殻
ぽつ、と頬にひとつ、水滴が落ちてきた。
見上げれば透き通った青空と、風に揺れる木の枝。
夏を目前にして厚みを増した葉は、太陽の光を受けて新緑の明るさを一時的に取り戻している。
そして先程の通り雨が残した水滴が、縁飾りのように葉を取り巻いて光を弾いている。
歩を進めれば湿った恋次の草履の下、水分を含んだ砂利がざりりと鳴った。
前を行く上司の足音は、まるで雲の上を行くようなひそやかさ。
確信に満ちた静かな歩み。
絶対の意思で、一歩、また一歩と前へ進むその迷いの無さ。
手を伸ばせば届くほどの距離。
だが果てしなく遠く、間にある雨上がりの透明な空気にさえ伸ばす手を弾かれるように感じる。
言葉では到底表せない。
入り組みすぎて自身でも計りきれないのだから、仕様がない。
だから恋次は、ただその想いを六の文字を背負う後姿に静かにぶつける。
が、不意に白哉は足を止めた。
気づかれたかと、恋次は動揺した。
しかし白哉は振り返ることもなく、ただ立ち竦んでいる。
「・・・・・どうかしたんっスか、隊長」
横に廻ってみると白哉の視線の先、足元には親指ほどの大きさの蝸牛。
のろのろと、ようやく視認できるほどの速さで小径を横切っている。
「さっきの雨で出てきたんでしょうかね」
白哉は相槌さえ打たないが、そんなことには慣れきっている。
恋次自身も饒舌ではないが、独り言のように話を進めるのにも慣れきっている。
そしてそれを白哉が嫌っていないことも、理解するようになっていた。
「で、この蝸牛が通り過ぎるのを待つってことっすか?」
少しの揶揄を込めて恋次が訊くと、冷たい視線が返ってきた。
僅かでも反応を引き出せた恋次は心の内でほくそえんで、言を重ねる。
「日が暮れちまいますよ?」
陽は中天を過ぎたばかり。
だが 午後の予定は詰まっていて、既に時間は押している。
白哉らしくない振る舞いに、正直、恋次は苛立っていた。
だからこその挑発的な物言い。
「脆い殻だ」
はぐらかすように、白哉が呟いた。
意味を掴みかねて恋次が白哉を見ると、
「このように薄くては、己の臓物さえ守ることも叶わぬ」
と言って、足元の蝸牛を摘み上げた。
砂利を粘着したままの蝸牛の本体が、慌てて殻の中に潜ろうとする。
それを白哉は陽に透かした。
恋次にも、殻の中の螺旋が見えたような気がした。
そして白い陶器のような指の先に、力がこもったように見えた。
ぐしゃり、と蝸牛の殻があっけなく崩れる。
粘液混じりの奇妙な色合いの本体が、固体から液体へと姿を変えて輪郭を失くす。
先ほどまで確かにあった命が消え、吐瀉物のように流れ出して白い指を汚す。
その滑りと冷たさが、
薄い殻が突き刺さる微かな痛みが、
滴り落ちていく臓物だった液体が、
見ているだけの己の指にも伝う気がした。
不意に、己が手にかけた幾体もの屍を思い出す。
潰れて命を失ってしまえば、人も蝸牛も何も変わらぬ。
行き着く先は、ただの腐肉。
だから心中に湧き上がるのは、無為に失った命への憐れみではなく生理的嫌悪。
「・・・・隊長!」
大声を上げた恋次を見遣った白哉の指には、先ほどの蝸牛が元の形のまま在った。
幻かと慌てて目を擦る恋次に、
「何を呆けている」
と、うっすらと白哉が笑んだ。
「夢でも見たか」
その悪戯めいた笑みに、潰れた蝸牛の幻影は仕掛けられたものだと知った。
「・・・アンタ、タチが悪ィ」
せめてもの反抗心を見せて恋次が呟くと、
「ようやく理解したか」
と、殻の中に収まった蝸牛をころりと掌上で転がす。
「このように脆弱な殻など、いっそ脱ぎ捨ててしまえばよい。
そうすれば愚鈍な動きを己に許すこともなくなるだろう」
また勝手なことを、と恋次は心の内で毒づいた。
脆弱だろうがなんだろうが、それなりに中身を守っている。
無くなったら、この弱々しい生き物は死んでしまうのだ。
「・・・それでも、こいつらはこうやって生き延びてきてるんですよ」
恋次は近寄って、白哉の掌から蝸牛を救い出した。
「中身をこうやって薄い殻で精一杯守って、のろのろと前に進んで。
何の力もねえ、狩られる一方の生き物だ。
でもそんなの、こいつらのせいじゃねえです。
こいつらだって本当は硬い強い殻を持ちたいと思ってるんじゃないですか?」
思いがけぬ饒舌に恋次自身は戸惑ったが、白哉は動じる風もない。
「薄い殻で己を包み、安穏としている輩ばかり。
何かを求めてるようにも見受けられぬ」
白哉が恋次の眼を真正面から捉える。
「守りに徹するというのならばそれもよかろう。
殻を厚く硬く、何者にも打ち破れぬようにすればよい」
揺らぎない瞳。
光がその奥でざわめく。
正論過ぎて高慢に響くその言葉に、何やら形のつかぬ感情が恋次の腹の奥底でふつりと湧いた。
「俺はそんなのゴメンっすね。いっそ剥き出しの方がいい。
殻を厚くして縮こまるなんて、そんなクソつまんねえ生き方」
白哉は薄く笑い、踵を返して背を見せた。
「参るぞ。刻限が迫っている」
涼しい顔をして言ってのける白哉に、遅れたのはアンタのせいだろと恋次は怒鳴りたくなったが、
高揚した気分も言葉も怒りも飲み下して、蝸牛をそっと側の藪に放り投げると、かさ、という音がした。
命の重さに比例するわけでもないのに、いやにその音の軽さが耳に触る。
「並べて内面など脆弱なものだ。殻は在ったほうが良いし、厚いに越したことはない」
背を向けたまま白哉は言う。
恋次は思わず、じゃあアンタはどうなんですか、と訊き返そうと思ったが答が得られる筈もない。
だから黙って、歩き出した白哉の後に続く。
こういう戯言を不意に仕掛けられるようになっただけ、心許されていると思っていいのだろうか。
遠くにあったはずの背中は、実は近くなっていたのだろうか。
いつの間にか己より饒舌になった上司の背を見つめ、恋次は歩く。
そして2人は言葉もなく、雨上がりの小径を先に急いだ。
2007.06.03
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