「ゆかし七題」/
Fortune Fate
この人は寒くないのだろうか。
灯火に浮かび上がる秀麗な横顔から僅かに目を逸らすと、さては先ほど身につけた衣から零れ落ちたものか、なにやら季節はずれのものが白哉の髪に絡まっているものが見えた。
「ここしばらくの任務って、どこか寒いとこだったんスか?」
「… 何故、そう思う」
「だってほら」
恋次の指が、白哉の髪へと伸ばされる。
「… 恋次」
正面に立ちはだかった恋次を目にして、
白哉の眉間の皺が深くなった。
立ち上がった拍子に、
申し訳程度に肩にかけていた布団も落ちてしまったというのに、当の本人は真っ裸だということに頓着する様子が無い。
それに睦言の最中ならともかく、こんな風に髪に触れられるのは慣れていない。
反射的に身体を引こうとするのを意思で押し留めると、自然ときつい半眼になる。
これでは睨みつけているように見えると思ったが、恋次は元より構う様子もなかった。
白哉の内心を微かに安堵の念に似た何かが過ぎる。
「これ、桜の花びらじゃないですか?」
恋次は、白く薄いものが付いた指をクンと一嗅ぎした。
「やっぱ、桜っスね」
「… 」
そういえば彼の地は、桜花に溢れていた。
極寒の地で何百年をかけて、ゆっくりと枝を張り巡らせてきたのであろう。
威風堂々たる古木だった。
真昼だというのに、
斜めから照らしつけるどこか冷たい陽光を受けて、
木全体が淡く光り輝いているようにも見えた。
だがあの見事な光景もこの春が最期になってしまった。
億と散った白哉の刃が、花も枝も悉く打ち払ってしまった。
そして巣食った虚ごと、幹の一部を残して桜木を消し去った。
もちろん迷いは一切無かった。
必要なことだった。避けようもなかった。
だが灰燼と化してしまった彼の地に緑が戻るのはいつの日のことか。
たかが古木の一本。
だがその一本さえ救えない。
未だ胸に巣食っているこのわだかまりは後悔ではない。
ただ死神としての自分の限界を再び思い知らされたのだ。
前進するだけだった頃には理解不能だった何かを。
白哉は彼の地の蒼天を思い出した。
きっと見上げた空が広過ぎたのだ。
桜を失くした空の蒼が、捨て去ったと思っていたいろんなものを思い出させたのだ。
時というものの重さも、残されたものとしての重責さえも。
「隊長」
黙りこくってしまった白哉の横顔が、うっすらと灯火に揺れていた。
その目元に、どんな激務の後でも見られたことのない薄い蔭があった。
きっと白哉は、そんな姿は誰にも見せたくないだろう。
だから恋次は眼を瞑り、甘えるようにその黒髪に鼻を擦り付けてみた。
「… 何をしている」
「やっぱ、桜の匂いがするなって思って」
「嗅ぐな。犬か貴様は」
「… いぬ」
白哉らしい棘のある物言いに、恋次は思わず笑った。
だって今日はアンタ、すげえ疲れてんだろ?
だから俺を押しのけたりできねえんだろ?
恋次は反抗するように一層強く、鼻の先を擦りつけた。
白哉の匂いがする、と思った。
桜の残り香などでは消えることなどない、白哉自身の薫り。
まあアンタが自分で気がつくことなんかありゃしねえんだろうけど。
一人で何もかもを背負い、孤独の中で立ち竦む白哉を想うと、今こんなに近くにいるのに、追憶に似た痛みが恋次の胸を締め上げる。
「… つか俺のこと、犬呼ばわりするんなら、引き連れてくのが常道ってもんじゃねえんですか?」
「今回はそういう訳にもいかなかったのだ」
「… 分かっちゃいますけど」
「… 恋次」
「すんません。もうちょっとだけ」
いつか。
今は無理でもいつか。
目標と仰ぐこの男の何かを共に背負っていければと思うのだが。
だが、あまりにも力が足りない。
何もかもが未熟すぎる、弱すぎる。
ギリ、と恋次は歯噛みした。
するとその思いを察したかのように、白哉の手が恋次の闇にも紅い髪に置かれた。
「すまぬ」
「… ?!」
まさか白哉に謝られることがあるとは思わなかったが、
それよりも放置されてたことを不満に思っていると思われてたのだと思うと、さすがにいつになったらこの想いが届くのかと自分の立ち居地に不満が生じる。
「お、俺はッ…!」
焦りを露にした恋次を、白哉は眼で制した。
だが恋次はさらに言葉を募ろうとする。
「隊長ッ!!」
「恋次。わかっている」
「た… いちょう?」
白哉は、目前の恋次に、過ぎ去った時と人々、そしてその時々の己を思い返していた。
そして、
今の恋次同様に、とても幼かったのだと悟った。
それは決して悪いことではない。
今は今。
年経てしまったこの魂が背負うのはまた別の時間。
ならば、それはそれでいいではないか。
命も続く。
時間も続く。
どのような形にしろ、繰り返されていくのだ。
その一齣に過ぎぬというのならば、それは無常ではなくむしろ慈悲だろう。
白哉は改めて、きょとんと眼を見張る恋次を見つめた。
そしてその想いは柔らかい笑みとなって白哉の面を満たした。
疲労の影さえも憂いとなって華を添えた。
だから
恋次はただ見蕩れた。
頬に触れた掌にも気付かず、
その呆けた面がさらに白哉の笑みを誘っているとも知らずに。
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