そこから先へは、
行ってはいけないよ。
禁域 -abstinence-
コトリと。
奥の方から微かな音。
ずっと呼ばれ続けているのに、固く禁じられているから、近づけない。
振り向いちゃいけない。
そうだ。
ちゃんと眼を閉じ、耳も塞ぎ、今は心を鎖せ。
全て忘れろ。
そうすれば、今日という日は無事に過ぎる。
けどほら、また音がしだした。
耳を塞いでも、眼を閉じても、
日に日に弱り、掠れていくその音は、
コトリコトリと俺の裡に忍び込んでくる。
消え去ってしまう日は近い。もう少しの辛抱だ。
だが油断するな。
取って喰われるぞ。
そんなことはない。
アレはそんなことはしない。
あの無様な造形物。
模倣を重ねた成れの果ての、その醜悪な姿。
そんなことはない。
ただ少し、形が違うだけだ。
在り方が違うだけだ。
もう
身体中がひびに覆われて、どんどんそれが細かく広がって、
今にも脆く崩れてしまいそうだけど、けれど。
・・・
そう。
とても奇麗なんだ。
俺はその姿を思い浮かてべみる。
忌み嫌われ、禁忌として怖れられながらも、
積み重なる年月を映した塵芥に柔らかく幾重にも包まれて、ひっそりと在り続けるその姿。
ヒトよりも人らしいであろう、その貌。
俺よりも俺であるべき、その存在。
なんてことだ。
お前はあの異形を見たのだな?
禁を破り、あの異形に心を奪われたな?
違う、異形なんかじゃない。
その先に行ったことなんかもないから、見たことなんてない。
だけど感じるんだ、そこに居るんだ。
ほら、俺を呼んでる。
早く行かなきゃ。
俺の不在を哀しんでいる。
もう心が破れそうになっている。
だから俺は行かなきゃ。
手遅れになるその前に。
俺は衝動のまま、全てを振り切って、ついにその奥へと踏み込んだ。
ようやく見つけたそれは、
幾重にも掛けられた布の下にひっそりと在った。
錆びついた空気。
触れるだけで崩れる繊維。
まるで汚濁のようなその暗闇の中で、
古い書物の頁をめくるように、
そっと布を剥がしていくと、
柔らかく煙る白金の線で象られたそれは、
闇を弾くように、時を拒否するように、
ただ無自覚にそこに在った。
「・・・待たせたな」
誰に聞かせるともなく呟く。
もちろん応えはない。
俺は、塵芥へと姿を変える布を取り除きながら、
少しづつ姿を現していくその白の人形に見入った。
コトリ。
脆くなっているからなのか。
触れてもいないのに、肩や肘などの関節は、あえかな音を立てて抵抗をする。
嘗ては滑らかに透き通っていたであろう肌は、
幾多もの細かいひびに覆われ、
くすみ、朽ち去ろうとしている。
だが絶対的な時の流れ、
滅びの中でだからこそ、その白が鮮やかに輝く。
最後の時を彩るかのように。
圧倒的な頽廃とその美しさに俺は声を失った。
逸る指先を抑え、
やっと頭部の布を取り除いたとき、
心臓がドクンと鳴った。
これは何だ?
俺と同じ貌をしている。
これは一体、何なんだ?
背筋を走る恐怖を意志の力で押さえつけ、
それと改めて相対する。
一歩、後ずさると、
今は深く蒼と金だけを残す滅びの色に包まれた白の人形は、
漆黒の闇の中に白く儚く浮き上がっていた。
密やかに閉じられた眼、
力なくぶら下がる両手、
未だ布に包まれたままの下半身へと続く腹部の線。
なんて危ういんだろう。
首筋の皮膚がちりりと粟立つのを感じた。
そして気がついた。
影が薄い。
おそらく、もうあまり時間は残ってないのだ。
消えてしまうのだ。
あと少しで。
俺は、それのことは何一つ知らなかったが、
何を望んでいるかは理解していた。
だから絶対、触れてはいけない。
分かっていた。
だが、何かに押されるように、その頸に指を触れてしまった。
「あ・・・・」
表層は、温かかった。
まるで人の肌のように。
そして微かだけど規則正しい振動もあった。
鼓動のように。
「ウソだろ・・・?」
だってこれは人形のはずだ。
ほら、この関節、この形。
これは人形だ。
ずっとずっと布に包まれて滅びるのを待っていた。
生きているはずがない。
少し押すとほら。
コトリと、モノが立てる音もする。
だが吸い付くようなしっとりとした感触に、俺は自分の指を止められない。
コレは何だ、何なんだ?
疑問へと摩り替えた欲のままに、その滑らかな感触を味わう。
「う・・・っ」
指を胸の中心に添わせたとき、ドクリと強く共鳴した。
全身を覆っていた細かいひびも、その白を曇らせていたくすみも、
波紋が水面を駆けるように、触れたところから消えていった。
在りし日の陶器のような無機質の光沢を取り戻していく。
「え・・・?」
呆気にとられたのも束の間、カタ、と小さな振動が俺の指を振るわせた。
カタ。
これは何だ?
カタカタカタ。
俺は震えているのか?
カタカタカタカタ。
違う、俺じゃない。
カタカタカタカタカタカタ。
何だ、これは?!
指が離れない、沈んでいく。
振動に促され、陶器の肌に、ずぶずぶと呑まれていく。
カタカタカタカタカタ、カタカタ。
カタカタカタ。
カタカタカタタタタタタタタタタタタタタタタタタ。
人形は眼を瞑り、だらりと手足を投げ出したまま、俺の指を呑み込んでいった。
笑みを模したその貌がずるりと剥けて、奥に潜む何かが甦ろうとしていた。
喰われてしまうぞと警告し続けてきたあの声が脳裏に甦った。
「う・・・わぁぁ・・・ッ!」
恐怖心の命じるまま、俺は指を引き抜こうとする。
「離せッ、クソ・・・、離せ・・・・ッ!」
けれど抜けない、離れない。
たった指一本。
だけど吸い付かれ、嬲られて、
初めて知る味の官能、
その叩きつけるようなその感覚に、力が入らない。
背筋を走り、脳髄まで侵食してくる。
このまま喰われてしまえ。
喰われてしまえ、喰われてしまえ。
繰り返し木霊し、重なっていく声に、抗えない。
このままじゃ呑まれてしまう、
明け渡してしまう、
俺が俺でなくなってしまう。
「離せェッ・・・・!!!!」
パキッ。
それは、あっけないほどの儚い音を立てて、俺を解放した。
「あ・・・」
その胸に残るのは、まるで銃弾に打ち抜かれたような穴。
俺の指には、まるで硝子のようなキラキラ光る破片がくっついている。
目の前で光の粉になってはらはらと零れ落ちていく。
壊れてしまった
壊してしまった。
俺は、さっきまでの恐怖が哀しみへと変わっていくのを感じた。
あんなに奇麗だったのに。
あんなに儚かったのに。
俺が壊してしまった。
もう戻らない。
けれど心の隅で、この人形が崩れ落ちていくのを期待していた。
その姿は、在りし日よりもさらに奇麗で官能的だろうと。
それこそが俺の夢見ていたものだろうと。
だが裏切られた。
人形がゆっくりと右腕を動かしたのだ。
胸に穴を穿たれ、眼を瞑ったまま。
そして軋んだ声が響き渡った。
”これで最後のピースが揃った”
その声の指し示すとおり、
白の人形の胸の空虚を満たしてるのは、紛れもなく俺の恐怖。
そしてあの官能。
”さあ、この右手にあるものを見せてやろうか”
差し出されたその右手が、虚から何かをずるりと引き出す。
「う・・・そだろ・・・・?」
知らず後ずさった俺を祝福するように、
煙るような白銀の睫毛がゆっくりと開けられた。
”これで俺も・・・”
凱歌に似た呟きとともに、それは眼を開け、俺を見た。
初めて自分の意思で浮かべたであろう微笑は、漆黒の闇を映していた。
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