迷い路
「オイッ、テスラッ、聞いてるのかッ!!」
「ああ、ノイトラ。聞いているよ」
半ば叱責とも取れるノイトラの問いに、殊勝に答えたテスラではあったが、実のところ、ネリエルに関する罵詈雑言の類は、右から左へと聞き流していた。
「んだとテメエ…。白々しいウソ、ついてるんじゃねえッ!」
「いや、そんなことは…」
辟易していたのを見抜かれたのかと、テスラは身を強張らせた。
だが、そんなはずはない。
いつもどおりの無表情を装っていた。
目も合わせていない。
───
そもそもノイトラは、私のことなど髪一筋ほども気にかけてはいない。
テスラはノイトラを見上げた。
ひとつしか無いその眼が、テスラを睨みつけていた。
浅はかな嘘など見抜いているのだと、見下しているように思えた。
テスラは自嘲に口元を歪ませ、ノイトラを見返した。
怒りに苛まれながらも、どこか寂しげなその表情に、胸の奥に何か、チリリと焼け付く痛みが走った。
「ノイトラ。私は…」
「んだテメエ、そのツラァ…ッ」
「…っ!」
ノイトラはいきなり、テスラを蹴り上げた。
どうと音を立てて倒れると、砂塵が舞った。
理不尽極まりないノイトラの言動には慣れていたはずなのに、すっかり油断していた。
テスラは蹴られた腹を抱えこんだまま言葉を失くした。
「ノ、ノイトラ…」
「まさかテメエ…」
不審げなノイトラの声に顔を上げると、眉をひそめ、テスラを凝視していた。
その表情の険しさに、テスラは怯えた。
「テスラ…」
「…?」
「まさかとは思うが、テメエ…。ネリエルに、け、懸想してるのか? だから…」
「はぁ…?!」
珍しくノイトラの言葉を遮った上に、素っ頓狂な声を上げたテスラの反応を受けて、これまた珍しいにも程があるぐらい、ノイトラは顔に血を上らせた。
「い、いや…ッ。な、何でもねえッ!」
「ノ…ノイト…ラ…?」
「う…」
「懸想というのは、つまり、私が、あの、ネ、ネリエル様に…?」
ノイトラ自身ではなく…?
「う…、あ…」
見当違いにも程がある。
口元に手を当てて顔を逸らすノイトラに、テスラは呆然とした。
─── やはりノイトラは、私のことなど見てはいない。
その孤独な心を癒せるよう、たった一人でも友となれたらと思っていたが、少しでも心を開いていたら、そんな妙な勘違いなどするはずが無い。
結局、この世に唯ひとつしかないその瞳が映し出すのは、たった一人。
そしてそんなお前だからこそ私は─── 。
今や、胸の奥に端を発したその痛みは、全身を苛んでいた。
蹴られた腹の痛みなど温もりに等しい。
この痛みに比べれば。
震える手を押さえつけ、崩れ落ちそうな膝を叱咤し、
絶望に粟立つ皮膚を宥めながら、テスラはノイトラを見上げた。
「…ノイトラ」
「な、何だッ…!」
「いや」
テスラは薄く笑んだ。
「私はネリエル様のことは、何とも思っていない」
「う…」
絶句して声も出せないでいるノイトラを、テスラはじっと見つめた。
ノイトラは、自分のことを何も分かっていない。
ネリエル様にどんな気持を抱いているのか、それを知ろうとすることさえも拒んでいる。
その癖、私などに嫉妬している。
「クソッ、テメエのせいだぞッ! テメエが黙って不機嫌なツラァしてやがっから…っ」
今や地団太を踏む勢いで動揺しているノイトラを目にして、
テスラは、ふと微笑した。
─── やはりノイトラは、私が助けてやらねば。
「ノイトラ」
「な、なんだッ」
「私は一語一句逃さず、お前の話を聞いていたよ」
「う…。何だ今更ッ」
「いえ。ただ、お前には知っておいて欲しかったんだ」
「う…、嘘つけッ! テメエは何も聞いちゃぁいねえだろッ」
「そんなことはない」
「いや、ある!」
「ないと言っているだろう?」
「じゃあ、何でテメエは何にも言わねえんだッ! 俺が話してても、ムッツリと黙ってるだけじゃねえか…っ」
─── 何か一言でも発しようものなら怒り狂うのはお前ではないか。
なら何を言えというのだ。
どう反応しろというのだ。
「ノイトラ…」
「クソッ…、」
今や完全に駄々っ子と化したノイトラに、テスラは呆然とした。
そもそもノイトラが、テスラごときの反応を欲しがっていたなどというのも理解の外なら、それを素直に表に出すというのも青天の霹靂なのだ。
恋をすれば人は変わるというが、ノイトラに関しては、変わるというレベルではない。
テスラは、ゆっくりと砂を払いながら立ち上がった。
「困ったな…」
「な、何がだッ…!」
つい漏らしてしまった本音に、また殴られるなり蹴られるなりするかと思わず身構えたが、当の本人は一歩、後ずさっている始末。
─── これは本当に、困った。
テスラは小首を傾げた。
どうやら自分は、思っていた以上にこの我儘極まりない男に魅かれているらしい。
だからこうやってこの男に付きまとい、退屈な話に耳を傾け、助けようとしてしまうのだろう。
友人とさえ見られていないのに。
望みは一欠片も無いというのに。
だが、その不条理さは自分に酷く似合ってるような気もした。
だからテスラは心の奥でひっそりと微笑した。
「そうではないんだよ、ノイトラ。私は馬に蹴られるような野暮なことはしたくないのだよ」
自分の想いがあるからといって、他人の恋路を邪魔するような、そんな無粋の極みなど。
だからテスラは願った。
せめてノイトラ自身に、ネリエルに対するその恋情に気付いて欲しいと。
そうすれば、この胸の痛みもまた違うものに昇華されるかもしれないと。
ノイトラの幸せを祈り、この捻じ曲がった心ごと、消せる日が来るかもしれないと。
テスラは、万感の想いを込めて、ノイトラを見つめた。
この想いの深さを、少しでも感じてもらえればと、見つめ続けた。
だが次の瞬間、テスラを襲ったのは、ノイトラの拳だった。
「…ッ!!」
「テメエッ、テスラ…ッ!!」
「ノ…、ノイトラっ。一体、何をするんだ!」
理不尽に痛む頬を押さえながら、テスラが眼を上げると、月を背にしたノイトラが見下ろしていた。
「…ネリエルは馬じゃねえ」
そう呟いてくるりと背を見せた痩躯の男は、やがて砂塵に塗れて消えた。
一人残されたテスラは、ノイトラの残した言葉を何度か反芻して、やがて笑い出した。
「ハ…、ハハハ…ッ」
なんて子供なんだ、あの男は。
何も知らない。
何も分からない。
ならば一人にはしておくわけにはいかない。
「さて…と」
テスラは、砂を払い、空を見上げた。
胸に宿るこの理不尽な想いに付ける名は知らない。
だが闇に輝く月は、まるでノイトラの鎌のようでとても奇麗で、それだけで充分だと思った。
テスラの立ち居地は多分、おかん。
<<back