君の想いを貫き通せ (※第50回ネタバレ)
思えばこれまで誰の前でも構わず泣いてはその場を遣り過ごしてきたけれど、他人に本当の涙を見せた事は無かった。
自分で考えてそうしていた訳でも、隠していた訳でも無い。
憎しみや悲しみや怒り、そういった世間の色々なものに翻弄され自分を見失い、自分が何を望んでいたのか見失っていたせいだ。
『迷わず前へ進めばいつか道は拓ける』他人はそんなことを言うけれど、
物理的ではない”前”がどちらにあるのかさえ見えない自分には何の指針にもならなかった。
こんなものが自分に与えられた試練だと言うなら、もう何も要らないと思った。
『いつか誰かに認めて貰えれば』そんな事ばかり考えて生きてきた。
三星では不本意な事ばかりあったが、畠達に嫌われる事や孤立する事が怖い訳ではなかった。
彼にとって本当に怖い事は、畠達チームメイトの事とは関係の無い外れたところにあったのだ。
あれからどれくらい時が経ったのだろう。
多分この先どんな人とどこで会ったとしても、本当の気持ちを話す事は無いだろう。
誰かと全てを分かり合える事など幻想に過ぎないのだと、そんな風に思っていた。
だが変化はある日、自分さえ気付かないところで何の前兆も無く訪れた。
”君がオレを変えてくれた”
少なくとも、三橋廉本人はそんな風に思っていた。
”他人の言う事になんて耳を貸すな”
阿部と出会ってからは、不安になるといつも心の中にそんな声が聞こえた。
最初は迷いを消す、不安から逃れる為に返されていたキーワードだったが、
それはいつしか三橋廉という少年から切り離す事ができないものとなっていた。
彼が特別何かをくれた訳ではなかった。そういう事とは微妙に違っていた。
いつの頃からか――いや、出会った時から彼とは、言葉を交わす必要など特に無くなっていた。
勿論自分が口下手だったせいもあるが、どちらかというと彼が寡黙だったせいもあるだろう。
その存在さえあれば、誰もわかってくれなくてもいい。誰も認めてくれなくてもいいと思えるようになった。
けれど感謝の気持ちを表そうとすれば身ひとつではとても足りない。
とにかくそこに彼――阿部隆也という少年さえ居れば。
”オレは臆さず行けばいい。だって、オレはもうどこにも行かなくていいんだから”
一所懸命、精一杯の力で投げればいい。それが今の三橋に出来る事たったひとつの事であり、彼にしか出来ない事だった。
「傷付く事に価値はある」と言っていた誰かの言葉の意味が、今ならわかるような気がした。
立ち向かう為の勇気、超えていける力、信じて戦う心。
彼はその全てを阿部から貰う事ができたのだ。
けれど手に入れてみると、本当はそんな事どうでも良かったように思えた。
三橋廉が本当に手に入れたかったもの、それは彼に与えられたようで、彼に与えられるものではなかったのだ。
もしもこんな心中を誰かに話したら、最低だと人は彼を蔑むだろう。
人間とは一度手に入れたものを自らの力で手に入れたと思いがちな生き物だ。
人の恵みの全ては世界から与えられて成しているものだというのに。
自分がこんな傲慢な人間だなどと、彼は知らなかったし思いもしなかった。
けど、
そんな自分勝手な思いさえ、彼だけはわかってくれる。黙って頷いてくれるだろう。
それが自分の妄想では無い事を三橋は知っていた。
何故なら彼と自分が求めているものは、同じものだからだ。
瞳を見ればわかる。答えはいつもそこにある。彼がくれる。
彼にとってはその場所が、世界中でたったひとつ、呼吸ができる場所だった。
この思いを後悔する時が来たら、その時はすればいい。
その時だけはきっと、みんなで思う存分泣いていいんだ。
暗黒は暗黒、勝敗は勝敗、希望とは別のものである事を、今の彼は知っていた。
”わかったんだ。オレは甘えていた。関係の無いオレの傷まで押し付けて、君に癒して貰おうとしていた”
グローブの中で、三橋は強くボールを握りこんだ。汗を拭く。
マウンドから三橋が飛ばした視線に気付き、阿部は黙って首を頷かせた。知らず自分も首を縦に振る。
今、ホームベースでミットを構えているのは、彼では無い。
とても信じられる、彼では無いチームメイトなのだ。
”オレの傷はオレのものなんだ。抱えて行くよ。もう涙は出ない。怖くないよ”
そうだ。迷う事はもう、無い。
今はこの想いを胸に、只、真っ直ぐに前を見て―――。
2007.11.16.Sioux