こえがきこえる




立春を過ぎたというのに、身を切るような寒さが戻ってきた午後のこと。

不意に恋次が耳の不調を訴えた。
最初は、羽虫が飛び込んだと冗談交じりで騒いでいたのだが、一向によくならない。それどころかその羽虫は両耳へと羽音を大きく響かせるようになったらしく、一日も経たぬうちに話をするにも不自由になった。本人は大丈夫だと言い張ったが、聴覚に加えて平衡感覚さえ欠くようになっては自分の体さえもうまく操れぬようで、人や物にぶつかったり、転倒さえするようになった。

職務も果たせぬ副官など要らぬと、白哉は恋次を四番隊に送り込んだ。だが悪いところも、もちろん羽虫も見つからず全くの健康体。では発症したときと同じに自然に治癒することもあり得ると、音のない環境での安静を条件に自宅に送り返されたのだが、そこは恋次のこと。家に居たら腐ってしまうし机で安静にしてますからと、六番隊に舞い戻ってきた。恋次の頑固さを知り抜いてる白哉は小さくため息をついたあと、好きにしろと書類の束を渡した。目に見えてほっとした表情で恋次はそれを受け取り、おとなしく席に着いた。だが耳鳴りも眩暈も酷いらしく、時々頭を振ってみたり耳を弄ったりしている。白哉はそれを目の端で捉えたが、無言で職務に戻った。



部屋の中を静謐が満たし、 筆先が立てる微かな摩擦音や墨の香りがそれを彩る。そういえば恋次が副隊長に就任する前は常にこのような静けさだったかと、白哉は不意に思い出した。副官として着任当初、恋次が身動きするたびに、部屋の中の空気がざわめくような気がして、白哉は違和感というより嫌悪を感じていた。本人の努力に関わらず、その存在自体がわずらわしく感じられたのだ。恋次自身の存在感の強さもあっただろう。視界をちらつく並外れた体躯と派手な髪の色、大振りな表情と動作、よく通る声、さらにその魂魄の性質。だが主な原因は、背を向けていてさえ白哉に張り付いていた恋次の意識と視線にあったのだと白哉は思っている。もちろん今も、白哉に対する恋次のこだわりは尋常なものではない。だが数々の闘いと諍いを経て、また関係性の変化を経て、その性質を変えてしまっている。とはいえ騒々しいことには変りはないがな、と白哉は、書類と格闘する恋次を見遣った。



「恋次」

白哉にしては、かなり大きな声で呼んだ数回目に、ようやく恋次は面を上げた。
「は? 何ですか? 呼びましたか?」
だがはっきりは聞こえていなかったらしく、恋次は大声で聞き返した。その声の大きさに思わずこめかみを押さえそうになった白哉だったが、気を取り直して、
「先ほどの書類、三件目についてだが」
と言葉をつないだ。だが恋次の答えは、
「昼飯はまだですよ」
という見当違いのもの。全く通じていない。だが、明らかに無理した笑顔で、
「もう少しいけると思うッス」
と返されては、さすがの白哉も喉元までせり上がってきた数々の言葉を飲み込むしかない。 曰く、誰が貴様の腹の具合を心配している、この仕事ぶりでは邪魔にしかならぬ、大体、声が大きすぎる、などなど。恋次にも聞き取れるように大声を張り上げるという選択肢もあるにもあるが、白哉がそれを選ぼうはずもない。

上司の眉間に深く寄った皺に気がついた恋次は、何か失敗をやらかしたらしいと気づき、席を立って白哉の執務机の前に来た。眩暈が酷いのか、老人のようにゆっくりとした動作で、しかも背が丸まって縮こまっている。それが、まだやんちゃを残すこの男にはふさわしくなく、白哉は少し苛立った。

「私の声が聞こえているのか?」
「・・・隊長、あの、すんませんでした」
この近距離でも、声は届いていないようで、恋次の視線が泳いだ。

「あの・・・・」
「帰宅を命じる」
白哉は大き目の声で、一音一音ゆっくりと発音した。口元を読んだのか、恋次にも今度は理解できたらしく、
「隊長!」
と更なる大声で叫び返した。だが白哉の表情はピクリとも動かない。

「下がれ」
「書類仕事ぐらいできます!」
「邪魔だと言っている」
「俺は平気です!」
「恋次」
「隊長っ!」

声が聞こえていないせいか、いつもの強情さに磨きがかかっていた。主張のための主張をされては、通じる話も通じない。不遜にも睨みつけてくる恋次を横目に、白哉は黙って席を立った。恋次は俯いていたが
「隊長の側に控えるのは俺の仕事ですから!」
と、訊かれてもいないのに相変わらずの大声で主張して、白哉の後をついて部屋を出た。



外に出ると生憎の吹雪で、一面の真白。風も強く、耳元でびゅうびゅうと音を立てる。外に一歩出たとたん、恋次は眉をしかめて両耳を掌で押さえた。白哉が見咎めると、恋次は申し訳なさそうに一礼して両手を体の両脇に垂らした。

素知らぬ振りをしているが、頭の芯から絶えず湧き上がってくる音に悩まされているというのを、白哉は小耳に挟んでいた。おそらく今は、耳に風が吹き込んで轟音となって恋次を苦しめているのであろう。だが責任あるものは、外に対して不調を見せてはならない。職務に隊長の警護を含むとあれば、いざとなれば楯になることも承知の上。その楯が隙を見せて、自ら危険を呼び込むとなれば本末転倒。そのことは恋次も承知しており、一瞬でも私的な事情で動いたことを強く恥じて俯いた。


雪の中を白哉が進み、 その後を恋次が続く。
横殴りに雪が二人を打ち据え、風は吹き付けて轟音となり、笛の甲高さと銅鑼の底太さで恋次の耳を穿つ。耳も頭も抱え込みたい衝動を必死で抑え、 聴覚を意識から遮断し、視覚に集中した。

だが、 世界は白く塗りこめられていく。光も影も、黒も紅も、すべてが白の濃淡に取って代わり、指標が消え失せ、恋次の世界が平衡を失い、やがてぐうるりと回転しだす。

足元がおぼつかない。
天はどこにある。地に足は着いているのか。
前に進んでいるのは錯覚か。
本当は今、後ろに倒れ行く途中ではないか。

頭を芯から揺すぶる痛みをこらえ、平衡感覚の喪失による吐き気をこらえ、正面を見ると、 こびりつく雪を受けてなお、くっきりと浮かび上がる六の字。 それを護る一石となるのが恋次の役目。雪の真白に熔けゆこうとする六の字に半ば縋るようにして、恋次は歩み続けた

しかし音と痛みで脳髄をかき乱され、思考もままならない。ここしばらく睡眠もろくに取れていないから、体力も限界に近い。平衡感覚は当に失せている。雪で視界も役に立たぬ以上、ただ目前の白哉を基準に姿勢を維持し、歩行による全身運動と筋肉で感じる自身の重量で重力方向に見当をつけて体を支えているだけ。


そして 倒れる直前。
無意識に恋次は、雪に消え行く六の字を掴み取ろうと手を伸ばした。だが、その手には何も触れず、 視界が明るく白一色に転じた。それが、雪の中に顔から突っ伏したためと知ったのは、雪が遠慮会釈なく鼻にも口にも、見開いたままの目にも押し入ってきたからだ。げほげほと咳き込んで起き上がろうとした恋次の目の前に、積雪の中に片膝をついた白哉の姿があった。日が落ちてきたために青くその色を変えだした雪に比べて、白皙の肌がいやに生者めいて見えて、恋次は己の無様を詫びることさえ失念して、彫像のような白哉の姿に見入った。


「何も聞こえぬか」

白哉が恋次に話しかけるが、その言葉も声も、もちろん恋次には届いていない。例え耳が聞こえていたとしても、この風では何も聞こえようがない。ふ、とため息をついて、白哉が恋次へと手を伸ばした。普段より冷たい手が、雪風に当てられて氷のようになっている。その掌が、恋次の顔で熔けかけていた雪を払い落とした。あっけに取られた表情のまま、亀のように首をすくめる恋次の様子に軽く笑った白哉が、

「不憫なことだ」

と、恋次の片方の耳を掌で覆った。風の音がさえぎられ、代わって、うわあん、うわあんと潮騒のような音が、その耳に打ち寄せる。それは不思議と心地よく、恋次は思わず目を閉じてその音に聞き入った。

「不憫なことだ」

白哉は、恋次の閉じた瞼を見つめたまま、届かぬ言葉を繰り返した。
音に、光に、偏見に、そして思い込みに囚われて、自分を解放することも儘成らない。私人としての白哉に触れているというのに、それには目を塞いで、形ある、より確かなものに縋ろうとする。だから見誤るのだ。今この瞬間に理解できないからといって、既存の理解できるものに挿げ替えてみれば、より真の理解からは程遠くなるというのに。

「私はここだ」

もう片方の耳も白哉が抑えると、恋次の頭の中の音が木霊し合って互いを打ち消し、音が完全に消えた。雪嵐の中だというのに、久方ぶりの静寂が恋次の耳を浸し、驚いた恋次が目を開けた。

「隊長、あんた一体、何をしたんですかっ? 俺の耳・・・・!」

白哉は、恋次の両耳から手を外した。だが恋次の耳は物音ひとつも拾わない。完全なる静寂。ついに聴覚を、ひいては白哉の副官という責務を無くしたかと恋次が呆然とする。その瞳が不安に揺れているのを認めて 白哉はひっそりと笑い、恋次の耳に改めて触りなおした。

「恋次。私の声が聞こえるか?」
「き、聞こえます! 隊長の声が聞こえる」
「音のないところで絶対安静といわれたのであろう?」

恋次の返事を待たず、言い捨てた白哉が手を離すと、また恋次の耳の中から音が消えた。何の仕掛けか、あるいは鬼道かと恋次は穴が開くほど白哉を見つめるが、白哉は無表情に恋次の紅い虹彩を見据えるだけ。ただ呆然とするだけの恋次を、白哉は哀れに感じた。一方で、愚昧さを楯にもがき続ける恋次の葛藤を、愛しさとはまた違う気持ちで慈しんではいるのだけれども。


「・・・ならば今は、私の声だけを聞いていればよい」

白哉は、恋次に触れることなく呟いた。当初から恋次に聞かせるつもりなどない言葉が雪に掻き消える。だがその言葉は、音となり、意味を伴って白哉自身に戻ってくる。だから白哉は思わず願ったのだ。目標ではなく、道標ではなく、ましてや仇でも理想でもない白哉自身を、恋次がいつか見出すことを。その想いに、白哉自身は自嘲しながらも。




す、と立ち上がった白哉の手が、恋次に差し出された。その手を意味を信じられず、恋次は白哉を見上げた。

「た、隊長?」

轟音は消えたとはいえ、確かに恋次の平衡感覚は戻っていない。雪で視界に頼れない以上、手を引いてもらうのが確実ではあろう。だが、手を繋いで歩くというのは一体どうなのだ、果たして許されるのかと恋次の頭の中を混乱が満たした。その恋次の耳に、白哉の掌がもう一度、触れた。

「まさか私に貴様を運べというつもりではあるまいな?」
「・・・・まさか」

らしくない冗談に少し笑った恋次は、その不恰好なほどの大きい手で白哉の手を掴んだ。白哉は苦もなく恋次を引き上げ、そのまま歩き始めた。躊躇いも戸惑いも畏れもあるが、今はこの手に縋るしかない。時々大きく傾ぐ姿勢を、白哉の手の強さに頼って建て直し、恋次はなんとか歩き続けることができた。

それにしても、と恋次は自分の中であがり続ける熱に戸惑っていた。

唇も合わせた。
身体も重ねた。
だがまさか、手を繋ぐことがこんなに高揚することだとは。

そっと、斜め前を行く白哉の横顔を盗み見ても、何の表情も読み取れはしない。恋次は白哉の手をそっと握りなおし、頬に積もっては溶け落ちる雪をもう片方の手の甲でぬぐった。




幸い、その奇妙な道行は、雪にまぎれたのか、人々の口の端に上ることはなかった。
ただ。
その雪嵐の日には、あやかしがでて、信じられぬような奇妙なものを見せてまわったという噂が瀞霊廷中に流布したが、なぜか六番隊の二人には届かなかったという。





2008.02.14 バレンタインだから甘い話(たぶん) <<back