然りとて、それは無限の自嘲。 (※第48回ネタバレ)









マウンドを降りた三橋は誰よりも早い足取りで阿部の元に戻ってきた。
「阿部くん、大丈夫?」
弾む声とは裏腹に、暑さと疲れで充血したのか少し赤く腫れた目をしていた。
「大丈夫だ」
ひとことだけ言って、なるべく平穏を装い視線を外す。

”―――ああ、オレはどうしてあの時”

怪我で麻痺した意識下で後悔の波だけは止まらなかった。
周囲の誰もが、彼が悔やんでいるのは怪我をした事だと思っていただろう。
無論本人も怪我を悔やんでいないわけでは無いが、実際は彼は怪我をした事とは全く違う事を後悔していた。

”こんなところに座り込んで、キャッチャーなんか出来ないのに、どうしてオレはここにいるんだろう?”

ぼんやりとした瞳に乾いたマウンドが映る。
慌しく動くチームメイトや応援の声が、何故かスクリーンの中のように現実感が無かった。

ずっと―――。

”オレが導いてやる筈だったのに。そう約束したのに。そうじゃないと、オレが居ないと、三橋は―――”
そこへ来て漸く自らの考えの矛盾に気付く。……違う。それは違う。

”―――頼っていたのは、あいつの方じゃなかったんだ。オレが、あいつに、頼っていたんだ”

三橋が頼っていたのは、キャッチャーとしての阿部隆也だった。
だけど今はわかる。自分が頼っていたのは、三橋廉個人なのだと。

”……そうだ。オレは勘違いしていたんだ。ずっと、三橋はオレ自身を頼ってると、思い込んで―――”

落ち込んだ胸の窪みから、奇妙な鼓動が阿部を責めた。
阿部は自分に言い聞かせるように口中で呟いた。馬鹿な事は、考えるなよ。
”この試合を乗り越えたら、三橋はもうオレを必要としないかも知れない。―――なんて”

三橋がこんなことくらいで、自分を棄てる訳は無い。怪我をして自棄気味になっているだけという事はわかっていた。
道理を理解できない子供じゃあるまいし、怪我でキャッチャーが出来なくなったぐらいで三橋が阿部を責める筈は無い。

今までだって、どこかで誰かとの約束を破った事くらい何度もあったではないか。
破ったところで必ずしも終わりでは無かったし、そんな事で崩れてしまう程三橋との関係は脆くない。
それは自惚れでも何でもない、事実だと彼は知っていた。

自分自身も誰かに約束を破られた事はあったし、そんな事をいつまでも気にしない。
誰かとの約束をひとつも破らないで生きてるヤツなんて、早々存在するわけが無い。

スポーツをしていれば、一度や二度怪我をするのは当たり前だ。そう、三橋だって、わかってくれる。

そう言い聞かせても、何も変わらなかった。
無意識のうちに息苦しさを覚え、心臓を抑えるようにぎゅっと手を当てる。

”どうしてだ。オレは故意にウソをついたわけじゃない、なのに、どうして―――”

今まで何度も越えてきた壁なのに、どうして。
こんな事は怪我をした事実から比べれば、何の他愛も無い事だ。
今はそれ以上に心配しないとならない事が沢山あるじゃないか。
目の前の試合の行方。この怪我の回復具合から完全復帰まで。そして、何より三橋の事。
”なのに、こんな事が気になるなんて、オレは……”

「阿部くん」
はっと顔を上げると、三橋はグローブを小脇に抱え決意を感じさせる瞳でこちらを見ていた。
「阿部くん、オレ行って来るね」
「……ああ」
自軍の攻撃が終わり、マウンドに戻る三橋の背中を見ながら”オレはもうあそこに戻れないんじゃないだろうか”そんな不安に囚われた。
”戻ってももう、あの時のままのオレ達とは違うんだ”

これからはただの『投手』と『捕手』になってしまう。そんな気がしてならなかった。
怪我はいつか治る。それを承知しての感傷である事はわかっていた。けれど、一度零れた水は永遠に戻らない。

”オレが本当の意味であそこに戻ることは、三橋の前に座る事は、もう―――”
目頭に込み上げてくる何かに絆されるように、阿部は掌に顔を埋めた。

「―――バッカ、だな……」

震える肩を周囲に見せない気遣えさえ、その時は失っていた。

「たかが、約束事じゃねえかよ……」






遠凪のように澄んだ空の下、試合はまだ続いていた。






2007.08.30.Sioux