今は只前へ進め
カラン、と音を立てて空のランチボックスが芝生の上に落ちた。
腕をぐっと引き寄せられ、三橋は思わずひっ、と怯えた声を上げる。
「おまえ……なんでそういう事言うんだよ」
「な、な、なんで……って……だって……だって……」
目前には苦虫を飲み込んだような阿部の顔がある。
じっと睨み合う光景は(というより、阿部が一方的に睨んでいる)爽やかな青空と芝生には不似合いといえた。
何故彼がこんな顔をしているか、睨まれた三橋には充分過ぎるほどわかっていた。
今の発言に、心底飽きれているのだ。
阿部に睨まれながら三橋は先程の自分の発言を反芻していた。
自分でも、自分が悪い事はわかっているのだろう。三橋の表情からはそんな考えが読み取れた。
それでも、考えずにはいられないから、いつか言葉になって出てしまう。
西浦に来て阿部と出会えた事を、三橋は勿論これ以上無い幸運に思っていた。
もし自分が阿部と出会えなかったらどうなっていたか。
それは今となってはシュミレーションする事さえできない怖いことだった。
探していたわけではないけれど、ずっと追い求めていた人。
だから、彼を失ってはいけない。彼に嫌われてはいけない。
だけど、失敗しなくても嫌われたらどうすればいいのだろう?
三橋がもう少し阿部の言動に気を遣っていれば、こんな誤解は起きようもない。
本当に嫌われてからなら未だしも、現時点でこんな事を考えるのはくだらない杞憂である。
それがわかっていても、考え込んでしまうのが三橋廉という男なのだ。
考え始めると止まらない、悩みはぐるぐる蔦となって三橋の手足に絡みつく。
「三橋………黙ってるだけじゃ、わからないだろ」
重みを含んだ声。先程より凄みは消えたが、決して機嫌が良くなったわけではない。
とはいえこの状況では、優しく尋ねられたところで、自分の不安を口にすることなど三橋にはできないだろう。
”口にしたら、嫌われるかも知れない。
もう相手をして貰えないかも知れない”
そんな不安のループに陥る。
こうやって嫌な方にしか考えられない、こんな自分の事を三橋は決して好きなわけではない。
こんな性格でなければどんなによかっただろう。もっと普通の性格に生まれて居れば―――。
だけど、そんな風に考える自分の事はもっと大嫌いだ。
阿部は三橋の腕を離し、そっと片方の手を掴んだ。
いつもと同じかそれより低温の手に、内心眉を顰める。
三橋は会話の術を失くしたように俯き、やがて肩を震わせて涙を滲ませた。
「ふっ……ふ、ううう……っ」
泣き出した三橋を見て、阿部は自分の血の気が引くのを感じながら宙を仰いだ。
”―――! ……また、やっちまったか……これって、やっぱりオレが泣かせたって事だよな………。
くっ! これで入学して顔を合わせてからこいつを泣かすのは8回目。泣き顔を見るのはこれが19回目だ……!”
数字に関しては不必要にいい自分の記憶力を恨めしく思ったのは、これが初めてだった。
阿部はしばらく泣いている三橋を恨めしそうに見つめながら、彼の呼吸が落ちつくのを待った。
「……どうして、何も言ってくれないんだ」
間に充分な間があり、肩をひくつかせながら三橋は言った。
「い、い、言ったら……お、怒る……から」
阿部は深い深い溜息をついた。
「あいっかわらず、卑屈な考えしか無えーのな」
「そ、それでも……オレ……いいんだ……」
だって、嫌われるより、マシ、だから。
彼がそう訴えている事は、言葉にせずとも明らかで、阿部は心の底から怒り出したくなるのを堪えるのが精一杯だった。
「バッカじゃねーの、おまえ」
三橋の必死の訴えを、阿部は一喝の元に振り払った。
「おまえは充分必要とされてるだろ。オレだけじゃない。西浦のみんなに。なんで、それががわかんねーんだよ?」
「………………わ、わかってる……けど………………」
三橋の内心を聞き出すのは時間がかかる。
阿部は”忍耐、忍耐”と自分の内部で絶叫していた。
「……でも……今は必要とされてても、いつか……失敗するかも知れ、ないし」
「………………」
三橋の涙交じりのたどたどしい声を、阿部は黙って聞いていた。
「いつか、嫌われるくらいなら、最初から嫌われて居た方が楽、だ……」
今更聞き出すまでも無かった三橋の心情に、阿部は今度こそ本当に脱力した。
”一体コイツには、なんて言えばわかるんだろう? 誰かオレの気持ちを通訳してくれ……。
何度も何度も言えば、いつかわかってくれる日が、来るんだろうか?”
「あーのーなー………三橋………」
言葉に迷いながら、阿部は遠い空を見上げた。
”―――そう、何度だって、言ってやるしか無いんだ”
「三橋……みんなおまえの事を必要としてるんだよ。けど、たとえ誰かに必要とされてなくても、そんなこと関係ないだろ」
「…………え?」
思いがけない阿部の言葉に、三橋は目をしばだたせた。
「おまえ、ピッチャー好きなんだろ」
「う、うん……」
「みんなと野球がしたいんだろ」
「うん」
「誰にも譲りたくないんだろ、エースの座」
三橋ははっと顔を上げ、少し意識を集中させていたが、やがて力強く頷いた。
「…………うん!」
迷いの晴れた顔に、阿部はよし、と頷いて微笑んだ。
「だったら、もう関係無いって」
「…………」
三橋が何か聞こうと口を開けた時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「お、予鈴だ」
立ち上がり、三橋にも立ち上がるよう促せる。
「さ、行こうぜ。授業始まるぞ」
「あ、う、うん……」
三橋はうわの空で返事し、走る阿部の背中についていった。
授業中、三橋は何度もその言葉を思い出していた。
”関係……ない? ”
それは一体、どういう意味なのだろう?
いつのまにか、手はすっかり常体温を取り戻していた。
『関係ない』
明確な意味のわからない言葉は、魔法のように三橋の手の中にずっと残り続けた。
彼にとってその言葉の意味が本当にわかる日が来るのは、まだ先の事だった。
大好きな事、ひとつでも賭けられる事、夢中になれなきゃ生きてる意味無いっしょ。
2007.07.30.Sioux