「…誰だ?」
目覚めてすぐのノイトラの第一声は、やはり問いかけだった。
前にもこんなことがあったわねとネリエルは、ノイトラの視線が届かない位置で口元を緩ませる。
そして砂上にうつ伏せに横たわったノイトラの腰に跨り、背を大きく斜めに走る傷へと口付けた。
「ウッ…何してやがるッ? オイッ、テメエ…、この霊圧はネリエルかッ?」
目覚めた途端、元気に喚き散らしだしたノイトラの生命力にネリエルは肩をすくめた。
そして改めて、自らがつけた深い刀傷の奥底へと舌先を忍ばせ、
まるで口付けを交わすときのように、あるいは愛撫するときのように、肉の断面を舐めた。
傷口に入り込んだ砂を取り除くと同時に、治癒能力のある唾液を送り込むのだ。
舐め取った砂にはノイトラの血と肉が染み込んでいた。
その味にネリエルはごくりと喉を鳴らした。
そして、一回だけと自分に言い聞かせ、ちゅ、と遠慮がちに傷を吸う。
「う…」
ノイトラが声を殺すのを耳にして、ネリエルは我知らず微笑んだ。
流れ込んできた僅かな体液を舌の上で転がすと血の味がする。
肉の味もする。
─── これがノイトラの味。おいしくて蕩けてしまいそう。
ネリエルは口元を拭いながら、自分の下でもがき続けるノイトラの背を見下ろした。
「…くそ…ッ、テメエ、何してやがる?」
─── 珍しいわね。弱音を吐くなんて。でも食べたりなんかしないから安心しなさい、可哀想なノイトラ。
「オイ、…ネ…リエル…ッ! 聞いてんのかッ?」
─── ああでも、深かった傷ももう塞がってきてる。
残念ね。これで背中はおしまい。次はどこかしら。
ネリエルがノイトラを裏返すと、ぜいぜいと息が上がったノイトラが、ネリエルを睨みつけた。
「テメエッ、何してやがるって訊いてるだろッ?」
「質問ばかりなのね、いつも。答える義務はないわ」
「クソッ、テメエはいつもいつも…って、何でッ?」
「なあに? また質問?」
「何で俺が生きてるッ?」
「なあに? 今頃」
常にない艶やかなネリエルの笑みに、ノイトラは目を剥いた。
「ネ…リエ…ル…?」
「私がそう決めたからよ」
「け、けど俺は死に掛けてたはずだッ」
「私が治したからよ」
「テメエが…?」
─── 俺を本気で殺そうとしてたテメエがか?
「そうよ。こうやって治すの」
ネリエルは剥き出しになったノイトラの腹に跨った。
そしてゆっくりと顔をノイトラの肩に近づける。
そこは深く抉られ、肉さえ無くし、白い骨が覗いていた。
「止めろッ!」
ノイトラの制止は、けれどネリエルの耳には届かない。
逆光になって、表情さえノイトラからは伺えない。
「止めろってつってんだろッ」
だがネリエルは何も答えない。
その代わり、首を傾けて髪を払う。
眼を閉じて恍惚とした表情を浮かべたその顔が月明りに照らし出される。
ノイトラは愕然とした。
─── これは本当にネリエルなのか?
なんでこんなツラしてやがる?
まさか理性を無くしたか?
…虚の本性をついに出したのか?
ノイトラの背を、恐怖とは異なる別の刺激がぞくりと駆け抜ける。
「俺を…、俺を喰うのか…?」
ネリエルの動きが止まった。そしてゆっくりと伏せていた目を上げ、小首を傾げる。
「…食べてほしいの?」
─── そうよ、食べてしまいたいのよ?
必死で我慢しているのに、その言葉を口にしないで。そんな風に誘わないで。
ノイトラは、物言いたげなネリエルの視線に戸惑い、目を伏せた。
「…わからねえ」
「…?」
「わからねえんだ…」
意外な答えだったのか、ネリエルは大きく目を見開いた。
それを目にしたノイトラは、何だか笑い出したくなった。
─── 惨めなもんじゃねえか、なァ!
嫌って憎んで殺したくてたまらなかったこの女に殺されかけた挙句、また助けられている。
なのに何だ、俺は。喰われるっていうその瞬間に、初めてこの女を知ったと思うなんて。
しかも喰われてもいいと思うなんて。
俺はそんなに情けねえ男だったのか?
くつくつと愉しげに笑い出したノイトラの上で、ネリエルもゆっくりと笑みを浮かべた。
「そうね。食べてあげてもいいわよ。でも…」
本気なネリエルの言葉に、ノイトラは笑みを消した。
その仏頂面に、ネリエルの優越感がくすぐられた。
どうしようもなく煽られる。
「…まずはこっちが先よ。少し我慢しなさい」
「く…、ネリエル…ッ!」
背の傷と同じように、ネリエルはノイトラの肩口にある傷を丁寧に舐めだした。
ノイトラはもがいて逃れようとしたが、ネリエルに易々と押さえつけられて身動きできない。
「くそ…」
「傷を治してあげてるのよ。諦めてじっとなさい」
「ん…ッ」
その切羽詰った声の響きに、ネリエルも笑みを消した。
*
馬乗りになったネリエルの下、ノイトラは為すすべもなく舐め回された。
ぴちゃぴちゃと響く水音がやたらと耳につく。
傷口から熱と痺れが全身へと広がっていく。
本当に傷は回復してきてるのだろうか。
それともやはりネリエルに食われているのか。
どちらにしろ身体は麻痺して動かず、知る術もない。
ノイトラは圧し掛かっているネリエルを下から眺めた。
自分より強いとは決して思えぬその細い体躯。
それを象るまろい線。
帽子の様に頭部を守る白い破面の下に緑の髪が波打っている。
その髪に覆われてるのは、自分の身体と傷。
砂まみれのそれを、あのネリエルが舐めている。
─── 皮肉じゃねえか。
才色兼備だかなんだか知らねえが、
ちやほやされて優等生面した上位十刃のあのネリエルが、これじゃあまるで獣だ。
しかもネリエル自身が獣と見下した俺の身体を治すためにそこまで堕ちた。
結局、俺たちは似たもの同士じゃねえか。
ぞくっとノイトラの背筋に寒気が走った。
─── なら所詮、虚は獣だというのか? 俺たちは獣同士なのか?
ノイトラは、獣としての自分の在り方を、今のネリエルに映した。
─── 獣に戻ったというなら、ネリエルはやはり俺を喰う。
喰らってしまう。
じゃあ俺は、終わりなのか?
この女に喰われて、退化の迷路に迷い込む、そんな惨めな終わり方なのか?
…イヤだ! 俺は闘いてえ! もっと闘って、もっと強くなりてえ!
「退け、ネリエル…」
ノイトラは利かぬ手足を動かして、逃れようとした。
「俺を放っておけ、これ以上、俺に近づくな」
「無理よ」
ネリエルは身を起こし、口元を拭った。
固まりかけた血が頬にまでついている。純白の衣装もあちこち赤く染まっている。
─── これは俺の知っているネリエルじゃねえ。
ネリエルは絶対、こんな風に汚れたりはしねえんだ!
得体の知れぬネリエルの変化と、それに対する自分の中の混乱にノイトラは焦った。
「…そこを退け、ネリエル。俺の上から退きやがれッ!」
「ダメよ。まだ治ってない」
「関係ねえッ」
「関係あるわ。あなたの身体よ?」
静かに告げられたその言葉の意味を図りかねて、ノイトラは戸惑った。
「なんで…、何でてめえは俺を殺さない? なんで治そうとする?」
「殺してどうなるの? 殺しても何も生まれないわ」
「藍染サマの命令だろじゃねえか! 奴に逆らうのか?」
「…逆らえるわけがないわ」
「んだと?」
「それにこれは私の義務なの。自分で選び取った道なの。責任もあるの」
顔を背けながらも初めて本音を見せたネリエルに、ノイトラは激昂した。
「…テメエ、自分で言ってること、わかってんのか? マジでそう思ってんのか?
理性だの理屈だのを看板みたいに背負って、自分こそが正義ってツラしてやがって。
…ムカつくんだよッ!
虚の分際で、何が理性だ、あァ?
そんなもんにこだわったって何にもなりゃしねえだろうがッ!
人間の真似事してんじゃねえッ! テメエは虚なんだろうがッ!
大体、テメエ、そこまで強くなりながら、何をそんなにビビってやがる。
見てて胸糞悪ィんだよ! ウゼェんだよ、テメエはよ!
何のために強くなった? 生き延びるためじゃねえのか? 勝つためじゃねえのか?
何が藍染サマ、だ! 『あらゆる苦痛から解放してやろう』だと?! 嘘に決まってんだろ、このクソッタレ!
テメエが一番、頭悪ィんだ、このクソあまッ!」
「…ノイトラ…?」
ネリエルは、怒鳴り倒すノイトラを、その腹に跨ったまま呆然と見詰めた。
まっすぐなその視線に、我に返ったノイトラはふいっと顔を逸らす。
「まさかノイトラに頭が悪いって言われるなんて…」
「んだとテメエッ、そこか? …ウッ、クソ…、痛ェ」
「バカね。こんな傷だらけなのに怒鳴ってどうするの。お腹の傷、開いてるわよ」
「クソ…、テメエがつけたんだろうが…」
ふふ、と口元だけ柔らかく綻ばせて応えたネリエルの表情に、ノイトラの胸が鈍く痛んだ。
それは刀傷のように鋭い痛みでは無いけど、息を詰まらせる。
とてつもなく苦しくなる。
人だった頃の痛みを思い出させる。
「テメエは…、そうやって俺を嬲り殺しにしてんだ」
「…え?」
「俺の矜持はどうなる。雌にやられては助けられるこの屈辱、テメエにわかるか?」
「相変わらず、雌呼ばわりなのね」
棘のあるノイトラの言葉に、崩れていたネリエルの理性の殻が戻りだした。
表情が一瞬で冷たく凍る。
だがノイトラは構わず続けた。
「俺を殺せ、ネリエル。今なら俺は、救われる」
ノイトラは、虚空に輝く月へ視線を移した。
ネリエルもそれを追った。
そして肩を落とした。
─── なんでこの男はこんなに死にたがるんだろう。
浅はかな夢だわ。終わったら楽になるとでも思ってるのかしら?
そんな逃げが許されると思ってるのかしら?
ネリエルはため息をついた。
─── 本当に莫迦な男。全てに蓋をしたら楽になるとでも?
現実を見なさい。目の前の砂を見なさい。
ほら、潤うものはない。生きるものもない。
元々死んでいるあなたに、死ぬことなんてできない。
私たちにそんな自由はないのよ。愚かだわ。
ネリエルは、眼下のノイトラに視線を戻した。
─── ねえ。死ぬ寸前に、光が見えたらあなたはどう足掻くのかしら?
死にたいと願うかしら? そんなことが私たちにできるのかしら?
ネリエルはノイトラを見つめ続けた。
─── ああ。でも、できるかもしれないわね、あなたなら。
けれど、私は…?
しばらくの後、ノイトラはやっとネリエルを見た。
けれど目が合った途端、ぷいっと顔ごと視線を逸らした。
全く成長の見られないその様子に、ネリエルは口元を再度、綻ばせる。
─── 本当は、死が一番怖いのはあなたなのかもしれないわね。
ネリエルは、ノイトラの顔の両脇に手をついた。
─── でもね、ノイトラ。私も怖いのよ。知っていた?
ネリエルに月の光を遮ぎられて、ノイトラの顔が影に沈んだ。
「あなたは殺さないわ。殺してなんかあげない」
「…クソッ」
可愛げのないことと、ネリエルは肩をすくめた。
「…強くなりなさい、ノイトラ」
ネリエルの言葉に、ノイトラの目が大きく見開かれた。
そのあどけなさに、ネリエルの胸が痛む。
─── そういえばあなたの刀、解号は祈れというのだった。
相応しくないと笑ったこともあったわ。
でもあなた自身は決して何にも、誰にも祈らない。
だから、そういう解号なのかもしれないわね。
ネリエルの手がゆっくりとノイトラの漆黒の髪を梳く。
こびりついて固まった血のせいで指のとおりが悪かったが、それでもネリエルは辛抱強く梳き続けた。
─── ならば私が祈るわ、ノイトラ。
誰よりも強く、滅びよりも強くなりなさい。
そして何より、己に打ち勝てるようになりなさい。
他の誰が認めなくても、私はあなたを見ている。
私があなたのために祈ってあげる。
だからあなたは今ここにある仮の生を謳歌すればいい。
そして勝ち抜けばいい。
私は見ているから。
「もっとうんと強くなりなさい」
「…余計なお世話だ」
傷だらけのノイトラの手が震えながらもゆっくりと上がって、ようやくネリエルの頬に届いた。
「可愛くないわね」
ネリエルが、その腕の傷に唇を寄せる。
「テメエに可愛いとか言われると虫唾が走る」
相変わらずのノイトラの悪態に目を伏せたネリエルは、その腕の傷口を舐め始めた。
哀しげなその横顔に、ノイトラは言葉を失くした。
ネリエルの舌を受ける傷口が例えようもなく疼く。
「…ここだ」
ノイトラの指が、ネリエルの口唇を逃れて頬へと伸びた。そこにはノイトラがつけた傷があった。
「やっと…、やっと一太刀入れた」
ネリエルはやっと目を開けた。
穏やかな微笑が、ネリエルをいつもより子供っぽく見せている。
ノイトラは、ネリエルの肩越しに月を見上げた。
「…俺は必ず強くなる。最強になってやる」
「期待してるわ」
「嘘つきやがれ」
「あなたほどじゃないわ」
やがてネリエルの唇がゆっくりとノイトラの唇の傷へと落とされた。
その傷は浅いものだったが、月が創る二人の影はいつまでも重なったままだった。
*
それは遠い遠い昔のこと。
今は二人とも砂塵に紛れて消えてしまった。
だが一瞬を共に謳歌した嘗ての命は、歌となり、あるいは祈りとなって砂漠を駆ける風に溶けた。
そして今もこの世界を巡り続けている。
それを知るのは、耳を持たぬ夜闇の月だけだとしても。
(終)
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