生い茂った柘榴の木の下、
剥き出しの細い手足を藪に沈め、
熟したその実が弾ける音を聴きながら、ひたすら夜の訪れを待った。
息を潜め、耳を澄ませていた地獄の縁、暗く深い森の奥。

そう、あそこで俺たちは、甘く紅い蜜に満たされる夢を見ていたんだ。



ざくろのうた

 

ずっしりと重い腕を持ち上げて、ようやく届いたその口元。
色のない唇に指を置くと、色を吸い取られた。
薄く開いた唇から忍び出てきた青い舌に、熱も奪い取られた。
そして指の根元に這い上がってくる喪失感。
虚無に侵食されていく。

だってほら。
この一護には色がない。温度もない。
熱に浮かされた茶褐色の眼も消えたまま。
一護の形をした虚ろな存在。
影のように実体を持たないくせに、
ここでこうして俺に触れてくるオマエは一体何だ?

問うてはみたが、答えは知っている。
これは一護。紛れもなく本人だと。
あの魂のその深遠に眠っていたはずの何かが、揺さぶり起されて姿を得た。

怖れと迷いをやり過ごして、今度は掌で白い頬に触れてみる。
蝋のような感触は一瞬だけ。
触れた箇所から侵食が進み、手の感覚も消え失せた。
組み敷かれたままの身体は、感覚も動きも失くして久しい。
なのに顔の筋一本も動かさずにいられるのは、無駄に年を経てきた証拠。
光と闇とが逆転したその瞳に魂が吸い込まれるように感じるのは、まだまだ未熟な証拠。


”恋次”

一護の顔、一護の声で俺の名を呼んでくる。
凶悪としかいえない面構えなのに、透き通っているように感じる。
曇りがない。戸惑いも虚勢もない。これはこれで純粋ということか。
まるで雪解け後の清流のようだ。
無邪気なガラスの透明さで誘い込み、かかった獲物の身を切り命を奪い取る。
一護のあの濁りと混乱と温もりが懐かしい。

お前はどこに行ったんだ、一護。


”・・・恋次。いい加減、返事、しろよ”

やはりあの一護と問い方も似ていると苦笑の形に顔が歪む。
疑うことを知らない白い指が、許しを得たとばかりに俺の顔へと伸びてきた。
そして鋭利な爪先で俺の顔のどこかの皮膚を裂いたのだろう。
赤く血に塗れた指を白い一護が舐める。
白い蝋作りの唇に真紅の血珠が浮いている。

「・・・・奇麗だな。柘榴みたいだ」

ようやく言葉を発した俺に、闇の視線が揺れた。
強烈な霊気とは裏腹に、戸惑う視線はむしろ無防備で隙だらけ。

「柘榴を知らないのか? ・・・ああ、一護が食べたことがないのか」

”・・・・・・俺が一護だ!”

子供染みた不満そうなその表情に、不意に悟った。
コイツは命も身体も過去も持たぬのだと。
うつし世に生まれでたばかりの存在なのだと。
そして今、一護を消して代わりに存在するのは自分だと主張している。
命の色を得たのだと、白い唇に塗り込められ、誇らしげに輝く俺の血がその象徴。
コイツが得た初めての虚飾。

だがお前は間違っている。
俺の血も命を持たない。
これは仮初の生、過去を象っただけの魂の残滓。
こんな血ではお前は生きることはできない、この色には意味がない。
せっかくの清い流れが濁っていくだけだ。

「柘榴はな。固い殻に包まれた紅い果物だ。
 熟すと勝手に割れる。
 禁域と知ってたけど、俺たちは小さい頃、取りに行った。
 でもなんでだろうな。覚えていないんだ。
 どんな音がしたのかとか、どんな味がしたのかとか。
 あんなに待って待って待ち続けたんだから、覚えててもいいはずなのに。
 固い殻が弾けるんだから、大きな音がしてもいいはずなのに・・・」

白い一護の手が俺の首筋に触れた。
冷やりとした感触と共に麻痺が広がり、息が詰まりだした。
次々と消されていく俺という存在。
けれど構いはしない。

「でも記憶の中の柘榴は、音もなく口を開けていく。
 俺たちの届かない遙か高みで、次々と弾けて紅い果肉を見せ付ける。
 俺は悔しかった。怒り狂っていた。
 全部叩き落して踏み潰してしまいたいと思った。
 仲間のことも、空腹も、何もかも関係ねえってな」

俺の話を聞いているのかいないのか、白い一護は俺の両耳に交互に口付けた。
だから耳も熱を失くし、もう音が聞こえない。
僅かに響くのは己の鼓動と呼吸だけ。

ああでも、あの時と似ている。
藪の中で息を潜めて息を殺していたあの時と。

見上げると、風に揺れる赤い果実。
唾液が込み上げた。あまりの空腹に腹もキリキリと痛んだ。
藪から飛び出そうと逸る仲間達を抑えるのに神経が擦り切れそうだっだ。
音を立てるな、見つかると殺される。
あれは禁忌。
俺たちは近づくことさえ許されていない。

”その後どうしたんだ? 続けろよ”

白い一護の声が響く。
音じゃない。俺に直接響いて届く。

「・・・・・太陽はなかなか沈まないし、夜なんて永遠に来ないかと思った。
 体は痺れて手足の感覚も無くなってしまった。
 木の枝に揺れる実の、紅い粒を一つづつ舌の上で潰す夢をみながら、
 永遠に似た長い長い時間をやり過ごした。ずっとずっと待ってたんだ」

冷たい手が俺の頭を抱きこむ。
意識が朦朧とする。
俺の髪も、色を失っているのだろうか。
禁忌の色を失くして解放されたか。

”恋次、もっと話せよ。食えたのか? そのザクロってやつ”

無茶を言うな、もう声は出ない、唇も動かない。
貪るような口付けのせいで顔の感覚も消えてしまった。
残るのは視界だけ。動くのは瞼だけ。
殻を失った意識がいよいよ曖昧になる。
思わぬ饒舌に乗って溢れでた思い出に翻弄されている。

ほら、もうすぐだ。今日は凄い夕焼け。
藪の奥の俺たちの顔さえ斑に染め上げた。
もうすぐ陽が完全に落ちる。
熟しきった柘榴の実。
音を立てて固い殻を弾き、内腑を晒している。
落日の紅を赤黒く溜め込んで、宵闇にも強く輝くだろう。
ひとつのこさず喰らい尽くしてやる。
そうでないとこの飢餓感は埋まりそうにない。


”・・・・恋次”

俺の名前と共に零れ出た吐息が、視界を凍て付かせた。
最後に見えたのは、何度目かわからない口付けの余韻。
糸を引いた唾液が薄く血の色をしていた。
俺の血か?
それとも髪の色を映しているのか?
もしかして記憶の中のあの夕焼けが忍び込んできたのか。

消失する視界の向こうで、世界が真紅に染まっていく気がする。
それは奇麗なのだと、美しい色かもしれないと初めて思った。

そう思える理由は分っている。
一護がいないから。
目前に在るのが色も熱も命さえもない純粋な虚無だからこそ、
善意に歪んだ眼なんかないからこそ、真紅の色にかけられた呪詛もとける。
受け入れることができる。
解放される。
そしてやっと、思い出した。
何故、柘榴の弾ける音を覚えていないかを。

だって弾けたのは俺たちの身体。
見つかって、打ちのめされ叩き切られて爆ぜた体は、血も肉も内腑も露出した。
あの後、何人が生き延びられたっけ。

頭上では柘榴の実が歌っていた。
次々と弾けては、時が来たぞ、熟したぞと殻を割り開いてその身を晒し、高々と命を歌い上げていた。
そして地上では仲間たちが泣き叫んでいた。
痛みと怒りと、実らなかった期待と嘆きを束ねて死への呪詛を吐き続けていた。
共に内側は赤く柔らかいというのになんという違いだったのだろう。
柘榴が抱いていたのは命の接ぎ穂、俺たちが曝け出していたのは死の刻印。

”じゃあ柘榴は食わなかったのか”

・・・ああ、食えたもんじゃあなかったな。
共食いなんていくら俺でも真っ平ごめんだ。
意識の中で俺は再び苦笑する。
白い一護が覆いかぶさっていた身を起し、

”代わりだ。これを食え”

と何かを俺の口に垂らした。
熱の塊のようなそれは、喉を焼きながら内腑に落ちた。
まるで閃光。身体の芯を貫いた。

やがて自由になった眼を開けると、揺れる闇の瞳。
開かれた合わせから覗く腹には、一閃の傷。
白い皮膚には、輝く青い色が覗いている。
あたかも白雲の切れ間に覗く蒼天の一片のように。
そしてその一滴が、俺の口へと落とされたのだと知った。

お前には俺の声がずっと聴こえていた。
満たされなかったあの枯渇を、焼け付くような飢餓感をお前は知っている。
一護には届かなかったあの滑落を。

深く魂の奥底から満たされた俺は、甦って生を再び得る。
そこは魂の濃淡が織り成す世界、白い一護の世界。

「恋次。俺の声が聞こえるか」

強く響く透明な声。
実体を持つ白い一護。
俺の血で満たされている。

「・・・・・ああ」

だから俺はその手を取る。
新たな血が通いだした、この手で。



ほら。
あの柘榴の木の下には、残してきた幾多もの死骸が埋まっている。
やがて熟した果実が紅い蜜を地面に滴らせるだろう。
その恵みを待ちながら、今日も柘榴の慈愛に満ちた歌を聴いているのだろう。
裏切り者には決して届くことのないその歌を。






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