甘い毒



阿散井くんと仰々しく呼ぶその声が、 あまりにも芝居めいていて笑いを誘う。

この状況で、虜囚となった俺に対して何を今更。

くつくつと笑い出した俺に構わず、 どうしたのかい、つれないねと、睦言を演じつづけるその余裕。
ならばこちらも抗ってみせるかと背を向けたままでいると、 髪の根元にゆっくりと指が這い登って髪紐を解いた。
その指運びに、遙か昔の記憶が甦る。

逢瀬の度、真っ先に髪を下ろすことを求められた。
情事後、帰り支度を始めた俺が髪を括り上げ始めると、 別れを惜しんで髪紐を隠したり、それを咎めた俺に軽く拗ねてみせたり。
案外、子供っぽいところがあると、 帰り道、思い出して笑ったもんだったが、今思えばあれも企てのうちか。
交わした視線も、囁きあった声も、絡めた指も、触れた肌の湿りも、共に過ごした時間さえも、何もかも、全てが。



「どうした。こちらを向いてご覧」

支配主となったその身で、何を今更。
居丈高に命令すればいいだろう。
俺たちの目の前から去ったあの時のように、侮蔑も顕わに。

「やっと来てくれたんだね」

けれど、全ての裏切りを超えて尚、変わることのない穏やかな口調。
その声が 深く染み渡ってくるのは何故だろう。
何故俺はこんなに哀しいのだろう。

想いの底に囚われたままの俺を咎めるように、髪を梳いていた指が肩へと滑り降りてくる。
首筋を撫で上げた指が顎にかかる。
けれどその指に従う気にはならない。
俯いたままの俺を咎めることなく、
「ずっと待っていたんだよ」
と、触れるか触れないかの距離に寄せられたその頬から僅かな香りが漂った。
あの頃と違う何かが混ざっている。
こんな香りのこの人を、俺は、知らない。

思わず見上げると、静かに見返してくる鏡のような眼。
映し出されているのは俺。
その疑り深い視線に、俺自身が炙り出される。

そうだ。
この人は最初から嘘などついていなかった。
滾々と湧き続ける疑念に目を瞑って、道化染みた関係を切れなかったのは、俺。

「・・・・ちくしょう」

堪え切れず漏れ出た言葉に、藍染が薄く嗤う。
そしてその顔を見てようやく安堵することができた自分に、ここまで毒されていたかと俺も嗤った。




2007.受恋企画寄稿、2008.03 加筆修正・再録

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