漆喰の壁に掛かる能面。
よくある装飾と、最初の頃は気にも留めなかった。
が、何故か白い頬に黒子。
蟲でもいるのかと寄って見れば、黒く変色した血と思しき一滴。
誰のもので、何の理由で、何時からそこに在る。

拭いきれない異物感。
まるでこの広大な屋敷に紛れ込んだ自分自身のように。
 

 
白皙の面
 


「何をしている」

背後から唐突に声をかけられて、恋次はびくっと肩を震わせた。
白哉が霊圧も気配も何もかも消すのは日常のことだが、
物思いに耽りすぎていたせいで、そのことさえ失念していた。

そうだった。
ここは朽木邸。
綿々と時を紡いできた歴史の一端。
どんなものが潜んでいてもおかしくはない。

白く塗り込められた漆喰の壁にかかる白い能面。
座敷に反射した初夏の日差しが、面を下方から照らしこみ不気味さを誘う。
舞にでも使うのか、あるいは只の飾りか。
一見、無表情なその小面。
微かに吊り上った口角が雄弁で、
空ろな表情の向こうに、隠された感情を、作者の意図を邪推してしまう。

「その小面がどうしたというのだ」

再び、びくっと震える恋次の肩に気付き、白哉が薄く苦笑する。

「・・・これ、血ですよね」

無言の肯定。

「なんで拭き取らないんですか?」
「知らぬ。この面は私の物心がついたころからこうして此処にある。
 血が付いていようがいまいが只の面に過ぎぬ」

白哉は、面に魅入る恋次の常には見せぬ思いつめた目つきを訝しく思った
何の面白みもない小面だが、紅い眼を通すと何か異なって見えるのものか。

悪戯心がふつりと湧いた。

「・・・・・言い伝えなら掃いて捨てるほどある。
 何代目かの当主の妾が自刃したときに飛び散った血で、拭っても削り落としても浮かび出てくる。
 或いは、狂った当主が手当たり次第に殺し回ったときの血の一滴だと。
 跡継ぎ争いに巻き込まれた母親の血だという説もあるな。
 だが一番信憑性の高いのは、その面を付けた跡継ぎが重責に耐え切れず・・・」

「ああ、ああもういいですっ!!」

白哉の予想通り、恋次は焦った表情で話を止めた。

「だから言ったであろう。与り知らぬことだと」
「つか俺には何でそんな因縁塗れのモノをこんなとこに平気でかけておいて、
 しかも与り知らぬ、とか涼しい顔で言い切れるのか、そこがわからねえですっ」

白哉は恋次との距離を一歩詰めた。

「では貴様ならどうするというのだ」
「俺だったら蔵の中に仕舞うとか捨てるとか、やっぱり供養するとか、
 わかんねーけど、いろいろあるでしょう、やってやれることが!」

白哉の眼差しが一瞬和らいだ。

「なるほど。手間をかけろというのか、たかが一面に。貴様らしい愚鈍な答だ」
「・・・・・!」
「興味はない。古の遺物だ。捨てておけばよい」

そう言いつつも白哉は壁へと近づき、陶器のような指で面の鼻梁を辿った。

能面と白哉の指の白色が重なる。
そうしてみると、人として信じられぬほど白いその指にも淡く色があった。
やはり血が通っているのだと言わずもがなのことを感じる自分がますます愚鈍に思え、
恋次は何やら居たたまれない心持ちになった。

「古来」

低く、しかしよく響く白哉の声に恋次は顔を上げる。

「古来、人の創り出すものは心の一片。何が宿っているか知れぬ」

そう言って、面の頬にある血跡に指を乗せる。

「情念かもしれぬ。怨念かも知れぬ。あるいは愛とやらかも知れぬな」

カリ、と爪先が、真白の塗料ごと血を削り取った。
黒い点に成り代わって、削れたばかりの新しい木肌が姿を見せる。
そして白哉の爪と指の間に、泥のようなものが詰まった。
白い塗料と木地、そして古い一滴の血。

なんだ、ちゃんと取れるじゃねえですか、ヘンなことばっかり言って脅そうとしたでしょう。
そう条件反射のように文句を言おうとした恋次は、はっとした。

取れるものだったら何故そのまま放置してあった?
そのままにしておきたかった理由があるのか?
あるいは何か因縁のあって取るなと伝えられていたものなのか?
ではそれを削り取った今、何が起こる?
何故この人はそんな無謀を犯した?

魅せられたように凝視し続ける恋次の視線を意識した上で、白哉は爪先を口に含んだ。
恋次の、ひっというような息を飲む音が響く。

「ただの古い血だ」

白哉はひっそりと薄く嗤う。
呆れるほどの横着さと、哀れなほどの従順さを併せ持つ部下が怯えている。
古いだけの血には出来ることはないというのに、
ましてや本人には何も支障はないというのに怯えている。
その哀れさが何とも言えぬ。

「た、隊長、今すぐ吐き出してくださいっ」

恋次はすぐさま駆け寄ってきて、失礼しますっと叫びながら白哉の口に指を突っ込む。
白哉は恋次に為されるがまま、抵抗もしない。
恋次はその赤い舌の上に残る血の塊を掻き出そうとしたが、もちろん何も残っていない。
塊というよりは、ただの残滓だった。
唾液に溶けて混ざって消えてしまった。
呆然と指を引こうとする恋次の手首を掴んで白哉が問う。

「貴様も試してみるか」

何を、と掠れた声で聞き返す恋次の手首をきつく掴んだまま、指を口に含み直す。

「あれは妄執。昇華しきれずいつまでもあの面に張り付いていた」

指先を愛撫される甘さよりも手首を締め上げられる痛みに、恋次は眉を顰める。

「だがもう私の内にある」

白哉は瞬きもしない。

「貴様にも分けてやろう」

雪ほども白いと思っていた指が恋次の死覇装の合わせを掴み、ぐっと体ごと引き落とした。
耐え切れず、恋次は思わず両膝を、次いで両手を畳に付いた。
その正面、白哉は流れるような動作で片膝立ちに座し、紅い髪の束を掴んで恋次の背へと引き下ろす。
突然の乱暴に驚愕を隠せぬ顔が上向いたのを幸い、視線を合わせたまま白哉は口唇を落とした。

「・・・・・ふ・・・んんっ・・!」

有無を言わせぬ強引さで、白哉の熱い舌が侵入してくる。
髪が肩甲骨に近いところに固定され、喉が空に晒される。
混ざり合う唾液を奇妙に苦くするのは、先ほどの面の塗料か、或いはあの黒ずんで乾いた妄執の一滴か。

目の前の白哉の顔と、その向こうの小面とが奇妙に重なり幻影となる。
まるで小面に口内を犯されているような生理的嫌悪を覚え、恋次の身体が強張った。
白哉は構わず口付けを深めた。

粘つく水音を残して、白哉が恋次を解放した。
無理な姿勢に、けほ、と軽く咳をして顔を横に逸らす恋次に、

「何だ、もう毒が廻ったか」

と、白哉が薄く笑む。
その邪気の無さに、常とは異なる鋭い視線に、恋次は奇妙な違和感を覚えた。

まさか本当にこの人は本当にあの小面に宿った妄執とかに乗っ取られたのか?

在らぬ疑念が胸を横切る。
不安に鼓動が速くなるのを止められない。

両手両膝を付いた姿勢そのままの恋次の頤に、白い指がかかった。

「痺れてきたか?」

指が喉筋を伝って下り、ぐっと鎖骨の窪みを指先で強く圧迫する。
痛みに恋次が顔を顰めたのを見て、

「まだ効いておらぬようだな」

と白哉は恋次の顎を掬い様、掌底で軽く胸を突くと、
呪でもかかったように強張ったままだった恋次の身体は、ざざっと酷く荒い音を立てて畳に無様に倒れ込んだ。

「構わぬ。今すぐ喰ろうてやろう」

為す術もなく仰向けに寝転がった恋次に白哉はゆっくりと覆いかぶさり、指を恋次の乱れた襟に滑らせる。
大きく合わせが開かれると、午後の黄ばんだ陽光が照らしこみ、肌の色の明るさと墨の黒さを奇妙に調和させた。

事の成り行きを掴みかねている恋次に白哉が、

「貴様の望みどおり供養をしてやろうというのだ。ただし供物は貴様だ」

と透明な笑みを見せた。

やっと恋次は悟った。
白皙の面の奥に潜んでいた鬼の本体が顕われたのだ。
あの黒い血の一滴は、鬼を封じていた呪。

鬼をわざわざ起してしまったのだと己の愚鈍さを酷く悔やんでももう遅く、
我が身が新たな封印として供されるのを、どこか遠くから見つめるしかなかった。






2007.06.25 <<back