あの音を聞いたことがあるか。
死の淵を舐め上げ、命を切り裂き、狂喜に吹き荒れるあの風の音を。



暗き淵より

 

「こんな崖っぷちに座って何してるんですか?」
「・・・なんだ、テメエか」
「なんだテメエかってアンタ・・・! 昼飯でも食うかって言いだしたのはアンタじゃねえか。それをフラフラと何でこんなところに・・・、どんだけ探したと思ってんですか!」
「そりゃーテメエの実力不足だろ」
「あ、俺のせいにするんスか?! 信じらんねえ、全く・・・」

あんまり煩いので振り向いてみると、天に近く突っ立って俺を見下ろしてくる恋次の髪が、逆光を透かしてまるで太陽から吹き上がる炎のように輝いている。
眩しくって顔は見れやしねえが、どうせいつもの横柄な目つきで睨みつけてるに違いねえ。
真っ向から睨み返すのも億劫だったんで、ぷいと顔を正面にそむけて崖の真下に視線を戻した。
だが無視されたぐらいで、 恋次が雰囲気を読んで黙ることなんてあるはずがなかった。

「アンタ、ちょっとそこ、場所譲ってくださいよ」
「うぉ?! あ、危ねえじゃねえか、落ちるだろ! つか押すなッ!」

だが恋次は いつもの無頓着に輪をかけた図々しさで割り込んで座り、さっきまで俺が座ってたところに無駄にでかい体をどすんと落ち着かせ、崖の淵から足を下ろして呑気にぶらつかせてみている。
くそ。そこが一番座りよかったのに。
追い出された先、座りなおしたところは草の上で、まだ昨日の雨が残ってる。
ケツが冷えるじゃねえか、ちくしょう。

「あー、なるほど! こうやって足をブラブラさせてんのって気持ちいいんっスねー」

妙に感心した様子の恋次だが、おおはずれだ、このバカ。
しかもそういうのはブラブラじゃなくてバタバタっつうんだ。
全く、喧しいったらありゃしねえ。
テメエのせいで何もかも台無しだ。
さっきまでこの渓谷を満たしていた風の音がすっかり掻き消されてしまったじゃねえか。

「しっかし深いなこりゃ・・・、なんか見えるんスか?」
「・・・んな乗り出すと落ちるぞ」

突き落とすぞ?
微かな、けれど根が深い絶対の衝動が湧き上がる。

「こりゃあ落ちたくねえな。結構、深いですよね?」

切り立った崖の奥底は深すぎて、いくら目をこらしても底なぞ見えるもんじゃあねえ。
うんと上半身を伸ばして崖の底を覗き込んだ恋次もさすがに黙った。
するとまた、風の音が響き渡りだす。
笛の音のような乾いた音が甲高く、あるいは腹の奥に響く低さで不協和音を奏でる。
そして時折、刀を振り下ろすときのような厳しい音が耳を突く。


「んー・・・、こんだけの深さを落ちるのってどんな気分っすかね。飛ぶみたいなもんか?」

・・・・オマエ、そこか? そこなのか?!

「ああでも落っこちる途中でゲロ吐くかも」

そう言って恋次は、至極深刻な面持ちで俺を見る。

「きっとものっすごく気持ち悪くなりますよ、こんだけの高さを落ちると・・・」
「・・・オマエ、怖いとか死ぬとかそっちが先だろ」
「いやでもゲロ吐きながら落ちるってえのも相当・・・」

なんだか訳のわからん想像が赤頭の中を駆け巡ってるらしい。
恋次は深刻な面持ちで改めて崖の底を覗き込む。

「今落ちると腹ん中空っぽだからきっと胃液だけ・・・、う・・げえ」

心なしか顔色まで悪くなってる。
トラウマでもあるのか?
それともこないだの酷い二日酔いでも思い出してんのか?

「・・・だめだ。腹減った。やっぱ飯、食いに行きましょう!」

・・・・・そこか。
全身の力がガクリと抜ける。
そして屈託無く差し出された手から恋次のツラに視線を移すと、

「食うもん食わねえと出る元気も出ねえぜ」

と口調をいきなり崩し、ホラホラとデカい手をさらに突き出してきた。
余計なお世話だバカ野郎。
だがその表情はいつになく真剣で険しく、恋次と同時期に新しく死神になったヤツラの浮かれた面構えとは一線を画している。
そういえばこいつも俺と違う地獄を生きていたんだ。
今更ながらに思い至る。

ならばオマエはあの瞬間をどう凌いでいく?
何かを護るためならいざ知らず、役目だからという理由で他の命を奪い去っていくあの瞬間を。
終焉を知ったその視線に対峙する絶対優位のあの興奮を。
そして奪い去られる側から奪う側に回ったこの不条理を。



いつまでも動こうとしない俺に焦れたか、恋次は俺の二の腕を掴んで無理やり俺を立ち上がらせた。
剥き出しの腕の皮膚が捻じれて抵抗したので、痛ェと文句を言ったが恋次はあっさり聞き流した。
そしてストレートにぶつけてきた。

「最近、顔色よくねえですよ。やっぱ席順が上がると大変っスか?」

もうちょっと絡め手とか使えねえもんかね、このバカは。

「・・・まあいろいろあるからな。でも死神なら頑張んねえとな」
「でも死神だから辛えってえのもあると思うんですよ」

速攻で返されたその意味を掴みあぐねて落ちた沈黙を、絶壁の断崖のその淵で、底の知れぬ深遠から吹き上げてくる風が鋭い響きを立てて邪魔立てする。
それはまるで終焉を告げる歌。
風になって螺旋となり、魂を絡め取って跡形もなく消え去る。
そして その力を手にし魅了されてしまった俺は、まるで迷い子の様に行き場を失くしている。
自覚はあるんだがな。
つい漏らしてしまった苦笑を目にとめた恋次は、何故か辛そうな顔をして小首を傾げた。

「まあボチボチいきましょうや、先輩」
「・・・煩え新米」
「へえへえ、つか新米で薄給なんでメシおごってくださいね」
「なわけねえだろ。俺、金ねえぞ?」
「マジっすか?! アンタ、昇格したんじゃねえのかよ?!」
「それとこれとは別だろ!」

会話の流れが変わったのをこれ幸い、さっさと恋次に背を向けて歩き出す。

「ちょ・・・、待ってくださいよ!」

ぎゃあぎゃあと煩えったらありゃしねえ。
その無頓着さは嫌いじゃねえが、今日はどうにも余裕がなくていけねえ。

「待ってくださいっ、檜佐木さんってば! あ・・・」

とはいえ、唐突に恋次の声と足音が止まったので振り向いてみると、肩を震わせて笑っていた。

「ひ、檜佐木さんってば・・・・、袴のケツんとこ濡れて猿みてえ」
「マジか?! うわ、なんだこりゃ! クソ、俺のイメージが!!!」
「ぴったりっスよ!!!」

恋次は笑い止むどころか、今度は大口開けてバカ笑いしだした。

「テメエなあっ!! テメエのせいだぞ!! つかテメエといると俺のイメージが崩れていく気が・・・」
「本気でそう思ってるならマジで天然ですよ。アンタ、自己完結型じゃねえですか」
「んだと?! それがセンパイに対する言葉か?!」
「いや、先輩だからこれぐらいで抑えてるっスよ」
「つかそのツラでテメエ、ずいぶんいい子ちゃんじゃねえか?!」
「顔に猥褻な刺青してるアンタよりマシっすよ」
「猥褻じゃねえ! これはなあ!!」
「なんっスか?」
「・・・いや、何でもねえ」
「っつーかいい加減その意味、教えてくれてもいいんじゃねえっスか?!」
「ひとの刺青よりテメエのその趣味の悪い刺青の心配でもしてろ」
「あ! んなこと言うんですか?! 言っとくけど先輩のも相当、アレっスよ?!」

太陽の光を燦々と浴びながらいきり立つ恋次の肩越しに、ぱっくりと崖が口を開けているのが見える。
もうあの風の音は聞こえない。
だが絶えることなく吹き続け、死を運び続けるんだろう。
その風を吹き起こすのは、あるいはこの手。
ならば完全に制御してみせる。
その力も、その意味も、そして俺自身も。

「早く行くぞ、食いっぱぐれるだろうが!!」
「だからアンタのせいでしょ?! つか待ってくださいってば!!」



渓谷を響き渡る俺たちの声に掻き消された風の行き先は、誰も知らない。





2008.9 始解してしばらくたったころの修兵と死神になったばかりの恋次を捏造。カプかどうかはかなり微妙なところ


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