

非日常に紛れ込んだ日常的な問いなど、意味を成さない。
まるでこの世界と同じだ。
足元に広がる複製された空座町の瓦礫と、その上に立つ傷だらけのお前と、そして天を覆ういつも通りの無表情な青空と、影になってしまった俺と。

「…恋次? 何か言えよ」

何か自分を安心させることを、か?
焦ってるのか。
声がずいぶんと上ずってるぜ?

「…何か言えって言ってんだろ…ッ!!」

聞き分けのねえヤツだ。
一体、どうした。
何をそんなに焦っている。

真っ直ぐすぎるそのまなざしに、俺はコイツのこういうところが死ぬほど嫌いだったんだと思い出す。

「く…そッ」

言葉を諦めた一護の顔が歪んでいく。
拳を握り締め、呆然と立ち尽くしたまま。

いつもだったら駆け寄ってきて胸倉を掴むなり、殴ってくるなりしているだろうに。
昔からこんなガキくさいツラをしてただろうか。
それともこれは俺の知らない一護なんだろうか。

「恋次ッ!!」

今更ながら、「昔」「いつも」などと表現することができるほど、俺は一護のことを知らなかったことに思い至る。
共に過ごした時間など一瞬だ。
互いを理解できたわけもない。
その証拠にほら、耳を劈く怒鳴り声もどこか遠くに聞こえる。
だから、ただの影になった俺は、ただじっと一護を見つめ続ける。

── つまりどちらにしても、この一護はやはり俺の知らない一護だ。
ならばこの俺のことも一護は知らないんだろう。

確信が戸惑いを呼び、足元が揺らぎだす。
視界も歪む。

「なあ、恋次」

一護が訝しげに俺を見ている。

「オマエ、本当に恋次だよな?」

不安そうに寄せられた眉と、薄ら笑いのように歪んだ口元を目にして、実体のない俺の顔から苦笑が消えた

── 一護が壊れ始めてる。

ようやく現実を認識した俺に、一護の幼いままの心が重なり始める。

不安、恐怖、生への渇望。
勝利を望む欠片は、心の奥底で息を潜めている。
その場を逃げ出したい衝動と必死で闘っている。

物事の境界が曖昧になり、一護の輪郭も、俺の存在もぼやけてくる。
これは崩壊の兆し。
俺は、疼きだした指先を必死で留める。
そして一護を見据える。

─── 知っているか、一護。
隔絶と拒否だけがその先の時間を約束してくれることもある。
過ぎた理解は破滅を加速しうるからだ。

一護の押し殺した悲鳴が俺の中で響き渡る。
だが俺の声は一護に届かない。

─── 一護、俺の声を聴け。そしてもう止めろ。
俺に構うな、俺を見るな。
他のヤツにも構うな。
自分の命と、一番大事な家族のことだけ考えろ。
逃げろ。

だか一護は、瞬きもせずに俺の眼を覗き込んでくる。
凍りついたように動かない。
瞳の中には、影になって揺れる俺の姿が映っている。
その姿がさらに一護と重なる。

もう俺が俺なのかも分からない。
これは誰だ。
あれは誰だ。
存在に力が無いのなら、意味さえもないのか。
わからない、もう何も分からない。
世界が消えていく。
一護が消えていく。
これでは何も残らない。
俺が俺である術もない。

恐怖に呑まれ、足元から存在を失いそうになった瞬間、声が出た。

「一護…ッ!!!」

声に出してしまった。
この世界に触れてしまった。
一護が目を見開いた。
俺を見つけた。

「…恋次?」

崩壊が始まった。
さらさらと崩れ落ちていく世界の中心で、欠落した瞳が俺を見ていた。
俺も空虚のまま、一護を見つめた。
空間が自身の圧力で破裂しそうになった。
バラバラと粉になって降り注ぐ破片が、伸ばしかけた腕に刺さった。
やっぱ恋次だったんだなと笑んでみせる一護の顔が歪んで見えた。
そして俺は存在ごと歪む。
臨界点はそこだ。
俺はこの世界から消える。
砂に沈んでいくあの身体に戻ってしまう。
間に合うか?
腕を伸ばす。
指を伸ばす。
去り往くお前に間に合うか?
せめて爪の先でも。
せめて一目だけでも。
あと一秒だけでも。
たとえ時間に意味が無いとしても。


「恋次…ッ」
「…一護」


そして再び世界は乖離した。
俺は砂の海に戻った。
確かにあの時触れた一護の指先の感覚はまだ残っているというのに、ざらりと口の中に流れ込んでくる砂は鉄の味で俺の意識を封鎖する。
手足も動かず、痛みさえももう感じない。

鉛のように重い瞼をなんとか上げて、眼球だけ動かして空を見る。
月が見えない。
偽りの青空が広がっている。
その向こう、あの崩れゆく世界であの少年は一人、永劫を過ごすのだろうか。
せめて俺がそこに居てやれたらいいのに。
他の誰でもなく、この俺が。

だが閉じた瞼の裏に広がる闇は夜のように濃く深く、俺はその深遠へと堕ちていくしかなかった。




意識を失う寸前の恋次が現世で闘う一護に意識を飛ばしてたらいいのにという妄想。
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