涙の願いを抱き締めて、喩え残酷な祈りでも。(※第50回ネタバレ?)
今時期は、はらはらと落ちる銀杏までが人恋しいのだろうか。
先日降った雨のせいで水分を含んだ葉は、樹液と混ざってべたべたし、落ちてはうっとおしく頭や肩に張り付く。
髪についた葉を手で払うと、冷たい朝露が睫毛の間を縫ってぽたりと顔に落ちた。
「冷てっ」
「だ、大丈夫? 阿部くん」
急に大声を上げた阿部に三橋が声を掛けた。季節は、冬に近い秋だった。
「ちょっとびっくりしただけ。最近、寒くなったな」
「うん」
「そこの自販機のとこにベンチあるだろ。コーヒーでも買って飲むか」
「あ、うん……オレ、ココア買う」
「あーはいはい」
秋晴れは女心のように気紛れと言うがまさにその通りで、ここ一週間は降っては止んでの繰り返しという天候で、
部員達は皆練習時間やグラウンドの整備に悩まされた。今日は久々に朝から快晴である。
自販機でそれぞれ飲み物を買い、缶の暖かさに一喜しながら二人は隣のベンチに腰掛けた。
「うわーベンチも冷てーな。……もうすぐ冬か。朝練とか、ツライよなー冬……」
「う、うん、ほんと、だね……?」
三橋は適当に言葉を合わせながら阿部の横顔を見ていた。
コーヒーの熱を嬉しそうに味わいながら寒さの痺れを解く彼の表情は、
ここで飲むことによっての寒ささえ満喫しているようで、言うほど冬が苦手なように思えなかった。
「もしかして、阿部くん冬好き?」
「あー練習とか関係なければ、単に家で寛ぐのは好き、かもな……」
「そっか……」
やっぱり、と心の中で思う。彼が普段より機嫌が良さそうに見えたのは、気のせいでは無かったのだ。
三橋はなんだか自分の気持ちの高揚を感じた。最もそう言うと普段が随分気分屋のようだが、そういうわけではない。
苛立たせているのは専ら自分だという自覚がある三橋は、阿部の機嫌が特別悪くないだけで嬉しさが込み上げるのだ。
そういえば、彼は12月が誕生日だと言っていたから冬生まれだ。
自分が生まれた季節は誰でも好きだと聞くし、自分も春から夏にかけての爽やかさが好きだから、やはりそういうものかも知れない。
「年が明けたらもう春の選抜だしな。そう考えると一年って早いな」
「春の……うん……そうだね。……あ、あの……オレ、そういえば、ずっと阿部くんに言いたい事があったんだ」
「なんだよ?」
「……最初にオレを、投手として、認めてくれた、時、の事……」
「は?」
当惑する阿部に構わず、三橋は一気に喋りだした。
「…オレ…阿部くんが居なかったら……今もずっとダメピーのままだった、って、思うんだ。
ううん、もしかしたら、もう野球続けてなかったかも知れない……阿部くんが、オレを本当のエースにしてくれたんだ、よね。だから、ありがとう、って……」
「あはははは!」
声を上げて笑い出した阿部を、三橋はきょとんと見つめるばかりだった。
呆れられる事はあっても、大笑いされるとは思っていなかったのだ。
「バカ、だな、お前。何言ってんだよ今更。それに、なんで今? トートツだよないつも」
何かを思い出したように、くすくすと笑う。
「だ、だって」
「オレなんか全然カンケーねえよ。おまえは実力でエースになったんだよ」
「カ、カンケーなくないよっ! オ、オレ、阿部くんが居なかったら……」
阿部は味わうように缶コーヒーを飲み干し、ふうっと一息ついた。
三橋の熱い答弁など、何の関心も無いようだ。
「そんな事、もうどっちだっていいよ……それより、礼を言わないといけないのは、オレの方、かも」
「えっ?」
小さく付け足した語尾の言葉に、今度は三橋が戸惑いの色を示した。
「この際だから聞けよ」
「う、うん……」
「……会ったばっかの頃、おまえにはオレの言うとおり投げろとか色々と言ったけど、
あの時、オレは誰の事も興味無かったし、誰かを信じようなんて思わなかった。……おまえの事も、だ。
ただ、自分が自分の野球をできれば、それでいいと思っていた」
「……?」
”自分の野球ができればいい? それって当たり前の事なんじゃないの、か?”
阿部が何を言おうとしているのか皆目見当のつかない三橋は、首を捻りながらそんな事を考えていた。
「自分の好きな事を、好きなようにできればそれでいいと思ってたんだ。他人の気持ちなんて、お構いなしだった。
おまえの為にとか、チームの為にとか……そんな風に考えた事なんて無かった」
ぎゅっと握りこんだ手が、微かに震えているように見えた。
「……阿部くん……」
「……オレは誰かを信じるのが……怖かったんだ。期待して、それを裏切られて、傷付きたくなかった。だから誰にも本気になれなかった。
心を閉ざしたままでも、うまくいくと思ってたんだ。信じて力をあわせるとか……そんな事をしなくても、オレは勝てると思ってた。
おまえの気持ちなんて、見えない振りをして過ごそうとしてた」
「………」
「でも、おまえが教えてくれたんだ。信じる事も、力をあわせる事も……今思えば、そうだ。おまえが、オレに教えてくれた」
「……え?」
「それからは、本気でおまえの力になりたいって思った……でも、必要無かったな。
おまえは……オレよりずっと強いんだって思ったよ。オレの方がずっと、おまえに頼ってた」
「…………オレ……が……?」
心そこに無い表情で、三橋が呟いた。
彼が何故こんな事を言い出したのか、三橋にはまったくわからなかった。彼の方がよっぽど唐突だと思った。
強い人、だと思っていた。いつどんな時も、彼は三橋に諦めさせてくれる事はしなかった。
どんなに迷ってる時でも、勇気をくれる人だった。力強い腕で、真っ直ぐに手を引いて―――。
「オレは、自分だけの殻に閉じこもっていた……おまえに会わなかったらきっと今もオレは一人で野球やってたんだろうな、って思う。
オレを変えてくれたのは……おまえの方だ、三橋」
「そんな……オレは……何も……」
三橋はそこが居心地が悪い場所のように身体をもじもじ動かした。これまでも何度か、彼に感謝の言葉を口にした事はあったけど、改めて言ったことはあまり無かった。
それでも心の中では感謝するばかりだったのだ。彼が居なければ、今の自分は絶対に無いと信じている。
――多分、命より大事なものを、彼に救って貰ったのだ。そんな恩恵の念さえ持っていた彼に、逆にそんな事を言われるなど想像もしない。
考えてみれば嬉しい事なのに、今は疑問ばかりが先立って素直に喜べなかった。どんな顔をすればいいのか、わからなかった。
自分にとってこれほど居心地の悪い場所は、早々無いように三橋には思えた。
「なァ、一度しか言わないから、よく聞けよ」
「……え……」
「………ありがとな……三橋」
小さな声で、それでもしっかりとこちらを見て彼は言った。灰色の世界に光が差すように、目に赤が霞んだ。
「阿部くん…………どうして……泣いてるの」
「バカ。見ない振りしろよ。目にゴミが入っただけだって」
そう言って項垂れた阿部に、三橋は恐る恐る手を伸ばし、そっと頬に触れた。
「阿部くん……オレ……ずっと、ずっと、いるよ。阿部くんが捕手やる試合は、オレが阿部くんに、投げるんだよ。怪我も病気も、3年間しないんだ」
「何……言ってんだよ。お前……その台詞……」
咎めるような目で、阿部顔を上げた。――当然だ。
この台詞に纏わる結果について、三橋は当然知っている。夏の大会で苦渋を舐めた事を、二人とも昨日の事のように思い出せた。
なのに、今その台詞を言う事は―――
「……おまえなァ、もうわかってんだろ? そういう事は軽々しく約束するもんじゃ―――」
「……オレは、怪我、しないよ。本当だよ」
責もうとした言葉が止まる。こちらを見る三橋の瞳は真摯に澄み、何もかも吸い込まれそうだった。
「だから、ずっと阿部くんに投げるよ」
「………バカ………バカ!!」
そうして俯くと、小さな声で、今度は絶対に三橋に聞こえない小さな声で、ありがとなと呟いた。
本当に、バカなヤツだ。懲りないヤツだ。本当に――バカだ。本気でそう思う。
なのに、次から次へと涙が零れ落ち、止まらなかった。
子供のように小さく震える阿部の肩を、包み込むように抱き締め三橋は、
”見えない世界が飢えようと滅びようとオレには関係ない”
”――ただ君が、泣かない世界であればいいのに”と、思った。
2007.12.14.Sioux