それは唐突に現れる。
気配はない。
前兆もない。
けれど蝶の道を子供が知るように、その訪れを白哉は悟る。

そして白哉は彷徨い出る。
大抵は夜。
それも一寸先も知れぬ闇夜に。



禁閾



常のごとく、一言も告げずに白哉が席を離れた。夜半はとうに過ぎている。
急務続きだったとはいえ、隊長と副隊長が二人揃ってここまで遅く執務室に残ることも珍しい。
一人残された恋次は、白哉が赴いた先を計りかね、 閉じてしまった扉をしばらく見つめていたが、 考えても仕方の無いことと、 思い切るように一息吐いて残務に戻った。


そしてどれほどの時が経っただろうか。
気がつくと、部屋を静かに満たしていた白哉の残圧もすっかり薄れていた。
隊舎のなかを探っても、白哉らしきものはいない。
硯に僅かに残った墨も乾き始めたのか、灯火を受けて螺鈿のように光っている。

「・・・・隊長?」

白哉の欠落を不安に思った恋次は、深く考えることもせずに執務室を出た。




恋次がようやく白哉を探し当てたのは、靜霊廷の中でもかなり外れたところ。
貴族など立ち入ることもないであろう森の奥、 少し開けた場所に白哉は一人、佇んでいた。
それだけでも尋常ではないというのに、墨を流したような濃い暗闇の中で白哉は、 周囲に白く淡い光を遊ばせ、中空を見上げている。
その様子にしばらく見蕩れていたが、 いつもの夜歩きではない何かを感じ取った恋次は、声をかけぬまま立ち去ろうとした。
しかし白哉は当に恋次の来訪を知っていたのだろう。
背を向けたまま、恋次の名を呼んだ。

「そのまま戻るのか。職務に戻れと私を迎えに来たのではないのか。まさか貴様に怠惰を指摘されるとはな。私も落ちたものだ」

白哉らしくない軽口と饒舌に一瞬言葉を失った恋次は、
すみませんと気の抜けた謝罪をした。
近づいてみると、白哉の周囲の白い光は、淡く輝いてはいるが温かくはない。
風に乗るわけでもなく、ふわふわと群れを為し、あちらこちらを漂っている。
そのゆったりとした動きに誘われて、 恋次は目前を舞い去ろうとする光のひとつに手を伸ばした。

「触れるな」
白哉の鋭い叱責の声が、闇に響いた。

「・・・これは何ですか。危ねえもんなんですか」
あわてて手を引いた恋次の問いかけに、白哉はそっとその手を宙に伸ばした。
「本当の名は知らぬが、雪蛍と私は呼んでいた」
白い光が、餌を求める魚のようにふわりと中空を泳いで白哉の指をつつき、離れていった。
危険なものではないらしい。
だが、恋次がそれに触れるのは、白哉は気に入らないらしい。
理由は知らぬが、よくあることだ。
肩をすくめてその理不尽さを受け流した恋次は、そのまま光の群れに目を遣った。



「・・・俺、こんなもん見たこと無いですよ」
呆けたように雪蛍に見入る恋次の横顔を、白哉はちらりと見遣った。

誰に訊いても文献を調べても、「雪蛍」の存在は不明のままだった。
ましてや恋次が知るはずはない。
けれど、白哉の前にこうやってほんの時折、姿を現す。
誰が知っているとかどういう存在なのだとか、 そんな瑣末なことは白哉にはどうでもよかった。
雪蛍は確かに姿を現したし、戯れているうちに、 欠落している何かが満たされるように感じたことも確かなのだから。

だが今、その無表情の下で、白哉はこの状況を不快に感じ始めていた。
隠していたわけではないが、雪蛍を誰にも見せるつもりもなかった。
今まで誰にも、亡き妻である緋真にさえ見つかったことも知られたこともなかったのだ。
それをこの粗暴な部下は、あっさりと嗅当ててしまった。
なのに追い払いもせず、 あまつさえ、 この不確かな存在に名を付けていたことを自ら語るなど、 自分は一体どうしたというのか。
剥き出しの柔らかい肌に、ざらりと粗末な帆布が触れたような、 そんな不快さに、白哉は苛立ちを隠せなくなってきた。



白哉の前に雪蛍が最初に現れたのは、夜歩きが過ぎて道に迷ったときのことだった。
いつの頃だったか、とにもかくにも子供の時分のこと。
白く光って行く先を指し示す雪蛍について歩き、ついに一晩を森の深くで過ごした。
周囲が明るく照らされるせいで怖くはなかったが、 更に奥深く、森に彷徨いこんでいたのだと後に知らされた。

導かれるようにして幼き白哉が従った雪蛍は、 実はただ、漂っていただけと知ったのはずいぶん後になってからだった。
雪蛍はただの浮遊物。
道などは知らず、もちろん目的も無く、 ただ白哉との距離を保とうとしていただけのこと。
それを導きと勘違いして近づいて、 結果として雪蛍を追いやっていたのは白哉の方。
気がついたのは何度目の邂逅のことだったか。
まるで、弱きものを追いやることこそが道を行くことだと思い違いをし、 その実、弱きものに追従して道を外していくだけの下らぬ輩と同じではないかと、自嘲したのをよく覚えている。



遠い記憶の彼方から戻って 振り向くと、 無防備に雪蛍に見蕩れ続ける恋次の髪が、 その光を受けて冷たい深紅に光っていた。
その色に 湧き上がる苛立ちのまま、髪を掴んで引きずり倒し、詫びさせ、 いっそそのままこの世から消し去ってしまいたい理不尽な衝動を押さえ込みながら、 白哉は静かに恋次の背後に回った。

「私は闇に生まれた」
白哉はひっそりと呟く。変化した空気に気づいた恋次は、その身を硬くする。
「白の字を名に持たざるを得ぬほどに、業が深い」
暗闇の中、白哉の声が低く恋次の背を這い登っていく。
「貴様もそれは、知っているのであろう?」

白哉という貴人の、その奥底で揺れ動く情動。
気まぐれに恋次を翻弄して、止むことがない。
時に、底知れぬ闇を覗かせる。
けれどなんと答えてよいのかわからない恋次は、否応なく沈黙を守る。
その沈黙を返答と受け取った白哉は、また雪蛍の群れへと関心を移した。


雪蛍など、朝日に熔け去る儚いただの光。
それなのになぜ、今でもこうやって戯れに来るのだろうと、白哉は己自身に問いかけた。
時と戒律と定められた役割の間にふわりふわりと漂うだけの己の無力を雪蛍に準えて、 自分自身を無理にでも肯定するためか。

その魂が周囲と比べて暗く深いと、白哉自身が気がついたのはいつのことだったか。
負うべき道と責には不釣合いなほどの豊かなそれを封じたのは、 そしてそれが再び表層化したのは何故か。
重ねてきた朽木の家の歴史と咎の因果が巡ったか、或いは白哉自身の脆弱さ故か。


常には凪の落ち着きを見せる白哉の霊圧が、微風に粟立つ漣のように微かに沫だちだした。
恋次がゆっくり振り向くと、白哉の双眸には、雪蛍の明かりさえ届かぬ闇が潜んでいた。
その闇にざわりと雪蛍の群れがざわめく。
白哉のその闇に吸い寄せられるように、 今までのゆっくりした動きをかなぐり捨て、いっせいに白哉へと向かう。
だが白哉の瞳にそれは映ってはいない。
中空を見つめたまま、漆黒の双眸は更に暗さを増している。
その暗闇が、白い光に埋め尽くされた。

「・・・・隊長、危ねぇっ」

腕を走った鋭い痛みと耳を劈く怒鳴り声に、白哉は我に返った。
痛みの源は恋次の、不恰好なほどの大きな手。
白哉の腕をきつく、関節が白くなるほど握り締めて、白哉を凝視している。

「・・・何をする、離せ」
「何をってあんた、今!」

確かに今、白哉は消えようとしたのだ。
白哉の存在を食い尽くさんとばかりに群がる雪蛍の白い闇に呑まれて。
だから恋次はその光に飛び込んだ。
先ほどの白哉の叱責も、危険も何もかも承知で、
ただ夢中で飛び込んで、白哉の手を繋ぎとめたのだ。
ただの見間違いかも、勘違いかも知れなかった。
けれど構うことはない。
野生動物に近い恋次の判断の基本はカンで、 短絡なこと極まりなく、もちろん理屈も何も関係ない。
だがそれだけに、危険察知にかけては類をみないものだと白哉でさえ認めている。
恋次にとっては目的と結果こそが重要なのだ。
そして今の恋次にあるのは、白哉を失うことなどあってはならないということ。
副隊長として、一個人として、それだけは許されない。

無言で白哉を自分に引き寄せ、少し離れて群れている雪蛍を、恋次は睨みつけた。
攻撃的な霊圧を感じたか、雪蛍はふわふわと宙を漂い、離れていく。

「・・・隊長、もう行きましょう」
恋次は、宙を漂う雪蛍の一群を依然睨みつけたまま、柄に手を添えた。
だが白哉は動じる風もない。

「何故だ」
「こいつらは気に喰わねえ」
「貴様らしい説得力も何も無い答えだな」
「んなことは知ってます。けど偶には俺の言うこと、聞いちゃあもらえませんか」
「無理な相談だ」

にべもない答えにやっぱり、と一瞬呆れ顔を浮かべ、 それでもない知恵を絞って思案し始めた恋次を見て、白哉は微かに笑った。

「恋次。これを何だと思うか?」
「へ? 雪蛍じゃねえんですか?」
「それは私がつけた名だ。これのことを知るものも見たものもおらぬ。名も無く存在も、文献にさえ記されて無い。だがこうして貴様にも私にも見えている。ではこれは何だ?」

このような状況下での禅問答のような白哉の言葉に、恋次は少し及び腰になった。
だがここで逃げては、白哉に追い返されるかもしれない。
そうしたら白哉は先ほどのように消えてしまうかもしれない。
率直にそのことを告げても、矜持の高い白哉のこと。
ますます依怙地になって、 かえって恋次を追い返そうと、一人で雪蛍の怪に対峙しようとするだろう。
それだけは避けたい。
しかしやはり、白哉を納得させるような答えは浮かばない。
雪蛍だと告げられた後では、 単純な思考の恋次には、この光の一群は雪蛍にしか見えぬ。
夏の情緒に光を添える蛍のように、 真冬の鋭く冷たい空気を柔らかく照らし出す雪のような不可思議な存在。
先ほどの怪を目にした直後であっても、 その名のごとく、どこか儚く哀しげなものに見えるのだ。

「・・・・雪蛍、でいいんじゃないですか?」

呆れたような白哉の視線が恋次に向けられたが、かまわず恋次は続けた。

「雪のような蛍。蛍のような雪。変わりゃあしないですよ別に。見えちゃあいるんだし、名前があるだけ便利ってもんだ。もし俺が見つけてりゃ、オバケ蛍にでもなってたって思いますけどね。まあ喰えねえことには変わりはねえし、隊長みたいな人には雪蛍って名前が似合う気はします」

冗談めかした口調とは裏腹に、恋次は至極真剣だった。
雪蛍の群れへの警戒も怠ってはいない。

「でも隊長。こいつら、奇麗なだけじゃねえ。悪意、とかじゃねえけど、こいつと関りあうのはやめたほうがいいって俺は思います。特に隊長のことを気に入ってるみたいだし」

その言霊に呼応したように、ふわふわとまた、雪蛍が白哉の周囲に集まりだした。

「また寄ってきやがった。離れてください、ここは俺が・・・!」
「構わぬ。害はない。私の元に戻って来ようとしているだけだ」
「私の・・・元?」

恋次は、呆気に取られて白哉を見た。

「害はない。これは私の一部だ」
「・・・隊長の?」

雪蛍と名づけてより永い年月が経ったが、認めたことなど、
ましてや口にしたことなど一度としてなかった。これは白哉自身だなどと。
だが白哉は、心の奥深くでは全てを知っていた。
白哉の 抑制の箍が外れるほどの何かが起こり、 閾を超えて情動の沼が氾濫すると、それをなだめるように雪蛍は現れる。
そのことにようやく気がついたのは、先の妻を亡くしたときだった。
ところ構わず暗がりを満たし、淡く光って白闇となり、白哉を心地よく包んだ。
僅かの時だけ、己にその甘えを許し、そしてまた独りへ戻ったのだ。

そう、これは自己憐憫が形を得たもの。
幼いころに封じて、森の奥に捨て置いてきた白哉自身の心の欠片。


「霊圧が似てはおらぬか」
「あ・・・・! 言われてみれば確かに・・・」

そう言って白哉と雪蛍を見比べる恋次の表情に、 白哉は、胸の奥の何かが溢れそうになったのを感じた。
それに呼応して雪蛍が再びざわめく。

「・・・私を探り当てた癖に、全く気がつかなかったのか。
 貴様は鈍いのか鋭いのか訳がわからぬ。愚鈍なのは確かなようだがな」

けれどその愚昧さ故に恋次を誰よりも傍に置いているのだ。
もちろん恋次自身は、それを証明するがごとく気がつくことはないのであろうけれども。
気づいてしまえば、それが離別の時なのだけれども。

「酷ぇな」
そういって苦笑する恋次に、白哉は手を伸ばした。
その手をそっと押し包むように掴んだ恋次は、
「そんなのはわかってるし、あんただってわかってるはずだろ?  けど俺は、あんたのことはちゃんと見つける」
と掌に頬を押し当てて、
「それにあんたの手はいつも冷え切ってる。俺はバカだけど、暖めることぐらいはできる」
と目を閉じた。 そして心の中で、この雪蛍の光はあんた自身かもしれねえが、 頼むからこんなもんに飲み込まれて消えちまわないでくれと願い、偽りの笑顔を消し去った。


返すべき言葉を知らぬ白哉はただ沈黙を守った。
その沈黙は それぞれの想いを映しこんで暗闇を満たし、 それを雪蛍の描く淡い光の軌跡が網となって包み込んだのは一瞬。
ゆるりと光は熔けて消え去り、後にはただ、真の闇が残った。






2007. 受恋企画寄稿作品 2008.03 加筆・修正、再録
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