いちしの花 3


記憶に甦るのは、月下に咲き誇る曼珠沙華の一群。
鮮烈な緋色に白哉は魅せられたが、歩みを止めることはなかった。
やがて秋が深まり、夜を歩く白哉の足元を照らすようにあちらこちらに咲き誇っていた曼珠沙華も、 誘い合うように次々と枯れて消えていった。
それを寂しく思い、花の消えた後を見つめ暗闇に立ち尽くす自分を不思議に思った。
以前、確かに白哉はその花を嫌っていたのだ。
秋になれば禍々しいほどの赤で一面を染める。
華やかな外見の内側に潜めた毒で周囲の草本を駆逐し、自らの根を広げる。
その周囲では彼の好む密やかな秋草も徐々に姿を消すのが見受けられた。
その様がどうにも厭わしかった。
まるで嘗ての妻が消えた様に似ていて、 あるいは本人の意図せぬところとはいえその強さで周囲を遠ざける自分を思わせて、 所詮相容れなかったのだと諭されているようで、煩わしくてかなわなかった。

だがいつのことだろう、その鮮やかさに素直に心惹かれるようになったのは。
毒を持つことで忌避され、 そのくせ飢餓の折には食物と頼りにされ、 死人花、狐花などと揶揄と畏怖交じりの名で呼ばれながらも、 我関せずとばかりに野に咲き乱れ、やがて枯れ往く。
葉は花を見ることなく、花は葉の存在を知ることなく、ただ季節を繰り返す。
そのすれ違う様は、まるで人の営みのようではないかと白哉は思った。
ならば忘れ去られることの無きよう、その一瞬を鮮やかに咲き誇ろうとするのが人の常というものではないか。
白哉の脳裏を、曼珠沙華より鮮烈な恋次の深紅がよぎった。
あの愚かな男ならば、己の在り方のせいで摘み取られ命を縮めようと、いっそ本望だと嘯くだろう。

だからだろうか。
曼珠沙華の緋色が野から姿を消した今頃になって、遥か昔に買い求めた貝紅の存在を思い出したのだ。
その日、蔵に収まったままだった亡き緋真の遺物の中から探し出させると、当時の記憶も静かに甦った。
虚飾を好まぬ妻だったが、こと女のことに関しては不器用すぎる白哉の気持ちを慮ってか、 あるいは素直にその心を喜んでか、夜店で衝動的に買い求めたそれを、 春になって外出できるようになった折には必ずつけるのだと柄にもなくはしゃいでいた。
その小さな手に収まる貝紅を見て、 長い間、病の床に臥していた妻の肌にその鮮やかな赤はまだ強すぎると後悔したが、それも杞憂に終わった。
妻は冬が消えぬうちにこの世界を去り、紅を差すこともなかった。

長い間、蔵の暗闇の中で閉じられたままだった貝を開いてみたとき、 共に内包されていたあの時間が空気に溶け出した気がした。
もう何も残っていない。
貝底に色を変えたまま時を過ごしたその艶紅に、全て終わってしまったことだと思い知らされた。
永い永い喪は既に明けていたのだと、白哉は真昼の空に浮かぶ白い月を見上げた。
それは不思議なぐらい、艶紅を護ってきた貝殻に似ていた。




「曼珠沙華ってこたァ、毒じゃないですか?!」
「・・・・そうか?」
「そうですよ! 食えるけど、ちゃんと水で晒さないと死ぬんっすよ!」
「貴様なら大丈夫だろう」
「んてこと言うんですか!」

慌てて口元を拭おうとする恋次の手首を、白哉が止めた。
その細い指にこもる余りの力に、恋次の眉間に皺が寄る。

「毒なぞ残ってはおらぬ。大量の水を用いて紅は精製される」
「あ・・・、そっスか・・・」
「貴様は」
白哉はひっそりと嗤う。
「私が毒を盛るような輩だと思っているのだな?」
「まさか」
恋次は苦笑で返す。

「舞え」
「は・・・・?」
「せっかくの紅だ。化けてみせろ」

茫然自失といった感の恋次に、白哉は眼を伏せた。
花を摘み、毒を抜き去り、それを純粋な色に昇華させて何になる。
欲しいのは花。
何よりも鮮やかに咲き誇り、やがて枯れ往く花。
時を越えて変わらずに残るというならば石と変わらぬ。

「いや、詰まらぬことを申した」
「・・・アンタやっぱり、訳、わかんねえ」

白哉の内心を知らぬ恋次は、ついと顔を逸らす。
その横顔に艶紅が色を添えているのを見て、白哉はひっそりと嗤う。
そもそもこの男に化けられて困るのは己ではないか。
粗野を粗野のまま留め置こうとする子供染みた衝動を止められずにいる。
己の他に誰一人としてその艶を知らぬことに満足する自分を知っている。
そしてそんな白哉を知りながらも許容することで無自覚に縛ってくる恋次の愚かさを手放せずにいる。

胸中を明かさぬ代償にと、常ならぬ柔らかい笑みを白哉が零す。
その笑みに恋次は無事、役を演じきったと胸を撫で下ろす。

灯火が消え去った後の闇には、無為に塗り重ねられた在りし日の紅ももう色を為さず、晩秋の夜はただ深まっていくだけだった。




「壹師花(いちしのはな)」は万葉集に出てくる曼珠沙華の別名とも言われてるけど曼珠沙華かどうかは諸説紛々。
「いちし」=「いちしろく」=「著しく、明白な」で、人に知れ渡ること、鮮やかなことを示す言葉。隠してたのにばれちゃったー的な。
つまるところフェチくさい話ですみませんということです。
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